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第4話
太陽と反対の空は、青とピンクが混ざったビーナスベルトが下りてきている。夜から朝に変わる僅かな時間にしか見られない。
レナードは美しい空にうっとりと目を細めた。
「う〜頭痛い。気持ち悪い」
ゼウスに跨ったフリッツはこめかみをぐりぐりと指の腹で解している。顔は青白く、吐き気があるのか時折えずいていた。
せっかくの朝が台無しである。
「酒の加減もわからず、飲み過ぎるからです」
「いけると思ったんだよなぁ」
「その根拠はどこからくるんですか」
フリッツの謎の自信に呆れてしまう。彼に酒を飲ませるのは危険だと肝に銘じる。父の言うことを守ればよかった。
レナードたちは早朝に出立した。街道には相変わらず人の姿はない。舗装されていない砂利道には、薄っすらと霜が降りている。
空気を刺す冷気は厚着をしていても堪えた。
このまま順調にいけば昼前には次の領地であるイウル領に着くだろう。そこで食料や装備を整え、山を登れば目的地であるブランデン辺境地に着く。
しばらく街道沿いを歩いているとエーレが激しく嘶いた。
「どうした?」
レナードはエーレの首を撫でて落ち着かせ、前方に目を走らせる。魔獣の気配ではない。山賊だろうか。
くまなく視線を彷徨わせていると街道から外れた木の下で人が倒れているのが見えた。ピクリともしていない。
「様子を見てきます。フリッツ皇子はここにいてください」
フリッツの返事を待たず手綱を引き、レナードはエーレを走らせた。
「子どもか」
仰向けで倒れていたのは十四、五歳の男の子だ。怪我をしている様子はない。意識はないが、呼吸をしている。
男の子は杖を抱えるように目を瞑っていた。
(寝ているだけなのか)
いつ魔獣に襲われるかわからない街道で寝こける莫迦がどこにいる。小さな子どもだって危険だと理解しているはずだ。
レナードはエーレから降り、子どもの肩にそっと触れた。
「おい、しっかりしろ。大丈夫か」
何度か揺すると男の子はゆっくりと瞼を開けた。焦点の合わないサファイアの瞳が、レナードの顔を映している。
背中を支えながら身体を起こしてやった。
男の子は稲穂のような長い黄金色の髪を後ろで一つに結んでいる。丸くつるっとした額が特徴的で、気が強そうに目尻が吊り上がっていた。
男の子は目を擦り、ぼんやりとしている。
さすがに心配になってきた。
「具合いが悪いのか?」
「……寝てた」
「は?」
欠伸を一つ零した男の子は背筋をうんと伸ばした。まだ寝足りないのかうつらうつらと船を漕いでいる。
「起きろ。こんなところで寝ていたら魔獣に襲われるぞ」
男の子の背中を叩くとようやく目覚めたらしい。ぎっとレナードを睨みつけ、警戒心を露わにした。
「……おまえ誰だ?」
レナードはできるだけやさしい声音を出すようにトーンを落とした。
「俺はレナード。来月叙任式を受ける騎士見習いだ」
レナードの外套にはアーガイル帝国の国旗が刺繍されている。騎士科全員に配られる正式のものだ。それを見せるとようやく男の子は納得してくれたらしく、鋭い眼光から牙が抜けた。
「僕はケニー」
「ケニーだな。よろしく」
形式上に握手をするとケニーの手のひらは子どもらしくない固い皮膚だった。いくつかマメがある。
「ここで寝ていたら危険だ。イウル領に行くなら送っていくぞ」
ケニーが枕にしていた革袋は大きい。旅をしていたのは明白だ。
「いいの?」
「一人くらい増えても構わないさ」
「てことは他にもいるの?」
「あそこだ」
レナードがフリッツのいる方角を指でさすと彼はまだ頭痛を堪えていた。ゼウスが呆れたように近くの草を食んでいる。
「なんか変な人」
「二日酔いなんだ。許してやって欲しい」
