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第1話
王立ハルスティ学園の卒業プロムは四科合同で行われる。
中央校舎の大広間には卒業生たちがドレスアップをし、互いの門出を祝う声が飛び交っていた。
レナード・ノバックは煌びやかな学友たちから離れ、会場の隅に立っている。
レナードの礼服は黒色のジャケットに百合の模様が描かれ、縁を銀糸で刺繍された一級品だ。
黒髪と浅黒い肌から「閃光の黒豹」と二つ名を持つレナードのために主君が用意してくれたものだが、庶子の自分ではあまりにも不相応で息苦しい。
無闇に動いたら破けてしまいそうで、プロムが始まってからというもののレナードは一歩も動けずにいた。
「こんなところにいたんだね」
朗らかな声にレナードは視線だけ横に向け、目を瞠った。
「どうしてジン皇太子が……?」
「それはもちろん、婚約者とファーストダンスを踊るためだよ」
銀糸のように長い髪を揺らしながら笑うジンに、レナードは小さく息を吐いた。
突然のジンの登場に談笑していた学友たちからは歓喜の悲鳴が響く。ジンは慣れた様子で手を振って応えている。
レナードとジンの婚約は世間に周知されていた。だがベータとオメガという珍しい組み合わせのため、好奇な視線の方がやや上回るだろうか。
示し合わせたようにバックミュージック化していたオーケストラの曲調が変わった。いよいよプロムのメインイベント、ダンスが始まる。
特に貴族が多い魔法科は婚約者とファーストダンスを踊ることで、公に認める場でもあった。十九歳という年齢は結婚適齢期でもあるからだ。
美しいバイオリンの旋律に合わせ、広間の中央に誰もが目を引く二人組が手を取り合っている。
その二人に気づいた他の者たちはさっと端に避け、ジンは肩を揺らした。
「さすがフリッツとミシェルは注目の的だね」
「お二人の姿を見に来る来賓の方もいるくらいですから」
「さすがアルファとオメガは別格だな」
ジンは自嘲気味に笑う。慰めの言葉一つ浮かばず、レナードはフリッツをみつめた。
フリッツとミシェルは次期皇帝と皇后だ。このアーガイル帝国を平和と安定に導く人となる。
ミシェルのドレスが花のように舞い、フリッツは完璧なリードをしている。
互いに目を合わせ、噎せ返りそうな甘い雰囲気に会場からは溜息がこぼれた。
いつの間にか握っていたこぶしに爪が食い込んでいて、レナードはそっと解いた。
音楽が止むと二人は学友たちに向かって一礼した。息もぴったりと合っている。
「私たちも踊ろうか」
ジンはレナードに手のひらを上に向けて差し出してくれた。こんな自分を婚約者に、と選んでくれた彼に申し訳なさが芽生える。
それに気づいたジンはくすぐったそうに笑った。
「失恋同盟としての見せ場だね」
失恋同盟、とレナードは口の中で転がした。
ジンの想い人はミシェルで、レナードの想い人はフリッツだ。お互い報われない恋をしている。
長年傷を舐め合ってきたが、もうその時間も僅かだ。
ジンの手を取ろうとレナードが腕を伸ばすと、大きな背中に阻まれた。
「はいはい、そこまで。兄上は卒業してるんだから、ファーストダンスは俺に譲ってください」
ねっ、と肩越しに振り返るフリッツに驚いた。さっきまで広間の中央にいたはずなのに、いつの間に移動してきたのだ。
レナードが呆気に取られているとフリッツに腕を引っ張られた。
状況が飲み込めないまま二曲目が始まってしまう。
でもいまさら引き返せない。
レナードは助けを求めるようにフリッツの美しい容姿を見下ろした。
プラチナブロンドの髪が宝石の粒を縫い付けているように輝き、アクアマリンの瞳の美しさをより一層引き立てている。
フリッツはレナードの耳に口を寄せた。
「ダンス踊れないだろ? エスコートするから俺に任せて」
「ちょっと……っ!」
腰にレナードの手が添えられ、身体を密着させられる。さっきまで微動だにできなかったのが嘘のように身体が滑らかに動く。
「そうそう。上手。さすが飲み込みが早いな」
「こんなこと……困ります」
「でも楽しいだろ?」
ターンするとフリッツの髪が扇形に広がる。計算しつくされたように礼服の裾が靡き、観客たちの陶然とした声が聞こえた。
