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『最後の恋人になってくれる方を募集します』
それが、銀ちゃんのプロフィールの一行目だった。
親より年上のおじさんなんて、ストライクゾーンに入るはずがない。
顔写真も載せておらず、体型やスペックが好みだったわけでもない。ビジネスメールみたいな長文から滲み出る几帳面さと真面目さ、それに真剣さは、ただ体目当てで相手を探す人にとっては嘲笑か嫌悪するほどだったかも知れない。
それでもコンタクトを取ってしまったのは、僕も心のどこかでそう思えるほどの相手に出会いたいと思っていたからだろうか。
ネットにも疎く、容量もサイズも小さいスマホを、眼鏡を上げた顔からやけに離して見るその人は、待ち合わせ時間きっかりに着いていたらしい。シルバーグレーのスーツに薄黄色のネクタイという姿を見て会社帰りなのが分かった。
取引先の接待に使うような小料理屋に連れて行ってもらった。色の濃い木造と漆喰で丁寧に内装された、静かな空間だった。廊下はオレンジ色の光で下から照らされ、琴の音色で奏でる和風イメージの音楽がスピーカーから流れていた。人目を気にしなくて済むようにと、個室まで取ってあった。
ネットで出会うのは初めてじゃなかったけれど、倍以上も歳の離れた人と、そんな場所で、というのはさすがに初めてだった。
「人生の最後にね、自分に正直になろうと思ったんですよ」
まだ五十代前半だったのに、銀ちゃんはもうすぐにでも死んでしまう人みたいなことを言った。両親が亡くなり、自分の人生と改めて向き合った時に、そう思ったと話してくれた。
「……じゃあ、竹野さんの第二の人生、僕にくれる?」
何が決め手だったかなんて僕にも分からない。
初めて会ったばかりで、一緒に食事をしている途中だったのに。価値観や生き方の違い、体の相性、ジェネレーションギャップ、そういったものを全部すっ飛ばして、この人と一緒にいたいと思った。
銀ちゃんは驚いていたし、少し慌てているようだった。
「私があげる分には構わないけど、氷治さんはまだ第一の人生も途中じゃない。等価交換にならないでしょう」
「ううん。僕も人生、一回終わらせたようなもんだから」
僕がそう答えると、銀ちゃんは真剣な表情になって箸を置いた。
「……それ、どういう事か聞いてもいい?」
遠慮がちに聞いてきた時、ようやくビジネス風の口調が抜けた。
僕は五年前、何もかもバカバカしくなって、勤めていた会社を辞めた。一応、名の知れた広告代理店だった。
誰かに、特に親と教師に言われるままに、良い大学に入って、良い会社に就職する。そんな、産まれると同時にスタートした人生というゲームは、二十年ちょっとでクリアしてしまった。
これ以降は何も面白い事が無さそうだ、と気付いた。
日本人男性の平均寿命まで、あと五十年くらい。ここから半世紀もの膨大な時間を、これまで生きてきた惰性で、消化試合みたいに過ごすのだと思っていた。
結婚や子育て、孫の誕生といったライフイベントに無縁なのを自覚したのは、中学生の頃だ。“普通”や“まとも”と呼ばれる枠の中に収まれていないのに、さも収まっているかのように“擬態”しながら大人になった。
高校も、大学も、社会に出ても、多数である事が絶対的正義なのは変わらなかった。国の動向を決める方法が多数決なのがその証拠だ。
裏を返せば、少数派の意見は間違いで、間違っている事は悪で、悪は罪。あるいは見えない物、存在しない事になっている。生きているだけでそんなレッテルを貼られているのに、未来に希望なんて見出せるはずがなかった。
『いま流行のLGBTってやつ?』
『出会った事ないなあ』
『うちの会社にはいませんよ』
『はいはい、多様性多様性』
皆が口々にそう話せるのは、僕の擬態が上手くいっていたから。
今後もそれを続けながら、自分が絶対に手にする事のない人並みの幸せや安定を横目に見て、歳をとっていく……。
それが、バカバカしくなってしまった。そうまでして生きる価値のある人生だとは思えなかった。
本当は生まれた時点で、試合には負けている。大逆転のチャンスがあるとすれば、革命を起こすくらいしかない。
社会からドロップアウトして、僕は無職になった。
田舎にいる家族には相談も報告もしなかった。あの人らが僕というキャラクターの育成をするにあたり、目的地を設定した以上、クラッシュしようと脱線しようと、進んできたレールの上に戻るよう求めてくると知っていたから。
貯金を切り崩すようになるのは当然だったし、暮らして行けなくなったとしても構わなかった。人生に未練が無かった。
