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第2話

 城の従者を束ねる家令として代々使えてきたレナード家の居住地は城内に構えている。  城は人の出入りが激しく、かつアルファである貴族や他国の王族も訪れる。そのため生まれてすぐオメガと診断がくだったレナードは、隠されるように育てられた。  オメガは花の蜜のように甘い匂いをさせ、アルファを呼んでしまうためだ。  まだ五歳のレナードも例外ではなく、身を隠してもフェロモンに釣られて居住地まで足を運ぶ輩は多い。両親はかなり気を揉んでいた。  外界と隔てて育てられてきた反動か、レナードは好奇心旺盛な子どもだった。   家の前で遊んでいたレナードが蝶を追いかけて城内に侵入してしまい、そこで初めてフリッツと会った。  プラチナブロンドの髪は肩口で揃えられ、アクアマリンの瞳がこぼれ落ちそうなほど大きい。  天使のようだ、と一目でレナードは心を奪われた。   「きみ、だれ?」   「ぼくはレナード。レナード・ノバック」   「おれはフリッツ・テイラー。よろしくな!」  花が咲くような笑顔にレナードの小さな胸はとくんと鳴った。  その日からレナードは両親が仕事をしている間に隠れて城に行き、フリッツと遊ぶようになった。だがそんなことすぐにバレてしまう。  両親は激高したが、皇帝は寛大な御心でレナードとフリッツが会うことを許してくださった。皇帝の後ろ盾を得て、レナードは日中のほとんどをフリッツと過ごしている。  一つ季節が巡った初夏のある日、見せたいものがあるとフリッツに呼ばれ、レナードは城の庭園に来ていた。  「みてて、レナード」  フリッツは舌っ足らずな詠唱をして小さな竜巻を起こした。風の魔法だ。レナードは魔法を見たのが初めてだ。  「すごい! これがまほう?」  「でもこれだけじゃないぞ」  フリッツが再び詠唱すると今度は水飛沫が上がり、青空に小さな虹が浮かんだ。  「にじだ!」  「やっとせいこーできるようになったんだよ」  フリッツのように二つの魔属性を同時に発動させるのは前代未聞だ。  だがそんなことを知らない幼いレナードは目を輝かせた。   「まほう……すごい!」  レナードが大袈裟に褒めるとフリッツのぷっくりとした頬が桜色に染まる。   「まぁな。おれはアルファだからな」   「このくにで、いちばんえらいひとになれるよ!」   「そうおもうか?」   「もちろん!」   「よし、じゃあおれはりっぱなこーてーになるぞ」  雲一つない青空に向かってフリッツは拳を突き上げた。敵を圧倒させた英雄のようにレナードの目には眩しく映る。  (フリッツとずっといっしょがいい)  優秀なアルファと番いたいオメガ故の反応だった。  次の日からレナードは父に願い出て剣の稽古を始めた。フリッツの隣にいるのは強くなければならないと思ったのだ。  元整合騎士団団長を務めていた父の稽古は厳しいものだったが、レナードは泣き言も言わずに精進していた。  厩舎の前で剣の素振りをするのがレナードの日課だ。ここなら自室でチューターから魔法学を勉強しているフリッツの姿が見える。  時折、フリッツが窓から顔をひょこりと出すと、レナードは大きく腕を振った。  そんなやり取りをしていると八歳のジンがのんびりと歩いてきた。  「せいがでるね」  「ジンさま、こんにちは!」  「さまになってきたじゃないか」  ジンに褒められると嬉しくて、レナードはにっと口角を上げた。  ジンはベータであるが故に魔力が少ない。それを補うように薬学や政治の勉強に励んでいる。だからフリッツとチューターが違う。 従者も連れず、一人で出歩いているから休憩時間なのかもしれない。  ジンはレナードが握っている木剣を指さした。  「きしだんに入るの?」  「もちろんです! ちちのようなりっぱなきしになり、フリッツをまもります」  「それはたのもしい」  自分より大きなジンの手で頭を撫でて貰うのが好きだった。一人っ子のレナードにとって、兄という存在は夜空に浮かぶ北極星のように導いてくれる。  