だが悠長に楽しめるわけがない。
「……ミシェル様が見ていらっしゃいます」
ミシェルはジンと一緒にレナードたちが踊っているのを眺めていた。歌うように肩を揺らし、楽しそうにしている。
婚約者としての余裕だろう。
同じオメガであるレナードとフリッツがどうこうなるはずがない、と踏んでいるのだ。
「いまは俺のことだけ考えて」
再び耳元で囁かれ、レナードの頭に熱がのぼる。吐息が触れたうなじが火傷したようにピリピリする。
「甘い匂いしない?」
周りの声にレナードは腹に力をいれた。フリッツに触れられて、理性の箍が外れたのだ。フェロモンが出てしまったらしい。
「あの……手を離してください」
「やーだー。まだ曲終わってないでしょ」
だがフリッツは気づいていないようだ。
ダンスの途中で逃げ出すのはマナー違反である。レナードは指折り数えながら音楽が早く終わるのを願った。
ようやく演奏が止み、三曲目が始まる前にレナードは握られた手を自ら解いた。
だが呆気なく離されて癪に障る。まるでフリッツにはレナードのフェロモンなど効かないと言われているようだ。
「失礼します」
少しぶっきらぼうに一礼をして、レナードは早足で大広間を後にした。体温がどんどん上がってきている。発情期の気配に鼻白んだ。
(くそっ不覚だ……)
いつもなら抑制剤は毎日飲み、発情を抑えているが、薬の残数が心許なくなり、週に二、三度に抑えていた。予定日まで一週間あるから大丈夫だと踏んでいたのだ。
だがこのザマである。
フリッツの匂いだけで発情してしまうくらいだ。予定より早くきてしまったのだろう。
きゅうと締めつけられる胸を押さえても和らぐ気配はない。頭痛が酷く、耳鳴りまでしてきた。
なによりも下半身が疼いて仕方がない。
このままでは危険だ。
薬は寄宿舎にある。だが大広間から寄宿舎までは少し距離があった。誰かにみつかる前に一度発散した方がいいだろう。
レナードは開きっぱなしの扉を見つけて飛び込んだ。
どうやら倉庫らしい。学園内で使われている机や椅子などの備品を保管しているようだ。
一人になれた安心感からその場に座ると外から蜂蜜の匂いが流れてきた。アルファの匂いだ。
誰かがレナードのフェロモンに釣られて追いかけてきたのかもしれない。
(つけられていたのに気づかないとは情けない)
だが嘆いても仕方がない。レナードは慌てて扉を閉めようとしたが、外から押される力の方が強く、ばんと派手な音を立てて開かれてしまった。
天窓から月明りが差し込む。室内にプラチナブロンドの髪が白く発光していた。
「……フリッツ皇子?」
肩で呼吸をしているフリッツの額には大粒の汗が浮かんでいる。普段湖畔のように穏やかな瞳が、ギラギラと殺気を滲ませていた。
オメガのフェロモンにあてられ、ラットを起こしているのだ。
踊っていたときは平気そうにしていたが、我慢していたのだろう。婚約者の前で他のオメガのフェロモンで発情したところを見られないようにしていたのかもしれない。
「お戻りください。ここは危険です!」
レナードの頭の中で、警鐘と歓喜の声がこだまする。アルファがいる恐怖と性的欲求を満たせる悦びの声が二重に響き、頭痛を酷くさせた。
(嫌だ。こんな姿……見せたくない)
初めて発情期がきたときから抑制剤を飲み続け、フリッツの前ではいつも通りでいた。
それもこれも夢のためだ。
血の滲むような努力が、いま泡になろうとしている。
「いい匂いだ。堪らない……」
目が虚ろなフリッツは、フラフラとレナードの元に来る。近づかれるだけでうなじがピリピリとした。
アルファに求められる悦びにレナードの本能は歓喜している。
駄目だ、と理性で押しつけてももう遅い。
フリッツに抱きしめられ、アルファのフェロモンに包まれてしまえばもう抗えない。レナードは反射的に逞しい背中に腕を回した。
ーーそこから獣のように求め合い、果てる間際にレナードのうなじは噛まれてしまった。
目を覚ましたレナードは見慣れない天井をぼんやりと見上げた。肌を包むデュベは頬ずりしたくなるほど柔らかく、普段使っているものと雲泥の差がある。
起き上がろうとするとうなじに鋭い痛みが走った。手で触れると規則正しいおうとつがある。
(なんだ、これ……!?)
