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指輪と転勤。それからステーキ。 4
「実は食べたいものがあるんです」と言われるがまま永瀬の小柄な背中に着いて歩く。
夜の七時を回っていた。
市街地にある病院とはいえ、ネオンも乏しい小さな町だ。
外はまだ、溶けかけた雪が歩道の隅に残っている。吐く息はまだまだ白い。
病院敷地内の外れの駐車場に案内され、どうぞ、と言われ永瀬の車の助手席に乗り込んだ。
えんじ色のミニクーパーが小柄な永瀬によく似合っていた。
永瀬は腕に掛けていたストールを綺麗に畳み直し、後部座席へと置く。
特に会話もないまま、車はすぐ近くのラーメン屋と思わしき店の前で停車した。
あまりにも気楽なその外観に、気を遣われたのかという不満がほんの少しだけ募るが「病棟、夕食カレーだったでしょ?」と言われ、病棟内にカレーの匂いが漂っていた事を思い出す。
数歩先回って店内の扉を開けると小さく笑われた。
「食べたくなっちゃって」
そう言いながら、永瀬は出迎えた店員に、二人です、と指でピースを作った。
店は、ラーメン屋でもカレー屋でもなく、定食屋というわけでもない。ラーメンとカレーが売りのチェーン店のようだった。
永瀬はメニューをパラパラと捲ると特製出汁のスープカレーを頼む。
佐伯は、辛味噌チャーシューの大盛りに炒飯を付けた。
「もっとちゃんとしたところでよかった」
「本当に食べたかったんですよ。仮に自宅に帰っていても作ってた」
「時間かかるんじゃないの?」
「今は十分で作れるものが市販品であるんです」
「…へえ…」
浅く何度か頷いた微妙な返事と広がりそうもない口ぶりに「自炊は、しないみたいだね」と永瀬は肩をくすめた。
男でも料理くらいはできないとという風潮が漂う昨今だ。
「いや、買い物っていっても車ないし。家も病院の近くの借り上げだしコンビニしかなくて」
マイナス要因に取られた気がして、ごちゃごちゃと言い訳を並べる。
「まぁ、君くらいの歳の頃が1番大変かもしれないね」
永瀬は一人完結すると「でも車が無いと本当に不便だよ」と僻地での生活苦を口にした。
佐伯は、数秒黙ってから運ばれてきた水に口をつける。
「前は、付き合ってる人が持ってたし」
背もたれに身体を預け、注文は終えたのにも関わらず、特に意味はなく手持ち無沙汰にメニューを開いては、結局テーブルの隅に設置されたスタンドに戻した。
「結構忙しくて出かけたりとかもあんましなかったけど」と続けるが、永瀬はそうですか、と相槌を打っただけだった。
店内は程よく賑わいを見せている。
一組ずつの座席もパーテーションで区切られていた。
「佐伯さんは札幌の救急センターにいたんですよね?北大27年卒業。あと…、あ、フットサルしてた」
会話の無い中、急に振られたのは自分の話題。
言い当てられた内容に驚く。
「え。なんで知ってんすか?」
「うちのパートさんが言ってましたよ。新しく来る脳外のドクターがめちゃくちゃイケメンらしいって」
「イケメンかはわかんないけど個人情報でしょそれ」
些か恥ずかしさを感じ、わざとぶっきらぼうに答える永瀬は小さく笑い「なんだかんだで、狭い世界ですからね」と眉を下げた。
会話の途中、料理が運ばれてきた。
永瀬はマスクを外すと、内側に向かい綺麗に折りたたんでポーチに仕舞い、代わりにハンドタオルを手元に置く。
永瀬の目の前に置かれたスープカレーには、ごろごろと素揚げの野菜が浸っていた。
永瀬は美味しそうと微笑んで、手を合わせて頭をぺこりと下げてからいただきます、と小声で言った。
鮮やかな南瓜をゆっくりと口へ運ぶ。
物は言わぬが、口角が上がっていた。
下唇の左側に小さな印があった。
筆先でかすかに触れたくらいの黒子だった。
まぁ、永瀬が良いなら良いかと納得して佐伯も自分のラーメンへと箸を沈ませた。
「佐伯さんはスープカレーの正しい食べ方を知っていますか?」
自分が思っているよりずっと、胃は空腹状態だったようだ。
ずるずると麺を啜り、ガツガツと炒飯に食らいつく佐伯だったが投げかけられた質問で、箸のスピードを緩めた。
「…さぁ。スープなのかカレーなのかわかんなくてあんま食べたことないっす」
素直な回答に、永瀬はハンドタオルで口元を押さえてやはり静かに笑う。
