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指輪と転勤。それからステーキ。 3

夕飯を買おうとコンビニに足を踏み入れ、ドリンクコーナーへ寄った直後だった。 決意は思った以上に早くその機会を得た。 「あ」 声に出したのは自分だけらしい。 触れそうになった指先の持ち主に、目を見開いて見上げられた。 マスクで隠れた口元は、きっと自分と同じ形をしているだろう。 二人が同時に手を伸ばしたペットボトルを、どうぞ、と手のひら見せて譲る。 閉店間際の院内なコンビニ。 永瀬も私服だ。勤務外なのは明白だった。 黒いタートルネックに少し膨れた形のデニム、足元はローファー。 デニムと靴のほんの数センチの隙間から真っ白いソックスが見えた。 カーキ色のノーカラーコートを羽織っている。 小ぶりのリュック、やはり目元の大きいメガネのせいで顔は小さく見えた。腕には、赤いチェックのストールが掛けられている。 髪が解かれていた。 仕事中の姿よりも随分とラフに見える。 その姿は永瀬を、凛太朗 という名前から更に遠ざけていた。 「お疲れ様でした」 永瀬がそう言って頭を下げると、肩までの柔らかそうな髪がさらりと揺れる。 甘いのに小ざっぱりとした匂いを残して立ち去るその小柄な背中に「あの」と慌てて声をかけた。 くるりと振り返った永瀬は、佐伯を確認するように一度瞬きをして「なんでしょうか」と抑揚のない声色を発した。 その感情の見えなさは、佐伯を妙に焦らせた。 多少の苛つきや不快感を露わにされた方がまだ取り憑く島もあるように思える。 何を言えばいいのかわからず顔を顰め、今にも唸り出しそうな佐伯を見ていた永瀬が不思議そうに首を傾げた。 「あの、永瀬先生もこれで終わりなら飯行きませんか?その、一人で食うのもアレだし」 結局、数秒迷って出たセリフに自分でも驚く。 言った途端、怪訝な顔に変わる永瀬に焦りは加速した。 「いや、あの、あれです。さっき、気分悪くさせちゃったかなって」 突発的な言い訳を重ね、一旦姿勢を立て直すように呼吸をしてから「すみませんでした」と頭を下げた。 揉めていると思われたのか、二人の横を通り過ぎた店員がチラチラとこちらを気にしていた。 その事に気付いた永瀬は「まず買ってしまいましょう」と、手に取ったミネラルウォーターをもう一本懐に抱えるとスタスタと無人レジへと向かう。 会計を待ち、再び永瀬に近づくとたった今購入した一本を差し出されて、素直に受け取るしかなかった。 「すんません、」 小銭が入っているはずポケットに手を突っ込む。 乱雑に弄った拍子にこちらも入れっぱなしだった小さなリングケースがポロリと足元へ落ちた。 まずは小銭が先、と硬貨が重なる手のひらを広げてみたが、百十円すら払えないほどしかポケットには入っていなかった。 小箱は、永瀬のローファーのつま先にバウンドして、床へと着地していた。 お互いその小箱を真ん中に、ややしばらく視線を下に向けていたが、永瀬はゆったりとした動作でそれを拾い上げる。 「大事なものに見えますけど」 永瀬の手に持たれた紺色のスウェードの小箱。 「…すみません」 自分を落ち着かせるように、もう一度深く息を吸って吐いた。 会釈をしながら受け取り再びポケットに戻す。 何度も謝る佐伯に、永瀬は表情ひとつ変えず「構いませんよ。それじゃあ、お疲れ様でした」と淡々と締めにかかった。 永瀬がとにかくこの場を切り上げようとしている事はわかる。 わかってはいるが、引き下がる事もできずに佐伯は必死に言葉を繋ぐ。 「あの、俺今めちゃ腹減ってて。昨日、臨時オペで眠くて……いや眠いのは今はいいんすけど」と支離滅裂な単語を並べ立てる。 永瀬のマスクの奥からの大きめのため息は、もういい加減にしてくれ、という言葉よりも雄弁だった。 あれこれ考えていても埒は空かないし、今は正直な気持ちを伝える事しかできない。 「それより謝りたいし。