「レナード!」  つんざくような声に振り返ると、自室にいたはずのフリッツが厩舎の前で仁王立ちをしていた。両頬をリスのように膨らませている。  「どうしたの? べんきょーしてたんじゃないの?」  「あにうえにちかづくな」  「どうして?」  「どうしてもだ!」  地団駄を踏み始めるフリッツの周りに吹雪が巻き起こる。魔力の暴走だ。  魔力は精神力と強く結びついている。感情の浮き沈みに比例して魔力も不安定になる。  癇癪を起こしているフリッツは怒りで気持ちに歯止めが効かないようだ。元々の魔力量が多いため、際限なく溢れ出てしまっている。  「フリッツ様、御心を鎮めてください!」  後から来たチューターが声をかけても、フリッツの怒りは収まらない。隣のジンは幽霊と遭遇したかのように目を見開いたまま固まっている。  吹雪はどんどん激しさを増す。あれほど暑かった夏の日差しが、厚い雲に覆われてしまった。  「あにうえにちかづくな!」  フリッツがもう一度叫ぶとビュンと風が強く吹いた。レナードは飛ばされないように剣を突き立てて耐える。  フリッツが怒っている理由がわからない。なぜ、どうしてと疑問ばかりが浮かぶ。  レナードはそこではっと気づいた。  ジンと話していたから、兄を盗られると思ったかもしれない。  フリッツとジンはとても仲が良い兄弟だった。知性的な兄とわんぱくな弟という一見相性が悪そうな二人だが、よく一緒に遊んでいた。  (このままだと、みんなとあそべないかもしれない)  レナードは吹雪の中に飛び込んだ。  「フリッツ!」  風に飛ばされないように地面の草を掴みながらレナードはフリッツに近づいた。アクアマリンの瞳は透明な膜に覆われ、宝石のような雫が風に飛ばされていく。唇をぎゅっと噛みしめる姿にレナードの胸は痛んだ。  一歩ずつ距離をつめ、レナードは自分より小さな体躯を抱きしめた。  だがフリッツは手足をバタつかせて激しい抵抗をする。レナードも負けてられない。日々の稽古で培っている筋力は自分の方が上だ。ぎゅっと押さえつけるとフリッツはようやく動きを止めた。  「ごめんね。ジンさまのことはとらないよ」  「おまえが」  「ぼく?」  「いなくなってしまうのかと」  「だいじょうぶ。ぼくはずっとフリッツのそばにいるよ」  「……うん」  レナードが頭を撫でてやるとフリッツは身体を預けてくれた。すると吹雪は止み、夏の日差しが戻ってくる。  この日を境にフリッツはより精神力を鍛えるため、喜怒哀楽を表に出さない訓練が始まった。それは二つの属性を持つ故に人の何倍も必要なことである。  だがまだ感情の抑制が難しい子どもは時々失敗してしまう。吹雪を巻き起こすたびにレナードは駆けつけ、フリッツを宥めた。  なぜか従者が宥めるよりレナードが抱きしめる方がフリッツの精神が落ち着くらしい。そのため魔法学の勉強をするときは、必然的に同席させられた。  フリッツが魔法学の勉強をしている間にレナードは剣の素振りをして過ごした。  ーーそうしていくつも季節は巡り、レナードは十歳を迎えた。  レナードは春からペイジとなった。整合騎士団の独身寮に毎日通い、先輩騎士から頼まれた雑用をこなしたり、騎士としての言葉遣いや礼節を学んでいる。  厩舎で剣の素振りをする時間もないくらい忙しい。  だがそれはフリッツも同じだ。社交界デビューと魔法学校への入学が決まり、学業と人脈作りと慌ただしいそうだ。  ようやくお互いの都合がついたのは、紫陽花がきれいに咲く六月に皇室非公式のお茶会という形で招待された。  レナードはシャツにラバリエールという大きなリボンタイをつけ、ブリーチズを合わせたどこかの成り上がりの坊ちゃんのような装いにさせられた。しかも髪を後ろに撫でつけられ、ベタベタして気持ち悪い。  いくら非公式でもお茶会に普段着で参加するわけにはいかない、と母親が焦って用意してくれたものだ。  でも久しぶりにフリッツに会えるのでレナードの気分は高まっていた。慣れた道を歩く足取りは軽い。  レナードが到着すると庭園の中央にあるガゼボで主催者であるフリッツとジンが出迎えてくれた。  