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第6話

 ねだることのできない佐和紀に代わって頼めば、察しのいい周平はなにもなかった顔で会いに来てくれるだろう。夫婦だった頃の甘さで佐和紀を抱き寄せ、身の内のすべてを満たすこともできる。  けれど、佐和紀は知っていた。  大人の余裕の裏には、いつだって、男の忍耐が身をひそめている。孤独な心を隠して、神経を削りながら嘘を背負う。  横浜を出るなら離婚していけと詰め寄ってきたときも、佐和紀の荷物を処分したときも、大阪まで頻繁に会いに来てくれていたときも、周平は自分の本当の気持ちを犠牲にした。  嘘をつくことに慣れている男が、自らの重ねる嘘に傷つかないわけではない。  知っているのに、佐和紀は見逃した。周平とのあいだにある愛情だけは、ただ唯一、生涯変わらずに存在すると確信している狡さゆえだ。 「周平とヤッたって、答えが出るわけじゃないだろ。……考えるから」 「向こうも待ってるんじゃないですか?」 「だとしたら、弱音を吐いた瞬間に連れ戻される」 「イヤなんですか。……目的もないまま、ここにいれば、利用されるだけです」 「目的はある! あるから、出てきたんだろ。なにが楽しくて、あいつに、つらい想いをさせてまで……ッ」  声を荒らげた佐和紀はくちびるを噛んだ。  自分にも嘘がある。口から出任せでこの場をしのごうとしているだけだ。  目的があって横浜を出たわけではない。  直登に対する償いと、命を落としかけた知世の執念深い期待に、浮き足立った結果だ。そして、悩ましさから逃れるために周平と抱き合うことが、たまらないほどつらくなった。  セックスに逃げてやり過ごせば、周平のもとにいたままで対処できたかもしれない。いまになって考えれば、そう思える。  しかし、当時は無理だった。閉塞していく暮らしの中では、目の前の壁を越えることは不可能に思えた。なによりも、周平の存在が、佐和紀を不安にさせたのだ。 「すみません。出すぎた発言でした」  岡村の声で現実に引き戻され、佐和紀は無言のままで立ち上がった。  今度はもう、引き止められることもない。寝室へ入る手前で振り返ると、岡村は立てた片膝に両手を乗せ、忠誠を誓うように顔を伏せていた。 「なぁ……」  小声で呼びかけたが、きちんと聞き取り、顔を上げる。思慮深い眼差しが言葉を待った。 「……そろそろ、真柴(ましば)に会いたい。道元(どうげん)に承諾を得てくれ」  真柴は京都のヤクザ『桜河会(おうがかい)』の次期会長で、佐和紀の友人だ。何度か話を持ちかけたが、桜河会若頭補佐・道元に面会を拒まれ、大阪に来てから一度も会っていない。  それぞれの組織に都合がある。桜河会としては、大阪のヤクザと関係している横澤との付き合いをおおっぴらにせず、若頭補佐の知り合いレベルで留めておきたいのだ。 「会う意味を教えてください」  岡村の声は硬く、佐和紀の頼みは実質上の却下だ。  答えずに背を向けた佐和紀は、寝室へ入り、ドアを閉めた。  友人に会うにも、意味が必要なのだろうかと思う。けれど、憤りはなく、やけに納得している自分もいる。  ヤクザ同士が会うとき、ただの純粋な友情を理由にはできない。同じ組織の同じレベルの人間なら可能だが、少しでも立場が変われば、周囲が影響を受ける。  権力にぶらさがろうとする者や、金の匂いに引き寄せられる者は、他人の友情になど配慮しない。食うか食われるか。飼うか、飼われるか。特に、日本一大きな高山組の内部が揺らいでいる現状では、誰もが敏感だ。  美園を根っからのヤクザだと言った岡村の声を思い出し、佐和紀は立ち尽くしたままでうつむく。俺もそうだと答えた佐和紀に対して、岡村はくちごもるような仕草を見せた。 『おまえから見て、俺はヤクザじゃないのか』  そう問うつもりで、寝室の手前で足を止めたのだ。  答えが返らないことはわかっていた。いまの佐和紀はヤクザじゃない。チンピラでもないだろう。  周平のそばでさえ重荷を背負いきれず、直登を理由にして横浜を出た。あのとき、佐和紀は、自分が以前のようなチンピラに戻れると思った。なにも持たなければ、自分らしさを取り戻せるような気がしていたのだ。  けれど、実際は想像と違う。その日暮らしのわびしさで感傷的になることさえ、結婚以前の自分にはなかったと思い知った。  毎日は退屈で、読書の習慣も忘れ、やることがないから寝ぎたなく布団と戯れ、酒を飲み、賭け事で刺激を得る。横澤の融通してくれる大金が一瞬で消えても気にならないのは、金のありがたみを感じなかった頃に戻っているからだ。結婚する前も、佐和紀の稼ぐ金は右から左へ流れ、松浦のスーツや飲み食いに消えた。  周平との生活で身についた習慣が消えていくことに気づきながら、対処をしようとも思わない。与えられるはずの課題を待ち、暇を持て余し、直登と木下を眺めているだけだ。  それなのに、心だけは身勝手に周平を待っている。どんな顔で会うつもりなのかと問う自分自身の声さえも、気づかないふりで黙殺した。

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