時間だけが出来たから暇つぶしは必要で、高校生の頃に好きだったデスクトップミュージックを再開した。
感覚的に作っていた物のクオリティーを上げるために、基礎から勉強する時間があった。
言われるままにこなしていた学校の授業や宿題と違って、興味がある事は勉強しているという意識すら持たずに知識が身についた。インターネットがあれば、何でも知る事ができた。
作った曲をそのインターネットで公開してみたら、行った事もない場所にいる、知らない誰かに届いたらしい。あのまま“普通”のふりをし続けていたら、きっと死ぬまで出会う機会のなかった、顔も名前も知らない相手だ。再生回数が増えて、アーティストにそうするかのように、僕の動向を気にかける人が何人、何十人、何百人も現れた。
それをきっかけに、久々に他人と交流を持った。自分のファンを名乗る人が現れるなんて、まったくの想定外だった。
次々と歌詞を書いたり、音に厚みをもたせたり、試行錯誤するのがもっと楽しくなった。未練なんて無かったはずのこの人生を生きる甲斐というものを、初めて感じた。
死ぬわけにはいかないと思った。
時間も忘れて熱中した。文字通り寝食も忘れた。収入も無かったから、食費も減るし、電気代以外はかからない暮らし方になるのはちょうど良かった。確か、体重は七キロ痩せた。
「Kowappa 」というハンドルネームは、本名をもじって付けたものだ。その本名を付けた人らが今どうしているかは、興味が無いから分からない。
活動を続けるうちに知名度が上がり、有償の依頼を受けるようになった。今はそれで、個人事業主として生活できる所まで来た。
社会を構成する皆が大好きな学歴という尺度は、僕の第一印象を「頭が良くて、さぞ仕事のできる、信頼のおける人」にする。おまけに僕は、人類共通の尺度となる収入まで、もう一度手に入れた。“擬態”する事なく社会に認めさせた僕の肩書きは「フリーランスのサウンドクリエーター」だ。
責任さえ負えば自分の好きなように動ける、ドロップアウト先が、僕には合っている。
生活が安定して、他の事にも人生のリソースを割けるようになったタイミングで出会ったのが銀ちゃんだった。
銀ちゃんにとっては、僕は最初で最後の「俺のオトコ」らしい。
まさか男の人と暮らす未来が来るなんて、何年か前までの自分に言っても絶対に信じない。何が起こるか分からないからこそ、人生というゲームは面白いのだろう。
一緒に暮らし始めてすぐに、世界はパンデミックに陥った。
銀ちゃんの勤め先が手探りでリモートワークをするようになった時、ウェブカメラの設定をしてあげたのは僕だ。リモート会議中に映らないように気を付けた。そこでも、見えない事になっている方が都合が良かったから。
「ちょうど良かったんだよ」
外出自粛やステイホームという言葉をよく耳にするようになった頃、僕は思った通り正直に言った。もし、まだ、定期的に時間を作って会うだけの関係だったら、それさえ阻害されて物足りなくなっていたに違いない。
「収まるまで待ってたら、俺はもっと老けてただろうしね」
銀ちゃんもそう言っていた。
銀ちゃんにぶつけるつもりはないけれど、そう言わせてしまうこれまでのこの社会体制は、おかしかったんだと思う。
年齢や性別が、社会的地位や肩書きが、そんなに重要なのだろうか。そんな世界、一回全部叩き潰して、また組み立て直した方が早いんじゃないか。これは、そのための出来事だったんじゃないかとすら考えている節がある。
サウンドクリエーター・Kowappaとしての人生のゴールというのは、持たない事にした。五十年でもそれ以上でも、生き甲斐だと思えるうちは音楽を作り続けるつもりでいる。この世界と僕を、繋ぎ直してくれたのが音楽だから。
実は、好きなクリエイターの作品に起用されたい、大きな音楽イベントに出演したい、なんて具体的な目標も、少し前はあった。これが仕事になると気付いた頃くらいまでは。
でも、例の感染症が流行して以降、そんな輝かしい未来が思い描けなくなってしまった。専門家を名乗る人にすら一ヶ月後の事も分からないのに、“一般人”の僕に、何かを決められる筈なんてない。
今まで積み上げて、築き上げてきた物が全部崩れて、全員が出口の見えないトンネルに放り込まれたのだ。
これまで何とか騙し騙し、隠したり、見ないフリをしたりできていた事……その化けの皮とか、ベールとか色々な物が剥がれ落ちて、向き合わざるを得なくなった。変わらざるを得ない時が来たのだ。
来た道を戻る方法も分からないし、いつか光が見えると信じて進むしかない。
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