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第1話

     1  九月も後半を迎えたが、ネオンまばゆい繁華街は、夏のにぎわいを引きずったままだ。大人になりきれず、はしゃぐような、上辺だけの空騒ぎが繰り返される。  淀んだ熱気から逃げた佐和紀(さわき)は路地裏の薄暗がりで煙草を取り出した。くちびるに差し込み、ブックマッチを開いて一本曲げる。先端をフタで挟み、指を鳴らす要領でこすると、小さな炎が生まれ立つ。  洒落た仕草は、離れて暮らす恋人の得意技だ。まるで手品のように火をつけるのが不思議で、何度も見せてもらって、何度も練習した。できるようになったのは別れてからだ。  マッチの火を煙草に移し、フタを弾く。  一瞬で、火が消える。  岩下(いわした)周平(しゅうへい)は、佐和紀の『恋人』である前に『夫』だった。人身御供の結婚から始まり、触れられて、キスを交わして、恋に落ちて。求婚も、愛の告白も、すべて入籍の後回しで、順番はまるでめちゃくちゃだった。  そもそも、男同士で結婚なんてありえないのだが、身も心も男である佐和紀の戸籍は『女』で登録されている。育ての親は『わざとだ』と言った。『母親』と『祖母』のふりをしていた女たちだ。それぞれにあっけなく死んでしまい、真実を問いただす術はない。  ブックマッチを煙草の箱へ戻し、顔にかけた眼鏡を押し上げる。はすっぱな仕草で、紫煙を細くたなびかせた。 「あー。いた、いた」  若い男の声が降ってくる。 「こんな辛気くさいところにいなくても」  声の主が非常階段を駆け下りて現れる。茶髪の童顔は成人前後にも見え、アイドルグループに紛れ込んでも違和感のない清潔さがあった。しかし、実際は二十代半ばで、大阪ヤクザのひとり息子だ。名前は信貴(しぎ)律哉(りつや)。佐和紀は『りっちゃん』と呼んでいる。  父親が組長を務める信貴組を継ぐつもりはなく、クラブイベントなどを主催して日銭を稼ぎ、そのかたわら、『壺振りお嬢』と呼ばれる壺振り師として賭場へも出る。名前の由来は、幼い頃に振り袖少女の形で壺を振っていたからだ。 「中は、口説かれるからヤダ」   金髪をかきあげて答えた佐和紀に向かい、律哉は口を開けたままうなずく。 「サーシャさん、おモテになるから」   開いた口が塞がらないとばかりのふざけ口調で言われ、ギリッと睨みつける。舌をちらっと出した律哉は、おどけて肩をすくめた。 「ここに来るヤツらも、サーシャを見たさで集まってるんだってね。男も女も区別ないもんなぁ。すごい」 「それなら、儲けさせて欲しいよな」  うんざりとした表情で、佐和紀は首を傾げた。  雑居ビルの上階にあるのは、ヤクザがケツ持ちをしている裏カジノだ。 「そこは、それ。それは、そこだよ。ディーラーやって欲しいって言われたんだって?」 「やんねぇよ。あんな、めんどくさそうなの」  煙草をふかした佐和紀は、不満を隠さず顔を歪めた。 「ここも潮時だな。別のとこ、探してもらってよ、りっちゃん」 「裏カジノなんか、通うなって」  律哉が笑う。年齢差は五つほどだが、互いにその差を感じたことはなかった。 「ヒマなんだもーん」  佐和紀も笑い、ふざけて返す。  裏カジノを知ったあとでは、パチスロでさえリターンが低くて物足りず、クラブイベントで踊り狂えば気晴らしになるが、開催は週末だけだ。  発散できないストレスは、じわじわと地味に募っていく。  それもこれも、七月の祇園祭以降、ぱったりと現れなくなった周平のせいだ。  佐和紀からかけた電話は繋がる。しかし、周平からはかからない。  旦那を捨てて出奔したことは佐和紀の身勝手だが、味気なかった。  新生活が楽しくても相手に悪いし、つまらないなら帰ってこいと誘われそうで困り、電話越しの会話はすぐに終わってしまう。穏やかで甘く、ずっしりと凜々しい周平の声で説得されたら、荷物をまとめて横浜へ戻りたくなってしまう気もするのだ。 