「ださっ」
ケニーの鋭い指摘に笑ってしまった。子どもは容赦がない。
言い過ぎたと自覚しているのか、少し肩を竦める仕草がまた可愛らしさを拍車にかけている。
「で、どうする? 一緒に行くか?」
「そうしようかな」
「よし、じゃあ行こう」
ケニーの荷物をエーレに括りつけ、彼を乗せた。軍馬のエーレは主人以外を乗せるのを嫌がったが、ケニーが鬣を撫でるとすぐに大人しくなった。
ひんとどこか甘えた声で嘶いている。
手綱はレナードが持ち、フリッツのところまで戻った。
「子どもが寝ていました。危険なのでこのまま一緒に行きます」
「えぇ〜俺たちの新婚旅行に邪魔者が加わるの?」
「新婚旅行ではありません」
きっぱりと言い捨てるとフリッツは形のいい眉を寄せた。
「……倒れてたってそいつ?」
「はい」
エーレの上に座っているケニーを一瞥するとフリッツは嫌そうな顔をした。
「ケニー、彼はフリッ……フリン様だ。俺が仕えている貴族の方だ」
「おまえ不倫って言うの。ださっ」
「なんだと!?」
皇子だとバレないように咄嗟に思いついた偽名だったが、確かに変な名前だ。もうちょっとマシな名前をつければよかった。
ケニーが腹を抱えて笑うのでフリッツはふんとそっぽを向いてしまう。
なんだか気まずい旅になりそうだ。
「ケニーはイウル領に用があるのか?」
レナードがエーレに跨っているケニーを仰ぎ見ると彼は小ぶりな頭を振った。
「……ブランデン辺境地」
「そんな場所になんの用だ?」
レナードが聞き返すとケニーは唇を噛んでしまった。
彼にだって話したくないことの一つや二つはあるだろう。
レナードは咄嗟に話題を変えた。
「金木犀が燃やされて魔獣が出歩いているのは知ってるだろ? いま出歩くのは危険だぞ」
「僕は強いから大丈夫」
ケニーは抱えている杖をひょいと軽々と持ち上げた。急に動いたのでエーレが驚いてひんと鼻を鳴らす。
ケニーくらいの年頃はちょうど高等魔法学校に入学する頃だろう。中等学校までとは違い、より実戦的な実技が始まり、「自分は強い魔導士だ」と勘違いしやすいと聞く。
魔獣がうろついているのに堂々と街道で寝ていたのがいい証拠だ。
(自信を持つことは悪いことではないが、この先襲われる危険は高い)
レナードは顎に指をかけて少し考えた。
「俺たちもブランデン辺境地に行く予定なんだ。よければ一緒に行かないか?」
ブランデン辺境地に行くまでに低山とはいえ山を越える。雪が積もっている冬山を子ども一人で越えられるほどやさしくない。
「おい、勝手に決めるな!」
異を唱えるフリッツは後ろから顔を出した。急に手綱を引っ張られたのでゼウスが嘶いている。
手綱をケニーに預け、レナードはフリッツの隣を歩いた。
「……あんな奴と一緒に行く気か?」
「目的地も同じですし、不都合はありません」
「はぁ〜おまえの子ども好き、どうにかならんのか」
肩を落とすフリッツを見て、レナード反論できない。
オメガという性のせいか、レナードは子どもや動物にめっぽう弱いのだ。
「あいつの素性もわからないのに同行するのは危険だ」
「子どもに警戒しているんですか」
「侮るな。あいつの魔力は桁違いに強い。むしろそのせいで魔獣が寄ってこないのかもしれない」
フリッツは苦々し気にケニーのポニーテイルを睨みつけた。彼は楽しそうなに鼻歌を歌い、エーレに揺られている。
魔力を持つアルファ同士だからお互いの力量がわかるのかもしれない。
「では放っておけと?」
「そうするのが無難だろ。俺たちにメリットはない」
フリッツの言いたいこともわかる。レナードたちは旅路を急いでいるし、魔獣がいたら倒す命も受けている。
そんな旅にケニーを連れて行くのは危険だろう。
けれどレナードの目に映るケニーは、純真無垢な子どもだ。そんな子を一人だけにするのは気が引ける。
