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第2話
周平のもとを去ってから、まだ一年も経っていない。いろいろな癖が抜けず、考えも変わらず、それらが抜けたり変わったりすることを恐れる自分もいる。
そんな暮らしの中で、律哉と遊び回っているときだけは気楽だ。からかって、からかわれて、騒がしさで自分の心をごまかせる。
煙草を吸いながら狭い裏路地に気配を感じた。
「……トモ?」
じっと見つめてから呼びかける。とぼとぼ歩いてきた男の視線が宙を巡り、佐和紀に気がつくと嫌そうに顔が歪んだ。
「なに、してんの?」
こちらから声をかけると、木下(きのした)知之(ともゆき)はそっけなく顔を背けた。
「遊びに行くとこ」
さらさらとした長い前髪があくのない顔立ちの目元へかかる。律哉が戻ったばかりの裏カジノへ行くのだろう。
煙草を地面へ落とした佐和紀は、雪駄の裏で揉み消しながら木下を見た。
「今日は回収日みたいだから、オススメしないな。一緒に飲んで帰ろう。ナオのバイトも終わる時間だ」
「約束があるんだよ。勝手に帰ってろ」
木下の返事はいつも通りにそっけない。
「約束って誰とだ。遊ぶならクラブぐらいにしとけよ。おねーちゃんのいないトコな」
軽い口調で伸ばした手が、無造作に振り払われる。つれない態度ですれ違った木下は、錆びた非常階段を駆けあがっていく。軽い足音が遠ざかるのを聞きながら、佐和紀はポケットの煙草に触れた。じっとして、しばらく動かない。
木下も直登(なおと)も、一見すれば、どこにでもいるような普通の青年だ。しかし、実際の暮らしぶりは違う。木下がヤクザの依頼を受け、直登が他人を痛めつけることで金を得てきたチンピラだ。
「三人で仲良くなんて……、ありえないよな」
残された佐和紀は独り言をつぶやき、ポケットに入れた煙草の箱から指を離した。
出奔のきっかけが木下の脅しだったことを思い出す。直登が思うように働かなくなり困った木下は大嘘をついた。それに騙され、直登に対する償いも兼ねて横浜を出た。
美園(みその)たち関西ヤクザの手伝いをしているのは、オマケのようなものでしかない。
「おまたせー」
律哉の明るい声がして、佐和紀は真顔を返した。
「木下に会わなかった?」
「すれ違ったけど。どうかした?」
「殴られた痕があっただろ」
路地裏は薄暗く、髪に隠れてもいた。しかし、不自然に青い『あざ』だった。あれは打撲の痕だ。殴打されてつく、いわゆる青あざだろう。
「いい噂を聞かないからなぁ」
律哉の口ぶりが冷たいのは、木下と付き合いのあるヤクザが、実家の信貴組と反目する団体に所属しているからだ。
律哉の実家であり、恋人の堀田諒二が若頭を務める信貴組は、高山組(たかやまぐみ)系の三次団体だ。一次団体の高山組は、東海から九州までを広く従える巨大な組織で、本部は神戸にある。
そして、大阪の勢力は、高山組二次団体である『阪奈会(はんなかい)』と『真正会(しんせいかい)』に二分していた。
信貴組は前者『阪奈会』の傘下だ。そして、木下が付き合っているヤクザは『真正会』傘下の組だった。
「いい噂なんて、あるわけがないだろ」
佐和紀は鼻で笑い、砂利の散ったコンクリートに自分の捨てた吸い殻を見つけた。ひょいと摘まみあげて、携帯灰皿へ入れる。
横浜で暮らしていた頃は、世話係が始末してくれた。煙草もライターの火も、指を振るだけでサッと用意されたものだ。
「木下の、悪い噂をさ、知りたいな。堀田に頼める?」
「口利き料は、さっきの封筒でいいよな」
すかさず言ってくる律哉に促され、ようやく裏路地から抜け出す。