三か月ぶりのフリッツは大人びて見える。髪を短く切り揃え、丸みを帯びていた頬がしゅっとしていた。  魔法学校に入学してからというもの、フリッツは頭角をめきめきと現している。二属性の魔力を掛け合わせた氷の魔法を極め、剣や槍などの武器を生成できるようになったそうだ。  それに他国の体術の習得にも余念がないようで、武器なしでもかなりの強さらしい。もちろん座学では常に首席をキープしている。  そのお陰で次期皇帝との呼び声が高い。  本来なら長兄であるジンが次期皇帝の座に就くはずだが、ベータということもあり難色を示す貴族が多い。  テイラー家は代々アルファが皇帝となり、アーガイル帝国を治めているからだ。 けれどジンは十三歳ながら薬学や政に長けており、貴族会議にもよく顔を出して意見を述べているらしい。  どちらも優秀過ぎる故にジン派かフリッツ派かの派閥が水面下にできてしまった。本人たちの知らぬところでいざこざがあり、二人はどこかよそよそしい距離感になっている。  (でも今日はせっかくのお茶会なんだから楽しまないと)  レナードは二人の前に立ち、背筋をピンと伸ばしたまま一礼をした。  「本日はおまねきありがとうございます」  「……なんだ、その言葉づかいは」  レナードを頭からつま先まで睨め回したフリッツは片眉を跳ねさせた。  「へんでしょうか?」  先輩騎士から学んだばかりの騎士の礼だ。何度も復習して、先輩たちからも合格をもらっている。  レナードが面食らっているとジンは首を振った。  「とても騎士らしい振る舞いだよ」  「ありがとうございます!」  ジンに褒められると試験で百点を取ったように嬉しい。隣のフリッツに視線を移すと彼の口角はあからさまに下がっていた。  席に座るとジンたちの執事が紅茶を淹れてくれた。芳醇な林檎の香りのする茶葉は、西の国からジン自ら仕入れたものらしい。  主にジンとレナードが話し、フリッツはそわそわと落ち着かない様子で何度も座り直している。  「そういえばどうしておれが呼ばれたんですか?」  三杯目の紅茶と四つ目のスコーンをおかわりしたレナードはフリッツに尋ねた。  「もうじきわかる」  そう言って城に顔を向けたフリッツの横顔を見た。三日月のように凛としている。 わずかに頬を赤らめ、このお茶会を楽しんでくれているのがわかった。  (久しぶりに会ったせいかドキドキする)  レナードは胸に手を当て、高鳴る心音に耳をすませていた。  しばらく話していると城が騒がしくなってきた。従者たちが慌ただしく右往左往している。  「来た」  フリッツが漏らすと同時に老齢の従者に連れられた一人の少女が庭園に現れた。  「ごきげんよう」  チェリーブロッサムと髪と瞳を持ち、微笑むだけで花が咲いたようにぱっと華やぐ可憐な少女だ。まるで花の化身のように美しい。  少女は笑みを浮かべたまま、レナード、フリッツ、最後にジンを見渡した。  「ごしょうたいありがとうございます。ミシェル・カスティーユです」  レモンイエローのドレスの裾を持ち、一礼をするミシェルの声は鈴のように心地よい。  男三人の視線を受けるとミシェルは恥ずかしそうに頰を染めた。  「ちゃんとごあいさつできていましたか?」  「……も、もちろんだとも! 天使が降臨されたのかと思った」  「おおげさですわ」  ジンが珍しく大声を出すとミシェルは首まで真っ赤にさせて俯いていた。  フリッツが口を開く。  「ミシェルは南西にあるりょうしゅのむすめだ」   それで説明は終わったとばかりにスコーンに手を伸ばした。   慌ててジンが付け加える。  「えっと、こちらがレナード。うちの家令の長男でいまペイジとして騎士の小姓をしているんだ」  「初めまして、レナードさん」  「こちこそ、ミシェル様」  レナードは慌てて立ち上がり、深く腰を曲げた。  領主の娘、ということはアーガイル帝国の領地を広げるために皇室に呼ばれたのだろう。  つまりフリッツかジンの婚約者候補だ。  ジンは初めて会ったようだし、社交界で先にフリッツが顔を合わせたのだろう。  