前を行くケニーがくるりと振り返った。
「レナードたちはなにをしにブランデン辺境地に行くの?」
「魔獣が街道に出て流通が滞ってるから、その調査だ」
「おい!」
フリッツに止められたが、レナードは正直に答えた。
ケニーは目を瞠ったあと、ふっと視線を下げた。
「そんな莫迦正直に言っていいの?」
「別に隠すほどのことでもない」
「……金木犀は人為的に燃やされてるんでしょ? その犯人は僕かもしれないよ?」
片頬を上げるケニーは年齢にそぐわない色気を含んでいた。ニヒルな笑いは悪役じみていて、なぜだか妙に似合っている。
だがレナードは首を横に振った。
「ケニーはそんなことしないさ」
「それは僕が子どもだから?」
「それもあるが……なんだろうな」
レナードは言葉を探すように自分の内に問いかけた。ケニーが固唾を飲んで待っている。
「なんとなく昔のフリッツ様に似ている、からかな」
「「どこが!」」
フリッツとケニーが息ぴったりにハモり、二人は視線を合わせたあと同時にそっぽを向いた。仕草まで同じだ。
「もしケニーが犯人ならそばにいれば監視もしやすい。そしてケニーは俺たちを利用して、安全に山を越えられる。そう悪い話じゃないだろ?」
「確かにそうだ」
どうやらケニーの落ちどころにぴたりとハマってくれたらしい。彼は納得したように二度頷いた。
だがフリッツが話を割る。
「ならおまえがどうしてブランデン辺境地に行きたいのか、ちゃんと言え。そうじゃなければフェアじゃない」
「それもそうだね」
ケニーはあっさりと認めた。
「……家族がいるんだ。もう長くないらしい」
悲壮感の漂う横顔に思わず抱きしめたい衝動にかられた。ケニーが馬上でよかった。隣にいたらおんおん泣いて、離さなかったかもしれない。
レナードは目尻に浮かんだ涙を指で擦った。
フリッツも同情的にケニーをみつめている。母親を亡くしている彼も思うところがあったのだろう。
「わかった。連れて行ってやる」
「おまえの許可がなくてもレナードと行くよ」
「レナードは俺の騎士だ。おまえになんて誰がやるか!」
「番もちのオメガになんて興味がないね」
レナードが目を見開いた。
「よく俺がオメガだとわかったな」
初見でレナードをオメガだとわかる人は初めてだ。元々のフェロモンが少ない上にこの見目なのでアルファに間違われるのが常だった。
「これでもアルファだからね」
ケニーは得意げに小さな胸をとんと張った。その姿が可愛らしい。まるで母親にお使いを頼まれた子どものようだ。
「ケニーはすごい魔力の持ち主なんだろ。属性はなんだ?」
「えっと、火かな」
「なるほど。だからサンザシの杖なんだな」
杖の素材は属性に合ったものを使う。木の材質によって得意とする魔属性が異なり、サンザシは火属性に適していた。
「なら心強い。山は冷えるから火はいくらあってもいい」
「僕を湯石代わりにするつもり?」
「抱いて寝たら温かそうだ」
「……変な奴」
ケニーはぷうと両頬を膨らませる。その顔に既視感を覚えた。
(なんだろう、懐かしい気がする)
初めて会ったとは思えないほど会話は弾み、昼過ぎにはイウル領に着くことができた。
厩舎にエーレたちを預け、宿屋のベッドに腰掛けるとようやくレナードの肩が軽くなった。
道中、フリッツとケニーの口喧嘩は凄まじいもので、宥めるのに苦労したのだ。
運よく宿屋は個室を借りられたので、フリッツとケニーが顔を合わせることがない。やっと板挟みから解放された。
イウル領の金木犀は壊されておらず、宿屋の店主に聞いたところいままで魔獣が襲ってきたこともないそうだ。少しでも警戒が解けられると気持ちがぐっと楽になる。
金木犀を燃やしている犯人、北上しているレナードたちと逆側に移動しているのだろう。
