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第3話

レナードは城の厩舎にいる愛馬ーーエーレを迎えに行き、両親にブランデン辺境地へ行くとだけ記した手紙を残した。  寄宿舎の荷物は明日ビルに独身寮へ運んでもらえるよう頼んである。理由は明かしていないが、察しのいい友人は気づいているだろう。  でもこれで叙任式までの約半月間、レナードは自由に動ける。  レナードは旅用の革袋を腰に提げ、エーレに跨った。久しぶりにも関わらず彼女はレナードを心よく受け入れてくれた。  軍馬として鍛えられたエーレは足が速く、体力もある。一日中走っていることも可能だが冬の寒さが残る長駆はレナードの身体がもたない。厚着をしていても冷気は簡単に服の隙間を縫い、体温を奪ってしまう。  休憩を挟みながら二時間ほど走るとエーレは突然嘶き、足を止めた。異様な気配が漂っていることに彼女も気づいたらしい。  「よし、いい子だ。ゆっくり行こう」  レナードは手綱を握り直し、蹄の音に気づかれぬようスピードを落とさせて歩みを進めた。  船の往来が盛んで絶えず人が溢れている貿易街ーーミナスがこの先にある。年中祭りをやっているように賑やかさとしてアーガイル帝国一栄えていた。  だが街は目と鼻の先だと言うのに人の声がまったく聞こえない。漁港では朝のせりが始まっている時刻をとうに過ぎているはずだ。  (それにこの匂いは……血か)  魔獣と人間の血が混じった匂いが風上から流れてくる。身体の芯まで冷えているのにレナードのこめかみに汗が浮かんだ。  ビルが話していた噂話が頭を過る。  周囲を警戒しながら進んでいくと、街の出入り口に建てられている大聖堂が見えてきた。だがここまで近づいたのに金木犀の香りがしてこない。代わりに焦げ臭い匂いがレナードの鼻をついた。  (マズイな)  レナードは腰に携えた剣の柄を握った。きんという金属音が緊張感を増幅させる。  街へ近づくと本来なら美しいオレンジの花が真っ黒に焼け焦げていた。  「領民を大聖堂に集めろ!」  男の野太い声が轟き、レナードはエーレの手綱を強く叩いた。  声のする方へ向かうと大聖堂を囲うように魔獣が唸り声をあげている。狼のより巨大な四本足の魔獣や子どもの背丈ほどありそうな翼を広げて空を飛んでいる個体が大聖堂を囲っていた。数はおよそ二十体。  装甲サーコートを着た五人の騎士たちが大聖堂に入られないように剣を振るい、詠唱を唱えている者もいる。  だが魔獣も負けていない。鋭い爪を振りかざし、盾を薙ぎ倒していた。 明らかに劣勢だ。  「行くぞ」  レナードが声をかけるとエーレは駆け出した。  レナードは太い剣を振りかざし、魔獣を背後から斬りつけた。耳障りな断末魔が響く。  奇襲に気づいた魔獣たちが一斉に振り返る。だが瞬きをさせる隙も与えず、こめかみを切っ先で貫いた。  「エーレ、奴らを中央に集めてくれ」  ひんと鳴くエーレから飛び降り、レナードは駆け出した。襲ってくる魔獣を剣で薙ぎ払い、斬り伏せる。  目にも止まらぬ速さはまさに豹。  黒髪と浅黒い肌からレナードは「閃光の黒豹」と呼ばれていた。  エーレは魔獣たちの周りをぐるぐると回り、ぎゅうと一か所に固まる。  エーレが合図するように甲高く嘶いた。  レナードは土を力強く踏みしめ、剣先にすべての体重をかけ魔獣たちに向けた。大きく一歩を踏み出すと爆風が巻き起こる。魔獣たちは四方八方に飛ばされていく。  確かな手応えを感じ、周囲を見回した。魔獣は一匹残らず倒している。  レナードは血を拭ってから剣を鞘に収めた。エーレは大きく嘶き、自らの手柄を誇っている。  「手助け感謝するぞ。レナード」  「はっ、騎士団長」  紺色のサーコートに身を包んだ整合騎士団団長が大聖堂から出てきて、レナードに礼を述べてくれた。  父の後輩にあたるため、ペイジの頃からなにかと可愛がられている顔馴染みだ  だがよっぽどの有事がない限り団長は現場に来ない。