彼女から香る花の匂いはよく知っている。オメガだ。アルファであるフリッツとあわよくば、という思惑が透けて見えていた。  なにが非公式のお茶会だ。  (こんな場におれはいらないじゃないか)  対角線上に座るフリッツに視線を投げかけるが、彼は目も合わせてくれない。じっとミシェルにだけ視線を定めている。  ミシェルは上品にカップを口につけ、ソーサーに置いた。  「お気づきだと思いますが、わたくし、オメガなんです」  一度言葉を区切ったあと、ミシェルは歌うように続ける。  「先日フリッツ様としゃこうかいでお会いしたとき、オメガのご友人がいると教えていただいたんです。だからどうしてもお会いしたくって、お茶会にしょうたいしていただいたんです」  「おれ……自分に会ってげんめつしたでしょう?」  レナードの見目は筋肉隆々の男だ。背も同年代の中では高く、吊り上がった目尻は初対面を畏怖させるほど迫力がある。  オメガは特性故に男女問わず愛されるように可愛らしい見目をしているとされていた。  だがミシェルは小さく首を振る。  「フリッツ様のおっしゃる通り、とてもあいらしい方ですわ」  「どういう意味ですか?」  自分のどこか愛らしいのだ。暑苦しいの間違いではないか。  「おい、余計なことを言うな」  「これは失礼しました」  フリッツが鋭く制するとミシェルは苦笑を漏らした。二人の近い距離感にレナードは呆然と眺めることしかできない。  だがその日を境に四人で顔を合わすことが増えた。  ミシェルはお淑やかで令嬢らしい子だ。オメガにして珍しく土属性の魔力を持っているので、植物や生き物が好きらしい。  ジンとは気が合うようで花冠を作ったり、読書をしたり、庭園の花を愛でたり  それのなにが楽しいかわからなかったが、二人はいつも笑みを絶やさなかった。  そんな二人を見ているとなぜかフリッツの顔が浮かぶ。どうしてだろうか。  「なにを見ている」  木の幹に足をかけたままジンたちを見下ろしていると、すでに上に登っているフリッツは怪訝な顔をしていた。  いまはフリッツと木登りをしている最中だ。  「ジンさまが……」  レナードは言いかけてやめた。フリッツとジンは日に日に仲が悪くなっている。今日は一度も会話をしていない。  名前を出すだけでフリッツは嫌そうに眉を寄せる。  「また兄上か」  「もうしわけありません」  レナードは胸に芽生えるこの気持ちを言葉にできなかった。まるで名もない花を初めて発見したような悦びと不安が一束にされている。どうすれば伝わるのだろう。  「俺は……」  フリッツは途中で口を閉ざしてしまった。名前を呼ぶが彼は首を横に振るだけで、その先の続きを答えてはくれなかった。  そうして夏、秋、冬を越え、また春がきた。  今日はフリッツが庭園で魔法の鍛錬をしているのをミシェルとジンと見学している。  「フリッツ様の氷魔法は素晴らしいですね。あんなに詠唱を短縮できるなんて」  詠唱は身体に流れる魔力を杖に集中させるために行う呪文のようなものだ。基本的に時間がかかり、大魔法ともなれば倍以上かかる。その分威力も強大だ。  だがフリッツは小さな魔法くらいなら一言で発動できるほど集中力が際立っていた。  ジンがいやいやと大仰に首を振った。  「ミシェルもすごいじゃないか。オメガなのに魔力を持ち、土を耕すことができる」  「そこまで誇れるものではありませんわ」  けれどジンはそんなことない、と鼻の穴を膨らませた。  「土を耕せば花も野菜も育ちやすい。とても素晴らしい魔法だ」  「ジン様に褒められると恥ずかしくなってしまいますわ」  ミシェルは顔を真っ赤にして俯いてしまうが、そんな様子をジンは愛おしそうに目を細めていた。  公言はしていないけれどジンはミシェルを愛しているのだろう。彼の言葉の隅々には彼女への愛おしさが隠しきれていない。  (俺も素直に好意を出せればいいんだけど)  ちらりと視線を向ける先は魔法学のチューターから指示を仰いでいるフリッツだ。  その真剣な横顔がふとこちらを向く。さっと視線を逸らして、レナードは草をむしって誤魔化した。  (恥ずかしくてまともに顔が見られないよ)  胸にずっと燻っていた芽が「恋」と名前をつけると腑に落ちた。  同時にホオズキのように膨れ上がり、いまにでも爆発してしまいそうだ。  (でも俺はフリッツ様と番になれる)  幸いレナードはオメガでフリッツはアルファだ。二人を隔てるものはない。  (勇気を出して、番になろうって言ってみようかな)  きっとフリッツも承諾してくれる。だってこんなにも彼を愛おしく想っている。そばにいたら絶対楽しいはずだ。  恥ずかしくてまともに喋れないくせに夢ばかりが先走っていく。  だが数日後。  フリッツとミシェルの二人はかしこまった様子で庭園に現れた。社交界パーティーの帰りだったのだろう。二人の装いはいつもより煌びやかだ。  フリッツがゆっくりと口を開く。  「ミシェルとこんやくしたんだ」  「……え」  フリッツの言葉がうまく理解できない。ミシェルは笑顔を浮かべている。それは心からフリッツとの婚約を喜んでいるように見えた。  しばらく呆然としているとフリッツは柳眉をきりっと上げた。  「これからは俺の婚約者として丁重に扱えよ」  「……わかりました」  やっと絞り出せた声は蚊の羽音より小さいだろう。レナードの隣で立っていたジンのこぶしが握られているのが、視界のはしに映った。  そのあとどうやって家に戻ってきたのか憶えていない。気がつけば家の前に植えてある楓の木の下に腰掛け、レナードは地平線に沈む夕日を眺めていた。  (フリッツ様が……けっこん)  フリッツとミシェルはいつから想い合っていたのだろう。社交界で最初に会ったときから? それとも毎日のように顔を合わせているときに少しずつ距離を縮めたのだろうか。  じくじくと胸が痛み、レナードは深く息を吐いた。  (俺はなんてかんちがいをしていたんだ)  この世には立場というものがある。レナードは一般市民、フリッツは皇族だ。どう転んでも結婚なんてできるはずがない。  (なにがつがいになって一生そばにいたいだ)  そんな道はレナードの前に最初から用意されていない。  かさりと葉を踏みしめる音にレナードが視線を上げると夕日を背にしたジンが立っていた。  斜陽が差す横顔は暗く、まるで洞穴から覗かれているように寒々としたものだ。のろのろと歩くさまは生気が感じられない。  「こんばんは、レナード」  「……こんなところまでどうされたんですか?」  レナードはなんとか平静を装って声を絞り出した。伊達にペイジとして働いていない。  フリッツは何度かレナードの家まで来たことがあるが、ジンは一度もない。緊急事態だろうかと慌てて立ち上がると、彼はその場にひざまついた。  「私と婚約して欲しい」  「なぜ、ですか。ジンさまはミシェルさまを好きですよね」  「でもミシェルはフリッツと婚約した。ベータの私では手出しできない」  近くで見るとジンの瞳には薄っすらと涙の膜が張っていた。自分の愛する人が弟と婚約して穏やかでいられるはずがない。  その気持ちはレナードにも痛いほどわかる。  「レナードはフリッツが好きだろう?」  「どうして、それを」  「見てればわかる」  神妙に頷くジンの顔に暗い影が落ちた。まるで鏡映しのように自分も同じ面構えをしているのだろう。  世界中の不幸を詰め込んだようにここだけ空気が重い。  「レナードはオメガだ。これから先、たくさんの縁談がくるだろう。そしていつか断れない家柄が出てくる。でも私と婚約していれば誰もきみに手出しはできないよ」  まだ十歳とはいえ、レナードの元にも縁談の話はいくつか持ち上がっていた。ペイジとして勤めているから、と両親が断ってくれているが、それがいつまでもつかわからない。  本来オメガは子を産むことを良しとされる性だ。レナードやミシェルのように剣術や学問を学ぶ者は少ない。  フリッツ以外の男に触れられることを想像し、冷水に浸けられたように背筋が凍る。  「俺にはありがたいお話ですが、ジンさまはそれでいいのですか?」  「私はミシェル以外愛することなんてできない。王族の繁栄のため、種馬のような結婚はしたくない」  苦虫を噛み潰したようなジンに抱いたのは共感だ。