痛みに誘発されるように昨晩の出来事を思い出した。
ダンス中、フリッツのフェロモンにあてられて発情期が起きてしまい、あろうことか彼と身体を重ね、うなじを噛まれてしまったのだ。
「……なんてことだ」
頭を抱えようとしたら全身が引き攣るように痛む。長年鍛錬を重ねてきたレナードの身体がこれほど痛むのは、子どものときに木から落ちて骨折した以来だ。
それに肌には無数に散りばめられた鬱血痕が、薔薇のように咲いている。
フリッツに「痕を残して欲しい」と何度もねだった嫌な記憶まで思い出し、レナードは項垂れた。
この世には男女の性の他にアルファ、ベータ、オメガの第二次性がある。
アルファは類まれなる身体能力と頭脳を持ち魔力が高い。身体能力も頭脳も魔力も並なのがベータだ。
そしてオメガは男でも妊娠できる特異体質を持っていた。月に一度、発情期がきてアルファにうなじを噛まれると番になる。
(まさかフリッツ皇子と事故つがいになるとは……)
オメガの発情期にあてられたアルファが本能に抗えず、番にしてしまうことを「事故つがい」と呼ばれていた。
アルファは何人も番を持てるが、オメガは番を一人しか作れない。
つまり番は、オメガにとって一生を左右する大きな問題なのだ。
フェロモンは番にしか効かなくなる利点はあるが、番以外と性行為をしようものなら拒否反応で身体を蝕む。
次第に心を病み、苦悩から自死を選ぶオメガが多いと言われている。
そのためレナードは誰とも番にならないよう抑制剤でフェロモンを徹底的に抑えてきたのだ。
まさか想い人であるフリッツと事故つがいになると誰が想像できようか。
冷や汗が背中を伝う。マズイことになった。
(とりあえず一回考えを整理したい)
どうやらフリッツの寄宿舎の部屋に連れ込まれようだ。豪華な天蓋や飾られている調度品は高そうなものばかりである。
始めは倉庫で求め合っていたが、プロムが終わると誰が来るかわからないからと部屋に運んでもらった気がする。
情事の後が色濃く残るデュベは、どちらかわからない精液が飛び散っていた。まざまざと昨晩の激しさを表している。
でも、昨晩のような頭痛は治まり、いまは性的衝動もない。
皮肉な話だが、番になったお陰でレナードの発情期は治まっていた。
部屋を見回したがフリッツの気配はない。従者もまだ来ていないようだ。
(いまの隙に戻ろう)
床に散らばった礼服を掻き集め、レナードは痛む身体を引きずって部屋を出た。
早朝だったお陰で、レナードは誰とも会うことなく自室に帰って来れた。ふぅと息を吐きベッドに座ると尻に鋭い痛みが走る。身悶えていると、今度は関節が針に刺されたような痛みに襲われた。
でも、一番の変化は心だ。
番を持ったお陰で、いままで薄っすらと感じていた恐怖がない。
希少種であるオメガはどうしても注目されてしまう。
レナードの在籍する騎士科はアルファが少ない。でもいつ襲われるだろうか、と恐怖は常に背中にくっついていた。
恐怖に屈しないために鍛錬や座学に身が入り、首席で卒業できたようなものだ。
だがいまはアルファに狙われる恐怖をまったく感じないのだ。
番ができれば、オメガのフェロモンは番のアルファにしか効かない。これほど心が自由になるのは生まれて初めてだ。
『レナード? オレだ、ビルだよ』
ノック音にびくりとレナードの身体が跳ね、弾みで机の上にあった本を落としてしまった。気配を出してしまい、同じ騎士科のビルを騙すのは無理だ。
だがこの状況はマズイ。