かなり状況が逼迫しているのだと悟った。  団長は倒された魔獣を見渡し、顎鬚を撫でた。  「手紙が届いてすぐ駆けつけてくれたのか。さすが閃光の黒豹だ」  「手紙、ですか?」  「金木犀が壊され、魔獣が彷徨いているのは耳にしているだろ? いま整合騎士団が総出であちこち警護しているんだが、人手が足りん。だから学園の騎士科も応援に来るよう風便を出したんだが」  団長は一言区切り、レナードははっとした。もしかしてレナードの出立直後に応援要請がきたのかもしれない。  「自分は別件で早朝に出立したので、入れ違いになっていたのかもしれません」  「そうか。でも丁度いい。おまえも手伝ってくれ」  団長の言葉にレナードはすぐに返事ができなかった。  整合騎士団と行動を共にしたらブランデン辺境地に行けない。  (番解消薬を諦めるしかないのか)  上官に問われて即答しないのは騎士としてあるまじき行為だ。騎士は主君に忠誠を誓うのと同じくらい、上官への敬意を払わなければならない。  だが団長は叱咤するでもなく、じっとレナードの出方を伺ってくれていた。やさしい団長の人柄が滲み出ている。  (仕方がない。またチャンスはあるだろう)  レナードが口を開きかけると場にそぐわない明るい声が割って入ってきた。  「それは困りますよ、団長殿。俺たちはいま新婚旅行中なんですから」  ふわりと鼻を擽る蜂蜜の香りにレナードの肌が粟立つ。肩を組まれた拍子に兎の毛のコートが頬に触れた。  「フリッツ、皇子……新婚旅行とは?」  突然現れたフリッツに団長は目を丸くしている。姿を見るまで匂いも気配もわからなかったのだろう。レナードも同じだ。  団長に問われたフリッツは満面の笑顔を浮かべている。  「叙任式まで各領地を旅しようとレナードと実行中なんです。春からお互い忙しくなるので」  そうだよな、とレナードを見上げるアクアマリンの瞳は一切の淀みがない。  なぜここにいるのか、新婚旅行ってなんのことだ、と絡まった毛糸のように思考がごちゃごちゃしている。  「レナード、そうなのか?」  団長の問いかけにレナードは固まってしまった。  主君と団長をどちらかを選べという過酷な選択を強いられて、まともな思考ができるわけがない。  肩に回された手に力が入り、隣を見下ろすとアクアマリンの瞳が「俺を選べ」と訴えかけてくる。  レナードは小さく息を吐いてから背筋に力を入れた。  「旅に出ているのは本当です」  新婚、という部分は無視した。事故つがいになっただけで結婚まではしていない。  レナードの答えに団長は頷いた。  「なら団とは別に動いてくれ。個人の方が動きやすいだろう。魔獣がいたら倒し、都度動きを確認して報告をあげてくれ」  「もちろんです」  「二人なら無敵だろう。なにせ両科の首席なんだから」  「地位に恥じぬように邁進していきます」  フリッツと同時に頭を下げると団員に呼ばれた団長は足早に行ってしまった。魔獣の死体処理や領民や団員の傷の手当て、金木犀を植えたりとなにかとやることは多いのだろう。  団長が見えなくなるとレナードは肩に置かれた手を払いのけた。  「いつからつけていたんですか」  「ん? なんのこと?」  「エーレが気づかないよう魔法で匂いまで消して。用意周到ですね」  「なんのことやら」  フリッツはまったく悪びれる様子もなくくすりと笑っている。  フリッツの笑顔の真意が読めない。  そもそも彼は巨大な魔力を持つ弊害として感情を殺し、取り繕うことに長けてしまった。  彼の心のうちを読み取るのはそう容易くない。  レナードは慎重にフリッツの表情を観察した。  「質問を変えます。なぜついてきたのですか?」  「おまえが朝一に城に戻るのが見えてね。どこに行くのかなと興味本位」  「ではもう満足されたでしょう。帰りましょう」  なら一端帰るふりをしてまた出立すればいい。少し時間はかかるが、ついて来られるよりマシだ。  「レナードはミナスになんの用があったんだ?」  