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第1話 夢の囁き
静まり返った夜の闇が、どこまでも続いている。
風が木の葉を妖しく揺らし、白鷺 春は、見たこともない森の中に佇んでいた。
――おかしい。
昨日の夜は、ベッドで本を読んでいたはずだ。
最後の一行を読み終えたときの満足感と、予想外の結末に胸を衝かれ、
しばらく眠れなかったことも覚えている。
けれど、部屋を出た記憶はない。
(……まさか、夢遊病?)
そんな馬鹿な、と打ち消そうとしても、現実感がそれを許さなかった。
湿った草の匂い。
肌を撫でる、生ぬるい夜風。
どれもが鮮明すぎるほど、はっきりと感じ取れる。
見上げれば、まんまるな月が淡い光を落とし、森を静かに照らしていた。
(僕は……いったい、どこにいるんだ)
背筋に、じわりと嫌な汗が滲む。
心臓が早鐘を打ち始め、呼吸が浅くなった。
――落ち着け。
そう自分に言い聞かせようとした、その瞬間。
風に混じって、微かな笛の音が届いた。
透き通るような音色が、木々のあいだを縫うように流れてくる。
(……笛?)
じっとしていられなかった。
春は、気づけば無意識のうちに駆け出していた。
音を頼りに、見知らぬ森をただひたすら走る。
枝葉が頬を掠め、足元の土が滑る。
それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。
どれほど走っただろう。
笛の音は次第に大きくなり、やがて――。
ふいに、視界が開けた。
(ここは……)
眼前に広がっていたのは、白一色の空間だった。
地平も、天井も、境界も見えない。
ただ、永遠に続くかのような静寂と、白。
振り返る。
そこにあるはずの森は、跡形もなく消えていた。
進むことも、戻ることもできない。
春は、祈るような思いで瞳を凝らした。
(なんでもいい……何か……)
必死に凝視していると、遠くで空間がわずかに歪んだ。
白い靄が揺らぎ、輪郭を帯び始める。
心臓が、大きく脈打つ。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
靄はゆっくりと形を得ていき――やがて、はっきりと人の姿を成した。
「父さん……? 母さん……?」
声が、勝手に震える。
幼い頃に亡くしたはずの両親が、数メートル先に佇んでいた。
「父さん! 母さん! 僕だよ、春だよ!!」
嬉しさと、畏れと、信じがたい現実。
胸の奥で感情が渦を巻き、春は駆け出した。
――けれど。
距離が、縮まらない。
どれだけ走っても、両親は遠いままだった。
手を伸ばしても、届かない。
「なんで……!?」
悲痛な叫びが、白の世界に響いた、そのとき。
(……春)
声が、脳の奥に直接落ちてくる。
「父さん……?」
(春……お前は……白鷺一族の……)
言葉の途中で、視界が大きく傾いた。
足元が崩れ、体が宙に投げ出される。
「う、わあああああ……!」
(……選定者……真実を……)
耳鳴りが走り、頭の内側を激しいノイズが貫いた。
(……いきろ……)
声が、遠ざかる。
「父さん! 母さん!!」
その叫びと同時に――
視界が、白く弾け飛んだ。
春は、勢いよくベッドから跳ね起きた。
肩が大きく上下し、心臓はまだ早鐘のように暴れている。
「……今の……夢……?」
誰にともなく漏れた声は、掠れて震えていた。
額に張りついた前髪をかき上げようとして、指先が冷たいものに触れる。
(……涙?)
手のひらでそっと拭い、ゆっくりと窓の外へ目を向けた。
夜は、いつも通り静かだった。
それなのに――
草を踏む感触も、風も、湿った空気も、あの笛の音も。
すべてが、あまりにも鮮明に残っている。
(白鷺一族の……選定者……)
夢の中で、父が告げた言葉を反芻する。
意味は、わからない。
何ひとつ、理解できない。
それでも――
胸の奥で、何かが確かに目を覚まし始めているのだけは、はっきりと感じられた。
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