奢ります。なんでも。なんでも良い。寿司でもすげえ良い焼肉でもなんでも」 前のめりに詰め寄ると、同じ分だけ距離を取られる。 不必要なまでに必死に見えたのか、永瀬はジ、と佐伯を見て横分けの前髪から覗いている形の良い眉を寄せた。 「奢って、謝って、君は自分の気持ちを清算したいだけでしょう?」 起伏のない言い方だ。 図星を突かれ、ぐっと言葉が詰まってしまった。 更に重ねようとした言い訳を飲み込む。 「そう、です。飯が嫌なら別な事、なんでもする。清算させて下さい」 永瀬にとって、佐伯の行動は予想外の反応だったようだ。 永瀬は一瞬驚いたように、メガネの奥で何度か瞬きをした。 それから視線を横に流す。 佐伯が目線を外さないまま永瀬の反応を待っていると、たじろぐような永瀬ともう一度目が合う。永瀬は気まずそうに今度は顔ごと横を向いた。 永瀬には、佐伯が待てをされた犬のように見えていたのかもしれない。 諦めたように肩で息をした永瀬は「本当に大丈夫なんですけど」と、心底困った、というように佐伯を見上げた。 「永瀬先生が気にしなくても俺は気にする」 一秒すら間を置かず、半歩分物理的な距離を縮めた佐伯の返事に永瀬は怖がるように今度は肩を窄めてしまった。 昔から、少々強引すぎるところはあった。 決めたら曲げない根性は、長所でも短所でもあるよ、と父親に言われて育ってきたほどだ。 それにこの体格差だ。 185センチの佐伯が、160センチほどであろう永瀬に詰め寄ったら、怖がられるのも無理はない。 ハ、と我に帰り佐伯は一歩下がり距離を作る。 その分だけ、永瀬の薄い肩からも力が抜けたようだった。 「まず、さっきの聞こえたと思うけと、ビビるっていうのは、あれ。ほら。先生が、普通に。普通に綺麗だからさ。そんなんが男湯に来たらビビるし。男だったら女湯入ったら変っていうか…上手く言えてるかわかんないけど、そういう意味で…。先生が、その、どっちなのかわかんないけど…」 努めて冷静になったつもりで口を開いたが、途中から自分が何を言っているのかさっぱりわからなくなる。 もっと理論的に説明して誤解を解かなければなないのに何を言っても失言と取られてしまいそうなのだ。 弁解がいよいよ意味不明になったところで、佐伯は首を掻いて切り上げた。 視線を逸らし次の言葉を探していると、手に掛けていたストールで口元を隠した永瀬から、ふふふ、と静かな笑い声が聞こえた。 「本当に気にしてないんです」 永瀬は笑い顔のまま頷き「でも、悪意はなかった、と処理しておきます」と目元を細めた。 メイクなのかもしれないが困り眉に見える眉毛のアーチが、無表情だと思っていた永瀬をひどく優し気に見せた。 「あ、や、本当に、本当の事で」 「君、さっきから日本語めちゃくちゃだよ」 今度は、マスクの上から両手で口元を抑えて、永瀬はやはりクスクスと笑う。 陽太の笑顔のように、パッと花火が上がったような明るい笑い方ではないが、小さな鈴蘭の花が鳴るように、静かに小さく笑う永瀬。 更に、くふふ、と笑い声が聞こえて、佐伯は頬が赤くなる。 それは単純な恥ずかしさからだった。 「あー、もう。いいっす。それは。それはそれとして、飯。どうなんすか」 羞恥で耳まで赤くなってはもう、理論的になど答えられるはずもない。 「君、ちょっと強引じゃないかな」 「そういう性格なんで」 「そんな体格が良いのに、あんまり強引だと怖がられるよ」 細められた瞼がそのままなことに、少しだけ気分が良くなる。 「飯、行きましょうよ。腹減って死ぬ」 不貞腐れたような佐伯の誘いに、永瀬からは再び大きすぎるため息が溢れたが、佐伯は気付かないふりをした。 「それで君の気が済むなら」 呆れ笑いで永瀬は首を傾げた。 前髪がさらりとなびく。 小さな耳たぶで光る、更に小さいピアスを見つけた。

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