「それは……魔獣が攻めてきていると聞いて」  「おかしいな。騎士団からの風便は読んでいないんだろ?」  そこから聞いていたのか、とレナードは臍を噛んだ。  どんどん絶壁に追い詰められているような気がする。レナードが顎に皺を寄せるとフリッツは腹を抱えて笑い出した。  「レナードは相変わらず嘘が下手だな」  目尻に溜まった涙を指で掬うフリッツの指先は真っ赤になっていた。凍傷になりかけている。  よくよく服装を見ると温かそうな兎のコートは羽織っているものの、シャツとスラックスに革のブーツという軽装だ。旅用の鞄すらない。  まるで着の身着のまま飛んできたような恰好だ。  レナードは皮の手袋をフリッツの手にはめてやり、それから毛布を肩にかけてやった。  「とりあえずここにいたら復興の邪魔になるので街道へ出ましょう」  レナードが指笛でエーレを呼びつけて跨った。フリッツは手袋を空に掲げて見入っている。  「おまえはそうやってすぐ俺を甘やかすんだな」  目尻を下げて笑う顔は幼い頃にみた笑顔にそっくりだった。  レナードはエーレに、フリッツはゼウスに跨って街道に出た。ゼウスはフリッツの愛馬で、黄金の鬣と白い毛を持つ軍馬だ。普段は学園の厩舎に預けられている。  魔獣を討伐したお陰か近辺に嫌な気配はなく静かだ。  人や行商を見かけないあたり、かなり物流が滞っているらしい。このままでは食糧も尽くのも時間の問題だ。  ゼウスに揺られるフリッツは大人しくレナードの後をついてきている。  「ご公務はどうされたんですか?」  「そんなの兄上に押しつけたに決まってるじゃないか」  「……そうですよね」  「四月から正式に皇族として公務をするんだ。いまぐらいしか自由に動けないし」  皇子とはいえ暇じゃない。各領地の視察や農作物の量、魔獣の動向、他国との交易など探そうと思えばいくらでも仕事は出てくる。  だが学生の内は公務の量は少なく調整されていた。  現皇帝であるフリッツの父君ーークレマンは体調が悪い日も多く、ジンが主体となって帝国を回している。  ジンは政の才がある。それに流行や先を見通せる力があるので、楽しんでやっているのが想像つく。  でも無理をして体調を崩されないだろうか。  「兄上が気になる?」  「心労が溜まって倒れてしまわないか心配です」  「……そう」  すっとフリッツの顔の色がなくなる。元々肌が白いとはいえ、あまりにも血色がなさすぎる。  身体が冷えるのだろう。ミナスで服だけでも調達できればよかったが、魔獣に襲われたばかりで街は酷い有様だった。とてもじゃないが服をくれ、と言える雰囲気ではない。  レナードは手綱を引いて、エーレを止まらせた。  「やはり戻りましょう。お送りします」  「おまえはまた俺を置いて行くつもりか?」  「それは……」  「どこに行こうとしてる?」  ピリピリとしたフリッツの気配は、何重にも布で巻いて剣を隠しているような怒りを感じる。  返答次第では斬られてしまいそうだ。  黙っていたいが、長年騎士として鍛錬してきたレナードにとって、これ以上主君に背けない。  レナードは息を潜めるように答えた。  「ブランデン辺境地です」  「なぜ?」  「……番解消薬があると聞きまして」  「はぁ〜なるほどな」  フリッツはプラチナブロンドの髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。  白い息が彼の細い身体に纏わりついている。  周りの気温が下がる。まだ陽は高い位置にあるのにおかしい。酸素が凝縮されたかのように肺が苦しくなり、レナードは目の前の男に視線を向けた。  フリッツの身体に白い霜が降り積もっている。霧のような白い靄がぐるぐると彼の身体に纏わりついていた。  (魔力が暴走している)  子どものとき以来だ。フリッツの心がいまこの瞬間乱れている。  レナードが番を解消したいと言ったせいだろう。  番になるとアルファの本能は書き換えられ、異常なまでに番に執着するのだ。  