百匹の魔獣に囲まれても冷静さを失わないレナードは、ここにはいない。いますぐにでも窓から飛び降りてしまいたくなる。
『レナードいるんだろ? 開けてよ』
再びノックされ、ビルはさらに声を荒げた。レナードがいるのを確信しているかのような声だ。
あまり騒がれすぎると他の騎士科の生徒も出てくるかもしれない。
レナードは歯形が見えないよう適当な布を首に巻き、扉を開けた。
「……どうした?」
「そろそろ風呂が開く時間だから一緒に行こうかと思って」
「もうそんな時間か」
朝の五時に寄宿舎の大浴場は解放される。そのあとは朝食を食べ、鍛錬をするのがレナードとビルの日課だ。
だがとてもじゃないが級友たちの目がある風呂に入れるはずもない。うなじの歯型もだが、なにより身体に残る痕は誰が見てもキスマークだ。
レナードは娼婦で遊ぶようなことをしない生真面目な男として知られている。そのため相手はジンだと思われる可能性が高い。
結婚前に一線を越えたのか、と揶揄われるのが目に見えている。
叙任式までに変な噂を流されたくない。
「体調が悪いから今日は止めておくよ」
「確かに酷い顔色だ」
心配してくれるビルに罪悪感が芽生え、レナードは目を反らした。彼はベータだからフェロモンは感じない。
「じゃあオレも今日はパスにして飯にしよう。それなら一緒に行けるだろ?」
「……あぁ、もちろんだ」
身体を動かすのは辛いが、自分に合わせてくれたビルを断り続けるのも良心が痛む。
レナードはビルと連れ立って食堂へと向かった。
食堂は生徒全員が入っても座席はあまるくらい広い。学科ごとの寄宿舎から渡り廊下を通ると校舎があり、その横に食堂、プロムを行った大広間がある。それらを囲うように寄宿舎は四棟建っていた。
食堂に着き、朝食を選んでからレナードたちは窓側の席に腰を落ち着けた。尻がじんわりと痛むが、表情に出さないようにレナードは歯を噛んだ。
向かいの席で鶏肉のソテーを頬張るビルは感慨深く食堂を見渡している。
「ここで食べられるのも明後日までか。寂しくなるな」
明後日からレナードとビルは整合騎士団の独身寮に入る。
ビルが思い出話に花を咲かせているのをレナードは黙って聞いていた。お喋りで情報通な彼の話を聞くと気分が晴れる。
ビルは口元についたソテーを丁寧にナフキンで拭った。
「てか昨晩、おまえがフリッツ様と抜け出したからみんな驚いてたぜ」
「……俺が具合い悪くなったのを介抱してくださっただけだ」
「他の奴はそう思うかもしれないよ? でもオレはいまのおまえを見て、なんかあったなと確信してる」
探るようなモスグリーンの瞳にレナードは匙を落としそうになった。
「別に……なにもない」
「もちろん深くは聞かないさ。オレも片棒担がれるのは嫌だしね」
「ビル……」
さっぱりとした言葉の裏にレナードへの気遣いが隠れている。そのやさしさにいままでどれだけ救われてきただろう。レナードが助けを求めると彼はいつも手を差し伸べてくれた。
ペイジとしては騎士見習いを始めた十歳から九年間、ずっと一緒だった彼には頭が上がらない。
けれどレナードは縋りそうになる口を閉じた。
第二皇子と事故つがいだなんて査問会議にかけられるレベルの重要機密だ。
大切な友人を巻き込むわけにはいかない。
「ありがとう。でも大丈夫だ」
「ならいいけどよ」
ビルはくしゃっと子どものときから変わらない笑顔を浮かべて、皿に残ったソースをパンで丁寧に拭った。
「そういや魔獣がうろついてるって話、知ってるか?」
「春が近いから餌を求めてるんだろ」