「情報料は友人価格でさ、もっと安くして……、あぁ、俺が身体で払っちゃおうか」
軽口を叩いた瞬間、律哉の肩がどんっとぶつかってくる。
「だめ、だめ、だめ……ッ。何回、言わせんの。あいつだって男なんだぞ」
「俺だって、男だ。満足させる自信はある」
「触られてデカくなるのは、当たり前だろ! 健康な男は、みんな、そうなんだよ。じゃあさ、じゃあ……、横澤さんとどんなプレイしてんのか、教えてよー」
佐和紀の肩へ腕を回し、律哉が甘い猫なで声を出した。
「色事師に仕込まれた身体で、どんなことをしてあげんの? お勉強させてよ」
色事師は『元旦那』のことだ。女衒で成りあがった過去は関西でもよく知られている。
「おまえが、性感マッサージでされてることと同じだよ」
「……またまたぁ。っていうか、行ってないから! 最近は!」
「最近は……」
堀田に同情しながら繰り返した佐和紀は、街の南北を貫く商店街を目指す。
律哉は基本的に一途だが、ときどきハメをはずしてしまうタイプだ。恋人の堀田は当然面白く思っていないが、ベッドの上で女役を強いている引け目がある。たまには男らしさを取り戻したいと言われてしまえば、惚れた弱みで強く出られなくなるらしい。
「横澤さんって、冷たいの? ヤキモチ焼かないよな」
「わかったような顔してんじゃないの? こっちは、金があれば誰でもいいわけだし」
さらっと嘘をつく。
横澤政明(まさあき)という男は、佐和紀のために横浜を抜け出してきた岡村慎一郎(しんいちろう)の仮の姿だ。
金があったとしても、他の男では代わりにならない。
つまり、佐和紀と横澤のあいだには、律哉が想像するような性交渉は皆無だ。キスさえ許すつもりはなく、無理強いされることもない。岡村は従順な『右腕』だった。
「シビアだねぇ、サーシャは」
息を吐き出すように笑った律哉の横顔は、女の子を連想させるほど幼く見える。けれど、内面は骨の髄まで男だ。ヤクザの息子として、社会の表も裏も知り尽くした上で嫌悪を飲み込み、夜の街に生きている。だから、ときどき鋭いことを言う。
「最近はシてないって顔なのは、どうして?」
「してるけど?」
佐和紀も短く息を吐き、律哉を振り向いた。相手の顔はすぐそこだ。眼鏡が当たらないよう、わずかに後ろへ引いて足を止める。律哉も立ち止まり、小首を傾げた。
「じゃあ、気のせいか。『すっごい精力満タン!』ってときがあるからさ」
「なに、それ。満タンでもないけど、インポでもないよ……」
「見たことないから、わかんなーい」
ふざけて身をよじる律哉のあごを、そっと手で押さえて顔を近づける。
「じゃあ、見せてやろっか」
「いいけど、諒二以外に突っ込ませる趣味ないからな」
ふいに男らしさを押し出してくる律哉の視線が、まっすぐに佐和紀を射抜く。
威勢がよくて、負けん気が強くて、好きなタイプだ。性的な興奮は感じないが、そばに置いておきたくなる。
一方の律哉には、佐和紀のような男を組み敷いてみたい一瞬があるのだろう。ふざけあいの中には、熟しきらない果実のような誘いが含まれていて、それは、度が過ぎればヤケドする類いの好奇心だ。
「……また、見世物になってるし。はいはい、離れて、くださいねぇ」
目には見えないつばぜりあいを、陽気な関西弁が引き裂いた。
商店街のアーケードに差しかかる往来のど真ん中で見つめ合っていた佐和紀と律哉は、両側から引っ張られる。
「いいもん見たような気に、させんといてくださいよ」
声をかけてきた若い男が笑う。大阪の南に位置する繁華街で徒党を組む『紅蓮隊(ぐれんたい)』のリーダー・大和田(おおわだ)だ。
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