例え他に想う人がいても例外ではない。  だからそのせいでフリッツの心の安定が崩れようとしているのだろう。  でもレナードは番をなかったことにしたい、と出立前に伝えてある。だからフリッツはレナードの気持ちを理解してくれているはずだ。  フリッツにとってレナードとの番は毒に当たったような不測の事故だろう。  騎士とはいえ一般領民であるレナードと番なんて外聞が悪い。せっかくフリッツは次期皇帝を継ぐのに、その足場を崩しかねないはずだ。  どちらにせよ、世間に知られてしまえばレナードとフリッツは査問会議に必ずかけられる。  そうすれば遅かれ早かれ番解消薬を使われる可能性は高い。  なら大事になって帝国を騒がせる前に、内々で終わらせたほうが領民を動揺させなくて済む。  使ったものを元の場所に戻すように関係が戻るだけ。  (それを望まれていないということは妾として自分をそばに置いておこうとしているのか)  冗談ではない。  妾になんてなったら近衛騎士どころか、ただの子を産む玩具ではないか。  オメガは子を産み育てることを望まれる性である。レナードも少なからずその気持ちは理解できる。  だがレナードは周りの期待よりも夢を大事にしたい。  「番を解消させてどうしたいんだ?」  フリッツの問いかけにレナードは顎を引いた。  「近衛騎士となりフリッツ様をお護りします」  とんと胸を張った。なに一つ間違ってない。  自分の信念はここにあると示すように背筋を逸らした。  だがフリッツは一瞥しただけで下唇を突き出している。  「決めた。俺もついていく」  「なぜですか?」  「番解消薬を飲まさせない!」  フリッツの高らかな宣言に開いた口が塞がらない。  それほどレナードを妾にしたいということか。  花の妖精のようなミシェルとの番だけでは足りないと言うのだろうか。  本来、皇族は血を絶やさないように妾を取るものだ。だがクレマンは生涯ただ一人の女性を愛しぬいた愛妻家である。  フリッツが生まれてすぐ皇后は亡くなってしまったが、いまも独身というところをみると純愛なのだろう。  そんな親の背中を見て育ったはずなのにフリッツは貪欲過ぎる。  (それともアーガイル帝国をより繁栄させようとお考えなのだろうか)  アルファとオメガから生まれた子は国を繁栄に導くと言われている。  だが丈夫と言われるオメガとて万能ではない。  ミシェルがこれから先、大病をしてしまう可能性はある。万が一、お世継ぎが生まれなかったときのためにスペアとしてレナードを使いたいということか。  (そんな屈辱あってたまるものか)  生来の負けん気が顔を出すがレナードは怒りを飲み込んだ。主君であるフリッツに背けるだろうか。  死ねと命令されれば悦んで死ぬのが騎士道というものだ。  「レナード」  甘ったるい菓子のように名前を呼ばれ、おずおずと隣を見る。  フリッツは片頬を上げていた。  「命令だ。俺が旅に同行するのを許可しろ」  「そっ、それは」  「できないというのか? おまえ、騎士なのに主君に逆らっていいのか」  矢継ぎ早に畳みかけられてしまいレナードは頷くしかなかった。    次の領地ーーリンクス領に着くと陽が沈んでしまった。気温がぐんと下がり、寒さが身体の芯にまで響く。いまの時期の野営は危険だ。  幸いこの領地の金木犀は壊されていないようで穏やかな街並みが続いている。  エーレをフリッツに預け、レナードは宿屋に入った。  「二名宿泊できるか?」  「申し訳ありやせん。本日は一部屋しか空いてなくて」  店主の返答にレナードは目を丸くした。  言い方は悪いがこの領地はこれと言った観光名所があるわけではない。領民が多く住んでいるだけだ。  それなのに宿屋が満室になるはずはないだろう。  レナードの心情を読み取った店主は申し訳なさそうに頬を掻いた。  「それがミナスから避難した人が大勢押し寄せてきて部屋がないんでさ」  「そういうことか」  どうやら金木犀が燃えているのを目撃した一部の領民は、さっさと見切りをつけてリンクス領まで逃げおおせたらしい。  (ある意味一番賢いだろうな)  魔獣に襲われた街は酷いものだった。家屋は壊され、とてもすぐ住める状態ではない。それにたくさんの怪我人が出ている。  人の血を飲み強くなる魔獣の脅威に怯えながら暮らすのは不憫な話だ。  「一部屋で構わない。馬を二頭預けてもいいか」  「かまいません。厩舎は左手にありやす」  宿屋を出るとフリッツはエーレとゼウスの手綱を握りながら夜空を見上げている。小さな喉仏が上下していた。  たったそれだけの仕草なのに美術品のように様になる。自分が絵師なら筆を走らせていたかもしれない。  フリッツの姿をしっかり網膜に焼きつけ、レナードは一度深く息を吐いた。  「遅くなりました。行きましょう」  「星が綺麗だな」  フリッツは上を向いたまま白い息を吐いた。  冬の空気は何度もこしたように澄んでいて星がよく見える。高地へ向かっているから王都より空との距離が近いのもあるだろう。  「あ、流れ星」  フリッツが指をさす先を見たが、レナードは間が悪く見られなかった。  視線を戻すとフリッツは手を組み、一心不乱に祈っている。  (なにを願ってらっしゃるのだろう)  アーガイル帝国の繁栄か。それともミシェルとの結婚のことか。  それを聞く立場ではない自分が少しだけ歯痒い。  「おまえはなにも願わなくていいのか」  「自分は流れ星を見ていないので」  「じゃあレナードの分まで俺が祈っておいてやろう」  そう言ってフリッツはもう一度手を組んだ。  (一体どんな願いをされているのやら)  でも自分のためにフリッツが祈ってくれるのは嬉しい。  この姿を一生忘れないようにしたいと心の中で願った。  宿屋に併設されている厩舎にエーレたちを預け、レナードとフリッツは酒場に向かった。  丸一日なにも口にしていないので腹が減っている。  どうやらリンクス領民だけでなく、ミナス領民たちも集まっているのか酒場はかなり盛況していた。宴のようなどんちゃん騒ぎの声が外にまで漏れている。  唯一空いているカウンター席に並んで座ると、フリッツは好奇心が抑えられない様子で周りをキョロキョロと見渡した。  「これが酒場か」  「変な行動は慎んでください。カモだと思われますよ」  酒場に慣れていない=貴族と思われ、たかられることが多い。特にフリッツは皇子なのでバレたら面倒なことになりそうだ。  レナードは料理をいくつか注文していると、フリッツは不満そうに唇を尖らせた。  「酒は頼まないのか」  「飲みません」  「でも身体が冷えて死にそうだ。アルコールを摂取すれば身体の内側から温まるんだろ」  「スープで充分ですよ」  「ケチ! あほんだら! 生真面目!」  「生真面目で結構です」  レナードがつんと返すとフリッツは眉間の皺を深くさせた。   貴族は決まって酒をジュースのように飲むが、テイラー家は酒に弱い一族らしい。  うっかり弱味を握られないように制限している、と家令の父から聞いたことがある。  だから意地でも飲ませるわけにはいかない。  料理が運ばれてきてもフリッツは食事に目もくれず、テーブル席の集団がぶどう酒を飲んでいる様子を羨ましそうに見ている。  (まいったな)  あまりにも拗ねた顔が可愛いせいもあり、うっかり絆されそうになる。一杯だけならいいか、いやだめに決まっているだろうと己の中で格闘していた。  うんうん唸っているとフリッツの隣に座っていた男がぐるりとこちらを向いた。  「兄ちゃんたち、リンクスは初めてかい?」  「あぁそうだ」  フリッツが答えると男はまじまじと目を凝らしている。たらふく酒を飲んでいるのか顔は真っ赤で目が虚ろだ。顎鬚はぶどう色に染まっている。  「ならぶどう酒を飲まないと! ここはぶどう酒の名産地なんだ。おい、親父。この兄ちゃんたちにぶどう酒を」  「自分たちは必要ないです」  レナードが制するが男は遠慮するな、と付け加えた。