「どうもいつもと様子が違うらしい」
「どういうことだ?」
ビルの表情は真剣さを潜ませていた。
魔獣とは、人間を襲う獣のことだ。大きさは熊ほど大きな巨体から、リスのように小さい小柄なものもいる。
だが総じて毛は黒く、目は血のように赤いので、小さな子どもが見ても一目で判断できるのだ。
人々を護るために整合騎士団は対魔獣と戦う訓練を積んでいる。
ビルはパン屑がついた指を舐め取った。
「魔獣除けの金木犀が何者かに壊されてるって話だ」
「意味がわからない。なぜそんなことをする? 領地を危険に晒して、何の意味があるんだ」
「それは騎士団も調査中らしい」
魔獣は金木犀の香りを嫌う。それに気づいた学者が土属性の魔力を持つ研究者を集め、一年中枯れないように品種改良した。
全領地を囲うように金木犀を植え、アーガイル帝国を護っている。
金木犀はいわば砦なのだ。
慎重に頷いたビルは続ける。
「そのせいでいまは街道もおちおち歩けないらしいぜ。だから流通が止まってるんだと。ほら、おまえ抑制剤が残り少ないと嘆いていただろ」
発情期を抑える抑制剤は、北の領地であるブランデン辺境地で作られている。抑制剤の原材料であるポップ草が寒い地域ではないと生息できないからだ。
だがここ最近抑制剤が手に入りにくく、そのせいでレナードは毎日飲むことができなかった。
だから発情を抑えられず、フリッツと事故つがいになる惨事を招いたのだ。
じくりとうなじが痛む。
「あちこち魔獣が出てるから騎士団も各地に引っ張りだこだと。叙任式が終わったら、オレたちもすぐ遠征に出されるだろ」
「忙しくなるな」
「いよいよ一人前として認められるんだ。腕が鳴るってもんだろ」
ビルは腕を曲げ、鍛え上げられた筋肉を見せつけた。暗くなりがちな話題だが、ビルの茶目っ気で少しだけ気持ちが浮上する。
「あ、それに面白い話を聞いたんだよ」
ニヤリと口角を上げるビルはちょいちょいとレナードの耳元に口を寄せた。
「番解消薬がとうとう出来上がったらしい」
「なんだ、それは」
「おまえ、オメガなのに知らないのかよ」
ビルは舞台俳優のように大袈裟に首を振った。世知に疎いことは自覚しているので、反論ができない。
「事故つがいって多いだろ? そうなるとオメガは悲惨な結果を辿る。番を解消するためにダンテ辺境伯が作らせてたらしいぜ」
「事故つがい」と聞いて黙っていられない。まだ痛むうなじをそっと撫でた。
(もしそれがあるならフリッツ皇子との番を解消できる)
そうすればレナードは発情期にフリッツを求めなくて済む。騎士として鍛錬を積み、彼の近衛騎士になる。フリッツはミシェルと問題なく結婚できる。
レナードが長年願った現実に修正できるのだ。
暗闇に光明が差し、新たな道筋を照らしてくれている。
縋るようにビルに視線を向けた。
「それはブランデン辺境地にあるのか」
「そうだよ。あそこの製薬は一流だからな。でもさっきも言った通り、魔獣がウロウロしてるから領地を出るのは危険だぞ。て言っても『閃光の黒豹』様には心配無用か」
「いい鍛錬になる。叙任式まで腕を上げるとしよう」
ビルがこの話題を出したということは、やはりレナードの異変に気づいたのだろう。友人の有り難い助言に背中を押される。
そうと決まれば善は急げだ。
レナードはビルに別れを告げ、早々に部屋に引き上げた。
元々独身寮に引っ越す予定だったので、荷物はまとめてある。トランクに詰めたものを一度出し、旅用の革袋に入れ直した。
ナイフや抑制剤、その他必要最低限のものを袋に詰め込んだ。