ジンの考えが頭に響いてくるように思考が読める。  レナードも同じ気持ちだ。  ジンは続ける。  「例えレナードと結婚しても手を出さないと誓える。周りから子どもを作れと言われても、授かりものだと生涯誤魔化し続けよう」  それは願ってもない話だ。お互い別に想う人がいる。でも結ばれることはない。  なら相手に操を立てたまま傷の舐め合いをしようということなのだろう。  レナードはジンの手をとった。節高の指は骨ばって冷たい。兄弟だからか、フリッツの手を取っているような錯覚を覚えた。  「俺はこのえきしになり、フリッツさまをまもりたいです」  「私は医者になるよ。ミシェルがたくさん子どもを産み、育てられるようにする」  「いい夢ですね」  「お互いにね」  ジンの手を強く握った。まるで結婚式のときに行われる寿ぎのようだ。  でもお陰で胸につっかえていたものが清流に流されるようにすっとする。  「俺たちの関係を失恋同盟となづけましょうか」  「いいな。ピッタリだ」  ジンとの同盟関係が幕を上げた。  十四歳になりレナードはエスクワイアとして騎士見習いとなった。実際の戦闘訓練を学び、魔獣の討伐や遠征を繰り返し、気力と体力を培うのだ。  このとき、初めて発情期がきた。  だが既存の抑制剤が身体に合わず、無理を言って休みを貰い、ブランデン辺境地に足を運び新薬の治験を手伝った。 お陰で自分に合った抑制剤と出会い、毎日服用を続け、鍛錬を積んでいる。  夏季休暇に合わせて家に帰ると、ちょうどフリッツも帰省していることを父親から聞いた。  中等魔法学校に進級した彼も寄宿舎生活をしている。  家を飛び出して庭園へ向かうとフリッツはガゼボで読書をしていた。分厚い本は魔導書だろうか。  レナードに気がつくと顔を上げた。  顔を合わせるのは実に三年ぶりだ。  「お久しぶりです、フリッツ皇子」  緊張のあまり声が上擦ってしまって恥ずかしい。だが久方ぶりのフリッツに踊りだしたいくらい歓喜している。  三年ぶりのフリッツはさらに大人の色香を纏っていた。丸みを帯びていた顔が全体的に洗練され、組まれた足が長い。アクアマリンの瞳だけは変わらずに輝いている。  あまりの美しさに見惚れてしまう。  だが目が合うとフリッツは汚物を見るかのように鼻に皺を寄せた。  「おまえ、まだその言葉遣い直ってないのか」  「どこか変でしたでしょうか?」  「まるで主君に仕える騎士みたいじゃないか」  「みたい、ではなく騎士になるのです。フリッツ皇子」  首を傾げるレナードにフリッツの表情は苦々しいものに変わる。はっと短く息を吐いた。  「兄上と婚約したそうじゃないか」  話がすげ替えられたことに疑問を持ちながらもレナードは小さく頷いた。  今年になってやっとジンとの婚約が決まった。一悶着はあったが、彼が臣籍に降るということで決着がついたのだ。  これで時期皇帝はフリッツになる。  「そうか、やっぱり俺の入る隙はないってことなんだな」  低く唸るフリッツの声は威嚇する獣のように鋭い。レナードのうなじがピリピリと震え、背中に嫌な汗が伝う。  レナードはフリッツのそばにいたいだけだ。それなのにどうして美しい顔が曇ってしまうのだろう。  フリッツは大きく息を吸ってからゆっくりと吐いた。白い息が蜘蛛の糸のように長く伸びている。  だがいつかのような癇癪を起さない。この数年で見違えるように精神力を鍛えたのだろう。  顔をあげたフリッツの瞳は碓氷のようになにも映していなかった。  「わかった。これから俺たちは主君と騎士だ」  ぱりっと氷が割れるような音が、鼓膜の奥で響く。  いま決定的になにか違った。道を違えたのだと本能が警鐘を鳴らす。  でもそれがなにかわからない。  答えを求めるように手を伸ばすとフリッツは作り物の笑顔を浮かべた。  「フリッツ皇子?」  レナードが名前を呼んでもフリッツは拒絶するように背を向けて城に戻ってしまった。

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