そういうわけではない。  案の定、フリッツは店主からジョッキを受け取ると止める間もなく一気に煽った。  「一気に飲んではダメです!」  慌ててジョッキを取り上げたがすでに空っぽだ。  フリッツの顔がぼんと音を立てそうなほど真っ赤に染まっている。目は潤み、視線が定まっていない。  「おぉ兄ちゃんいい飲みっぷりだな!」  「ひえっく」  「ならまだまだいけるだろ」  男はレナードの分のジョッキをフリッツに手渡し、さぁ飲めと言わんばかりに背中を叩いた。  フリッツは促されるまま、またジョッキを煽っている。  「本当にいい飲み方だな」  なぜかレナードたちの周りに人だかりができてしまった。フリッツの身なりから貴族だと気づかれたのだろう。酒をたらふく飲ませて潰し、笑いものにするつもりなのかもしれない。  そういう絡み酒をしてくる連中には、何度か遭遇したことがある。  フリッツはジョッキをテーブルに叩きつけ、口元を拭った。  「もっと持ってこい。このみしぇのしゃけはじぇんぶ俺が飲んでにゃる!」  「おーいいぞ!」  店主が意気揚々とぶどう酒を樽から注ぎ、どんどんテーブルに運んでいる。  こんなこと城に知られたらレナードの首が切られてしまう。  レナードは慌ててフリッツに耳打ちをした。  「フリッツ皇子、もうその辺にしてください」  「んにゃもん、平気にゃ!」  顔を真っ赤にさせて上機嫌なフリッツは聞く耳をもたない。  やはり父親の言う通り酒は強くないのだろう。たった二杯で呂律が怪しくなっている。  フリッツの隣に座った顎鬚の男がレナードに顔を向けた。  「兄ちゃんの相方は弱いな!」  「酒は初めてなんだ」  「どこの貴族だよ」  ぎゃははと酔っ払いたちの笑い声が波紋のように広がり、レナードは苦笑いを浮かべるしかなかった。  どうやらフリッツの正体には気づいていないらしい。もし城に知られたら、彼らにもそれなりの罰がくだるだろう。  男がレナードにジョッキを渡した。   「じゃあ兄ちゃんも飲みな!」  「いや、自分は」  「いいじゃないの。ここのぶどう酒は格別だぞ」  芳醇なぶどう酒の香りにくらりと欲望が傾く。  酒は好きな方である。  アルコールが充満した店内と陽気な空気に押されるようにレナードはジョッキを手に取った。  「一杯だけなら」  「いいぞ! 飲もう、飲もう!」  レナードがぶどう酒を一気に煽ると胃がかっと熱くなる。そのきつさが心地よい。味も申し分なく、かなり自分好みだ。  口元を拭っていると顎鬚の男はレナードの首元を指した。  「兄ちゃん、もしかしてオメガか?」  「そうだ」  シャツの隙間から歯型が見えてしまったのだろう。傷口は塞がり、布で覆うのをやめている。  男はレナードとフリッツを見比べて、八重歯を覗かせた。  「二人は番か!」  「そうなんでしゅ〜!」  フリッツに肩を組まれ、あろうことかレナードの頰に自分の頬を擦りつけた。  「俺のちゅがい。かぁいでしょ」  「いや、可愛いとは」  「かぁいいでしょ」  「お、おう……べっぴんさんだな」  フリッツの圧に屈したのか酔っ払いたちはうんうんと頷いた。   (可愛い……)  産まれてこのかた一度も言われたことがない言葉だ。両親からも聞いたことがない。  胃の底が熱くなるのは酒だけのせいではないだろう。  だがきっと勘違いだ。  酒に酔ったフリッツは、ミシェルとレナードを間違えているのだろう。  そうでなければあり得ない。  酒で気が大きくなっているのかフリッツはもっと大胆に身体をくっつけてきた。  腰に腕を回され、隙がないほど密着させられる。レナードのうなじにフリッツが顔を寄せてきた。  「俺がちゅがいなの……うふふ。ほっぺにちゅーしちゃお」  ちゅっと言いながらフリッツはレナードの頬に口づけを落とした。瞬間、肌がざわつく。隠せないほど頬が熱い。  「あの……困ります!」  「いいじゃん。