「私もわからないんですよね」
呟くようにそう言ってから、永瀬は銀のスプーンでご飯を掬い、スープに浸して口へ運ぶ。
永瀬と同じ食べ方をする人間が多いようには思うが、それが正しい食べ方かどうかなんて気にした事など今の今まで一度もない。
箸にひっかかかり宙に浮いたような麺を一度どんぶりに戻し汁に浸す。
「…好きに食べて良いんじゃないすか?昔ご飯全部入れて母親に怒られた事ならありますけど。よくないすか?全部食べるんだし」
数秒の逡巡の後の返答に、永瀬はおかしそうにクツクツと笑った。
そんなに笑える話だっただろうか、と佐伯は首を捻って、再び麺を啜り始めた。
もう一味欲しくなり、餃子を追加で頼む。
永瀬は目を丸くして、その食欲に驚く。
「もしよければ永瀬先生もどうぞ」
皿をテーブルの真ん中に移動させると「もうお腹いっぱいで無理ですよ」と永瀬は難しい顔をしていた。
満たされた腹をさする。
お家まで送ります、という永瀬に甘えて再び助手席に座った。
ふう、と永瀬が一息入れたのは満腹感からだろう。
「払います。自分の分」
永瀬がリュックから財布を取り出すのを「いや、マジでいらないっす」と手を使って静止する。
でも、と口を尖らせた永瀬に「じゃあ次の機会は永瀬先生が」と言って財布を仕舞わせた。
帰りましょうか、とエンジンがかかり車が動き出す。
市街地に連なる低い建物は、星が瞬くの空に溶け込んでいる。
寂しい街の明かりが車窓を通り過ぎていく。
無言の車内には、対向車線の車の音と、温風を吹き出すエアコンの音。
このまま五分も進めば佐伯のマンションには着いてしまうだろう。
その中で、永瀬はゆっくりと口を開いた。
「自認性は女です」
突然発せられた永瀬からの言葉にリアクションは取れなかった。
一言何か、と思えば思うほど身体も硬くなっていく。
そんな佐伯を永瀬は見透かしていたのかもしれない。
永瀬は前を向いたまま、クスクスと笑う。
「女、というより自分ではトランス性とカテゴライズしてますよ。驚かれるかもしれませが、2年前から女性ホルモンの注射も」
「あ、いや、別に」
気の利いたセリフなど思いつくはずもなく口籠る。
気にしてない、と今度は佐伯が言う番になった。
けれども永瀬は、それも理解しているかのような、達観さえも感じる穏やかさで「君が気にする事は何もありませんよ」と続けた。
これは逆に怒りを感じていたのではないかという思いに至り、ちらりと永瀬の顔を覗き見るが、間違えても怒りを感じるがゆえの話題には見えない。
永瀬は「それから」と前置くと「公衆浴場は行きません。職場にいる時のお手洗いは裏口の清掃職員さんが使用している個室のお手洗いを借りているので心配ご無用です」と、そう続けた。
そこには少し揶揄いも混じっているようだった。
イタズラな含み笑いが、そう見せた。
「すんません」
もう何も言えず項垂れるしかない。
今日何度かわからないくらいの謝罪だ。
「先に開示した方がめんどくさく無い場合もあるって事を学習してるんですよ、これでも。ちなみに職場での開示はしていません。戸籍も変えてないですし雇用主には特に言及もされていないので」
あくまでも淡々と話を進める永瀬を横目に見る。
点々と灯るオレンジ色の街灯が、永瀬のメガネのレンズに反射していた。
赤信号で車が止まる。
車通りは多くない。
「…スカートとかじゃ、ないんすね」
ふいに素朴な疑問を口にしてみる。
きっと似合うだろうに、となんとなく思う。
え?と眉を寄せて信じられないものを見るような永瀬とバックミラーで目が合った。
「君、女性の解像度低すぎない?女性が全員毎日スカート履いてる?今までどんな子と付き合って来たの」
心底呆れたような言い方だ。
これには僅かながらに反感を覚え、ム、と口を歪ませる。
「や。履いてないのはわかるけど、女の子とは付き合ってないっていうか」
勢いに任せたその口を引っ込める事は今更できないように思った。
「男の方が、その、合うんで」
尻すぼみになる台詞に、視線はいつの間にか助手席に座る自分のつま先に移動していた。
静かだった。
カーエアコンの温風だけが、足元を暖めていた。
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