現にミナス以降、金木犀は燃やされておらず街道で運悪く魔獣と遭遇することもない。
単独で動いているお陰で最小限の労力で情報を得ることができた。
レナードは手早く報告をまとめ、重い腰を上げて街へ向かった。
郵便局には風の魔法を使い、手紙をすぐに届けてくれる風便配達員がいる。馬で運ぶ通常の手紙より割高だが、早いと数分で届く。
レナードは騎士団に書いた報告書を風便配達員に託した。
宿屋に戻りながら商店をふらついていると、稲穂のような金色の髪がちらりと視界のすみに入る。ケニーがパン屋の前で立ち止まっていた。
もしかして金がないのだろうか。
「ケニー、ちゃんと金は持っているんだろうな?」
ポケットから銀貨を数枚渡そうとするとケニーに手で制された。
「金はちゃんと持ってる。これでも吟遊詩人として稼いでいるんだから」
「その年で旅をずっとしているのか?」
「まあね。本当は師匠と二人だったんだけど、亡くなっちゃって……」
目を伏せるケニーの長い睫毛がわずかに震えていた。立て続けに信頼している人が亡くなろうとして、心穏やかではいられないだろう。
フリッツに辛く当たってしまうのも無理はない気がした。
「宿屋の場所は覚えてるな?」
「覚えてるよ!」
「そんな薄着で平気か? 俺の手袋を貸してやろう」
「もう、レナードは口うるさいお母さんみたいだ!」
ケニーの言葉にレナードは目をぱちくりとさせた。確かにあれこれと言うのは心配性の母親と揶揄されても仕方がない。
(母親か)
自分にはなれる権利はあるものの、なるつもりはない。ちくりとうなじが痛みだす。
ケニーは荒くなった呼吸を整えた。
「久しぶりにこの街に来たから散策してるんだ」
「小さいときに住んでいたのか?」
「そういうことにしておこう」
ケニーのはっきりしない物言いが気になったが、知られたくないのだろう。ブランデン辺境地に家族がいるのだから、山を挟んだイウル領が慣れ親しんでいても不思議ではない。
「ならゆっくりして来い。夜になるまでには戻ってこいよ」
「ありがとう。そうする」
ケニーはくるりとレナードに背を向けて歩き出した。夕日へ向かっていく小さな背中が、いまにでも消えそうな蝋燭の火のように頼りない。
イウル領は比較的治安がよく、領民が衛兵の代わりを務められるほど犯罪が少ない。
時折武装した衛兵を見かけるが、あまり武器の扱いに慣れてなさそうだ。普段は職人や商人だから仕方がないだろう。
宿屋に戻ると隣のフリッツの部屋の扉がわずかに開いており、アクアマリンの瞳と目が合う。無視して通り過ぎると「おい!」と腕が伸びて外套を掴まれてしまった。
「どこに行ってたんだ?」
「整合騎士団に風便を出してきました」
「にしては遅すぎないか?」
「途中でケニーに会いました。散歩に行くようです」
「ケニー、ケニー、ケニー! おまえはあいつの母親か?」
「さっきもケニーに同じようなことを言われました。でも自分は出産したことがありません」
「当たり前だろ!」
フリッツは青筋を立てて首が取れるほど頭を振った。ケニーの名前を出しただけでこの嫌がりようはいっそ清々しい。
「あ、ミシェル様に手紙を書く予定でしたか? いまならまだ郵便局は開いていると思います」
「なぜミシェルに書くんだ?」
「何日も留守にしていたらミシェル様もご心配されているかと」
「……レナードも兄上に書いたのか」
「自分がジン皇太子に、ですか?」
フリッツの問いにレナードは首を傾げた。
表向きはジンの婚約者だが、実際はただの失恋仲間だ。
恋人のような触れ合いはないし、たまに酒を飲んで愚痴を言い合うだけである。 もちろんこの旅の話をしていない。
「書いてません」
「書かなくても通じてるってことか」