減るもんじゃな……し」  笑っていたはずのフリッツが、ぷつんと糸が切れたようにテーブルに突っ伏し、大きないびきをかいた。とうとう限界がきたらしい。  嵐のような出来事を見ていた男たちの目は点になっている。  「兄ちゃんの番はすごいな」  「騒がせて悪い。あとのお代は払うからみんなで飲んでくれ」  「おー気前がいいな!」  店主に多めの金貨を渡し、レナードはフリッツをかついで三階の宿屋へ続く階段をのぼった。  彼に触れるだけで肌が歓喜してしまう。アルコールで緩まった理性がフリッツを欲していた。  (このまま一緒にいたらマズイ)  フリッツをベッドに寝かせ、レナードは残り少ない抑制剤を飲んだ。身体の中で燻っていた熱がだんだん小さくなっていく。  唇を落とされた頬を乱暴に拭うとその箇所だけジリジリと痛んで余計意識してしまう。  舌打ちしたいのを堪え、レナードは振り返った。  「自分は外にいます。なにかあったら呼んでください」  黙って出ていくのは気が引けたので声をかけるとフリッツの瞼がゆるゆると開いた。  「どこに行く?」  「外で警護します。この部屋には鍵がありませんし、魔獣や野盗が来ないとも限りません」  「ねにゃいのか?」  「……厩舎か納屋で仮眠しますので問題ありません」  「しょれだと休めにゃいだろ。一緒に寝よ?」  フリッツに腕を掴まれた。酔っているとは思えないほどの力でベッドに引き摺り込もうとしてくる。  だがレナードも騎士だ。そう簡単に負けてやれない。  足を踏ん張って、抵抗した。  「実習で徹夜は慣れています。近衛騎士には負けますが、フリッツ皇子を守ります」  「別にいい……俺もちゅよい」  「それはよく存じてますが、いま襲われたら無理でしょう?」  酒に酔って呂律も怪しいのだ。奇襲されてフリッツが戦力になるとは到底思えない。  だがレナードの言葉にアクアマリンの瞳に鋭い光が入る。  掴まれた腕を捻られ、背中に回された。そのままベッドに抑えつけられる。  あまりに俊敏な動きにレナードは瞬きすらできなかった。  「ほりゃまだだいじょーぶ」  ぎりと手首を捻られてレナードは小さく呻いた。魔法を得意とするフリッツだが、体術もずば抜けていたと身をもって思い出した。  (悔しい)  レナードは魔力が生まれつきないオメガとして生を受け、人一倍努力してきた。お陰で「閃光の黒豹」と呼ばれるほど実力をあげている。  だがフリッツは魔力を二属性持っているほど天才で体術も強い。自分が護る必要などない。  近衛騎士ならそばにいられると思っていたが、これではただの足手まといだ。酒に酔っているフリッツにすら敵わない実力のなさにレナードは肩を落とした。  「痛かったか?」  「いえ……自分の力のなさが不甲斐ないです」  「にゃんだ、そんなこと」  捻られていた手の力が弱まり、引っ張られた。フリッツに抱きつくような体勢に変えられ、耳の縁が熱くなる。 「俺が護りゅよ。てか護らせて」 「自分は騎士です。主君に護られていたら本末転倒です」 「騎士じゃなくてちゅがいでしょ?」  舌っ足らずなくせにフリッツは真剣な目をしている。そのまっすぐさに射抜かれてしまい、胸がとくんと高く鳴った。  「ねむい。こにょまま一緒に寝よ?」  「フリッツ皇子!?」  抱き締められたままフリッツは再び瞼を閉じた。安いベッドのスプリングが大きな悲鳴をあげる。離れようにもフリッツの力は岩のようにビクともしない。寝ているのが嘘のようだ。  規則的な寝息をたてるフリッツの寝顔に溜息を吐いた。これでは起きるまで動けない。  どうにか腕を伸ばし、デュベを肩までかけた。一人用のベッドに男二人はきつく、自然と密着する形になってしまう。 (落ち着く)  フリッツの胸に耳を当てるとやさしい心音がする。彼のフェロモンが心地よく眠気を誘う。  エナードは重たくなっていく瞼に抵抗できず、そのままぐっすりと眠ってしまった。

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