『まだ、なにひとつ、モノにできていない』 心で反論するたび、どんなことを目指していたのかと自分自身に問わなければならない。それが一番、心に重く、電話越しの会話を億劫なものにする。 「暇ならさぁ、横澤(よこざわ)さんとデートしたらいいのに」 「はぁ?」  律哉に言われ、佐和紀は眉をひそめた。  周平を思い出していたところへ別の名前が出て苛立つ。 「つれないよねー。愛人だろ? 分けて欲しいぐらいお手当もらってるよな?」  陽気に笑う律哉の目がついっと細くなる。  サーシャと呼ばれる佐和紀が、横浜ヤクザの男嫁だったことを知っていても、現在の愛人・横澤が、当時からの世話係・岡村(おかむら)だとは気づいていない。 「りっちゃん、負けてきたのか……。堀田(ほった)に叱られるんじゃねぇの?」  いきなり金の話を持ち出した律哉に、佐和紀も目を細めた。煙草を軽く吸い込む。  信貴組若頭の堀田諒二(りょうじ)は、律哉を溺愛してやまない過保護な恋人だ。 「……サーシャ、貸してくれない? だいたい、俺は付き合ってるだけで……」 「付き添いが熱くなってマイナスつけてたら、火だるまだろ。……骨は拾ってやる」  煙草をくちびるに挟み、ひらひらと優雅に手を振ってみせる。律哉の眉間に不機嫌なシワが刻まれた。愛らしい顔立ちは、拗ねても怒ってもかわいいままだ。  横浜にいる友人のユウキも同じだった。大きな瞳がくるくると表情を変えて、見ていて飽きない。 「その骨までしゃぶられたら、諒二が飛んでくるんだからな」  子どもっぽく頬を膨らませた律哉に脅される。怒られるときはふたり一緒だ。 「そうなる前にあいつを呼べよ……。黙ってるほうが叱られるぞ」 「だーかーらー。貸して。来月、返す。絶対」  両手を顔の前で合わせて、律哉は小首を傾げた。自分の顔がいいことも、佐和紀が顔のかわいい男に弱いことも、熟知している仕草だ。 「貸してもいいけど、利子が欲しいなぁ」 「なに、すればいい? 一気飲み?」 「あー、これはりっちゃんに言ってもしかたないな」 「おまっ……、また、人の男のイチモツを見ようとしてんだろ」 「見せてくれたら、返さなくてもいいよ」 「そんな、恋人を売るようなこと、できるか!」 「手は出さないから、俺から迫ってみてもいいってことで、ここはひとつ……」 「意味がわかんない! 諒二はな、俺のもん。そう言ってんだろ。女とヤっとけよ!」 「だってさー。女には、ボールの入ったアレなんてないし」 「あってたまるか! なんだよ、自分が迫ったら、諒二が勃つとか、どんな自信だよ。……たぶん、勃つけど。あー。もー。いいから、金を貸せって言ってんだろ!」  突進する勢いで抱きついてきた律哉の手が、ジーンズの尻ポケットを探る。 「あっぶな……っ」  慌てた佐和紀は、煙草を頭上へ逃がす。かわいい顔や髪を焼いてしまわないようにしている間にも、尻ポケットから封筒が引き抜かれた。 「……減らしたなぁ」  封筒の中を覗いた律哉があきれた声を出す。横澤を演じている岡村から渡される生活費は潤沢だ。なくなれば、すぐに補充される。  こんなやりとりも、今日が初めてではなかった。 「行っておいで。ここで待ってるから」  あご先で促すと、封筒を背に隠した律哉が、きらりと輝くような笑顔を浮かべた。 「利子代わりにキスでもしとく?」 「して欲しいけど、堀田に刺されたくない」 「言わなきゃ、わかんないけどねー」  陽気に笑い、さっと踵を返す。下りてきた階段を勢いよく駆け戻っていく。 「騒がしいなぁ」  ぼやきながら煙を吐き出し、派手な柄の綿シャツにジーンズを着た佐和紀は足元を見た。着物でもないのに、雪駄を履いている。衿元へ指先が向かう癖は、いまでもときどき出てしまう。横浜では基本的に和服で暮らしていたからだ。

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