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第4話 春と彼方

どれだけ走ったのかわからない。 息が切れ、 体が悲鳴を上げたところで、 春はようやく足を止めた。 前のめりに体を折り、 両膝に手をついて荒く呼吸を繰り返す。 吸っても、 吐いても、 肺の奥が焼けるように痛い。 心臓が胸を破りそうなほど、 激しく脈打っていた。 「……何だ、あれ」 かすれた声が、 自分でも驚くほど弱々しくこぼれる。 左端の青年の、 あの怒りに満ちた眼差し。 まるで、 こちらの存在そのものを拒絶するかのような、 鋭く冷たい視線。 そして——あの少年。 胸の奥に、 ひやりとしたものが沈み込む。 死者を、 あそこまで明確に視認したのは久しぶりだった。 春は祖父から、 “死者と関わらない術”を叩き込まれている。 視線を合わせず、 気配を認めず、 存在を「見なかったこと」にして、 ただの空気として通り過ぎる——。 チャンネルを合わせなければ、 向こうもこちらを認識しない。 そうやって、 春はこれまで生きてきた。 春には春の人生がある。 普通に学校へ行き、 普通に友達と笑い、 取り立てて特別なことのない、 普通の毎日を生きていきたい。 「……早く帰ろう」 自分に言い聞かせるように、 小さく呟く。 お風呂に入って、 温かいご飯を食べて、 今日はもうすぐに寝てしまおう。 考えるのは、 明日のことだけでいい。 忘れよう。 さっきの出来事を全部。 二度と関わらなければいい——。 そう言い聞かせて、 春は、ゆっくりと視線をあげた。 視線をあげて、 そして、 目の前の光景に、凍り付く。 「は?……なんで……」 思考が、 一瞬で停止する。 目の高さに、 少年の“足”が浮いていた。 地面に触れることなく、 宙に投げ出されたままの、 頼りない足先。 音もなく、 少年が春の前に、 ふわりと降り立つ。 まるで、 重さという概念が存在しないかのように。 『やっぱり、僕が見えるんだね』 頭の内側に、 直接声が響いた。 耳ではなく、 脳をなぞるような感覚。 「やめろ……  話しかけるな!」 思わず声を荒げる。 春の声は、 はっきりと震えていた。 こんなこと——おかしい。 今まで出会った死者は皆、 強い未練を残した場所から、 決して離れられなかった。 さっきの少年も、 本来なら、 あの青年のそばを離れられないはずだ。 なのに、どうしてここにいる? こんな距離を、 平然と移動してくるなんて。 こんな長距離移動、 反則だろ。 『ねぇ、  君にお願いしたいことがあるんだ』 春は答えず、 強く唇を噛みしめ、顔をそむけた。 逃げたい。 今すぐ、 ここから離れたい。 でも—— 本当に逃げきれるのか? 心臓の音が、 やけに大きく耳に響く。 考えがまとまらないまま、 春は一歩後ずさると、少年に背を向けた。 その瞬間—— 『待って!!  お願い!!  行かないで!!』 切り裂くような叫びが、 全身を貫いた。 耳ではなく、 直接、胸を打ち抜かれたような衝撃。 あまりに必死で、 あまりに切実で—— 春の動きは、 ぴたりと止まった。 『どうしても、  直哉さんに伝えなきゃいけないことがあるんだ!』 ……直哉さん? 聞き覚えのない名前に、 思わず眉をひそめる。 関わりたくない。 今すぐ逃げたい。 そう思っているのに、 足が、言うことをきかない。 ——見てしまったからだ。 高台の御社で。 悲しみに沈んだ、 あの瞳を。 必死に、 必死に、 何かを訴えていた姿を。 春が俯いたまま固まっていると、 少年が、 今にも消えてしまいそうな声で懇願した。 『お願い……  お願い、します……』 ひどく弱く、 ひどく儚い声だった。 無視なんて—— できるわけがない。 春は、 大きく息を吸い込み、 覚悟を決めて、 顔をあげる。 そして、 少年と向き合った。 「……いいよ。  話、聞かせて」 その瞬間、 少年の顔が、 ぱっと花開くように明るくなった。 『ありがとう!  君は優しいね!』 嬉しそうに、 本当に嬉しそうに、 軽やかに、 春の周りをくるくると舞う。 さっきまでの必死さが、 嘘のように消えている。 あまりにも無邪気で、 春は思わず、力が抜けた。 ——こんな死者、 初めてだった。

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