ブランデン辺境地まで馬を使っても三日はかかる。低山とはいえ山も越える。
アーガイル帝国の最北端にあり、春先が近いいまでも雪は積もっているだろう。嵩張るが寒さ対策はしっかりしておかなければならない。
「やぁ、レナード。朝から探したんだよ」
「……フリッツ皇子! いつのまに」
「窓を開けといてもらって助かったよ」
窓枠に手をかけてフリッツはひょいと部屋に入って来た。相変わらず軽やかな身のこなしだ。
「酷いじゃないか。今朝、部屋に戻って来たらしいきみはいないし」
「それは、あの」
まさかフリッツが部屋に来るとは思わず、動揺から布袋を落としてしまった。中に入れたナイフや薬がバラバラと床に散る。
風に乗って甘い蜂蜜の香りがレナードの鼻孔を擽る。吸い寄せられそうになり、首を横に振った。
(しっかりしろ、レナード)
番になったアルファのフェロモンは特段だと聞くがまさかこれほど凄まじいのか。
いままでいい匂いだ、程度だったフェロモンが神経をダイレクトに刺激して理性を奪おうとしてくる。
だが欲望に負けていられない。
レナードは背筋をしゃんと伸ばした。
「部屋に勝手に入って来ないでくださいと何度も言っていますよね」
「もう卒業したんだから、関係ないよ」
「あなた様の評価が下がってしまいます」
「相変わらずお硬いな」
皇子ともあろう方が一般領民であるレナードの元をそう何度も訪ねるものではない。しかもドアからではなく窓からというのも問題だ。
せめてドアから来て欲しいと訴えても「飛んだ方が速い」と取り合ってくれない。
何度か締め出したが蛾のように外壁に張りついてして抵抗するので、常日頃から窓の鍵は開けっ放しにしていた。
「体調はどう?」
「……問題ありません」
「加減なく抱いたけどさすがレナードだ。でもここはそうでもなさそうだね」
フリッツは自分のうなじを差した。レナードの首には白い布が巻かれている。
かぁと頭が熱くなり、レナードは話を切るように咳払いをした。
「これは事故です」
「事故?」
「自分が不甲斐ないばかりにフリッツ皇子に迷惑をかけてすいません。このような自分と……関係を持ったことは本来あってはならないことです」
レナードは顎を引いて、頭一つ分低いレナードを見下ろした。
「自分はこの番をなかったことにします。ですから、フリッツ皇子もどうかお忘れください」
フリッツは大きな目をぱちくりとさせ、まじまじとレナードを見上げた。不純物の混じっていない宝石のような瞳に覚悟を決めた自分の顔が映っている。
フリッツとミシェルが番う方が民衆も喜ぶ。アーガイル帝国をさらなる繁栄に導き、誰もが幸せになれるのだ。
(頭ではわかっているのになぜこんなにもすっきりしない?)
長年願ってきたことではないか、と自分を慰めて気持ち悪さと一緒に唾を飲み込んだ。
じっとフリッツをみつめていると彼は二度瞬きをしてからゆっくりと肩を落とした。
「……朝一でミシェルに報告しに行っていたんだ」
か細い声に覇気はない。それきり黙ってしまい、フリッツは唇を閉ざした。
(ミシェル様にフォローしに行ったということか)
卒業プロムのあと、婚約者がオメガであるレナードと姿を消したと知って、いい気分にはるはずがない。その弁明に行ったのだろう。
「もうこの件は忘れましょう」
念を押したがフリッツからの反応はない。不貞腐れた顔は昔の記憶を呼び起こさせた。
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