ボソボソと喋るフリッツの言葉がよく聞き取れなかった。どこか不穏な空気を感じ、レナードの背筋は自然と伸びる。
「まぁもういい」
ぶすっと両頬を膨らませるとまるで木の実を詰め込んだリスのようだ。
(そういえば子どものときもこうやって拗ねていたな)
懐かしさに浸っていると「レナード」と名前を呼ばれ、さらに腕を引かれた。
「あいつにばっか構ってないで、俺のことも構え」
「ケニーは子どもですよ。なにを仰っているんですか」
「番なら当然の権利だろ」
「……それはなかったことにするとお話しましたよね」
「俺は承諾してない」
さらに強く引っ張られ、部屋に引き込まれてしまった。バタンと扉が閉まる。抵抗しても意味がないと察し、レナードはされるがまま腕を垂らした。
フリッツの襟元から香る蜂蜜の甘さに気が緩んでしまう。
ここが自分の安息の地だと本能が訴えかけてくる。身を委ねそうになり、レナードは舌を噛んで理性を保った。
背中に腕を回され、フリッツがレナードの肩口に頭を置いた。
「はぁ……落ち着く。レナードもそうだろ?」
「まったくこれっぽっちも思いません」
「素直じゃないな。そこがいいんだけど」
さらに腕に力を込められてしまい、レナードは直立不動で耐えた。少しでも気が緩んだら、フリッツの逞しい背中に腕を回してしまいそうだ。
主君を押し退けるわけにもいかず、ただ拷問のような時間が過ぎ去るのを待つしかない。
フリッツがこうして甘えるのはレナードと番になったからだ。
番ができるとアルファは番に異常なまでの執着をみせる。相手を好きかどうかの気持ちは関係なく、本能が書き換えられてしまう。
花に群がる蝶のように生きるために必要な行動をとるのだ。
「フェロモン出てきたな」
すんと鼻を鳴らされ、レナードは慌ててうなじを手で押さえた。フリッツのフェロモンに当てられると勝手に出てしまう。意志の力ではどうすることもできない。
「離れるな」
一歩引くとさらに密着させられた。ちょうどフリッツの耳がレナードの胸板にある。どくどくと早鐘を打つ心音を聞かれているかもしれない。
でも包まれる体温が心地よく、欠伸が漏れてしまうとフリッツはくすくすと笑った。
「眠い?」
「いいえ。問題ありません」
「昨日は俺の腕の中で寝てくれたではないか」
「あなたが離してくれなかったからです」
「本気で嫌なら殴ってでも止めればいいだろ」
「……主君を殴れる騎士がどこにいるんですか」
「主君を裏切ろうとしているのにどの口が言うんだ」
確かにレナードはフリッツに背いてばかりいる。番のことも、ケニーを旅に同行させたことも、彼の意見をまったく聞いていない。
本来なら不敬罪で断罪されるべきところだが、懐の深い主君は温情をかけてくださっているのだろう。
「自分を不敬罪に問いますか」
「まさか」
フリッツはふっと小さく笑った。
「ちょっとは俺の言うことを聞けって思うが、もう慣れたよ」
耳朶に響く甘い声がちりちりとレナードの胸を焦がす。
(駄目だ。縋りたくなってしまう)
自分があのとき発情期さえこなければ、きっとフリッツとは番にはならなかった。
でも番になったからこそ、こうした心地よさを知ってしまった。
初めからなかったものと一度手に入れてなくすことは、後者の方がより辛いだろう。
(俺はこの人を本当に手放せるのか)
胸の中に芽生える不安感がレナードの心に翳りをつくった。
嫌な気配にレナードは飛び起きた。ベッド横に立てかけてある剣を手に取り、窓の外に素早く視線を向ける。
満月が夜空に浮かび、淡い光で街を照らしていた。人通りはなく店も閉まっているので街はひっそりと闇に包まれている。
だからこそただならぬ気配がはっきりと感じ取れた。
レナードは手早く着替えて扉を開けると同時に隣の扉も開いた。目が合ったフリッツは眉間に皺を寄せている。
「なにか来たな」
「魔獣でしょうか」
「かもしれない。嫌な気配だ」
フリッツの危機迫る声にレナードの心臓が嫌な汗をかく。
一歩外に出ると南の空が天を焦がすほどの火柱があがっていた。辺り一面に焦げ臭い匂が充満している。まさかーー
レナードは一度振り返った。
「先に行きます!」
「援護する」
フリッツが詠唱すると背中を押される強い風が吹き、レナードの身体が浮く。足を踏み出せば風の絨毯に乗り、矢のような速さで南門へと向かった。
門が見えると黒い煙が空に昇っている。まずい。
レナードが関所を飛び越えると領地を囲うように植えられている金木犀に火の手があがっていた。風上ということもあり、木は木に燃え移り、勢いは増している。
レナードは外套を脱ぎ、バタバタと火を叩いたが、こんな程度で鎮火できるはずもない。このままでは金木犀すべてが焼かれてしまう。魔獣が来るのも時間の問題だ。
突然、空気が凝縮されたように冷えた。吐く息が白い。雲一つない夜空からちらちらと雪が降り始めた。
フリッツが天界から降り立った天使のように浮かび、満月の前に立っている。
「ーー降りしき水よ。吹き荒れる風よ。氷となり火を消せ!」
フリッツが杖を振りかざすと無数の光りの粒が火を覆いつくしていく。熱に負けないよう何重にも厚い氷が次から次へと生まれ、数秒と経たずに木の根元を凍らせた。
フリッツは地面に着地して、周りを見渡した。金木犀はすべて氷の中に閉じ込められている。
「これで火事は治まったな」
「ですが」
振り返るでもなく、レナードは背後から忍び寄る気配を感じ取った。金木犀の檻がなくなり、山から魔獣が下りてきている。
魔獣は狼に似ているものが集まっていた。牙の隙間から白い息を吐き、鋭い爪を地面に何度も擦りつけ、レナードたちを威嚇している。
普通の人ならば恐怖で動けないだろう。だがここには史上最強の魔導士「氷剣の胡蝶」とその騎士「閃光の黒豹」が揃っている。
恐れなど腹の母の中に置いてきた二人だ。
フリッツは呑気に杖で魔獣たちの数を数え始めた。
「ひい、ふう、みい……六体か。では一人三匹ずつとしよう」
「承知。ではお先に」
レナードはだんと大きく一歩を出しながら抜刀し、魔獣の首を斬った。血飛沫を上げて後ろに倒れる巨体を押し退け、反対側にいた魔獣の足が振り落とされる。だがレナードは上体を逸らして躱す。バク転をしながら顎に蹴りを入れた。
怯んだところですかさず剣を突き刺す。
フリッツは杖に氷の魔法をかけ、氷剣をつくる。風の魔法で空を飛びながら魔獣たちを翻弄し、斬り伏せる姿はまさに蝶のように優雅だ。
ものの数分ですべてを倒し終わり、他に山から下りてくる魔獣がいないか警戒したが問題なさそうだ。
騒ぎを聞きつけた衛兵たちがようやく集まり、魔獣の死体の山に悲鳴をあげている。
レナードは顎に溜まった汗を拭った。
「どうにか凌げましたね」
「だが金木犀がないと同じことが起こるぞ」
フリッツは疲労の色を微塵もみせず、氷剣をぱりんと割った。
「そうですね。土の属性の人を集めてください。金木犀を再生させましょう」
「わ、わかりました」
レナードが衛兵に声をかけると慌てて街へと戻っていった。その後ろ姿を目線で追うと眩いほどの朝日が昇り始めている。あまりの神々しさに目の奥がじんわりと痛む。
無事に朝を迎えられた。
「自分は後処理をします。フリッツ皇子はお休みください」
「俺も残る」
「残したケニーのことが気になります。様子を見に行ってください」
「あいつは放っておいても平気だろ」
そうぶつくさ言いながらもフリッツは杖をしまい、くるりと背を向けた。
なんだかんだ言ってケニーのことが気になるのだろう。
「すぐに戻って来いよ」
「よろしくお願いします」
肩越しで一度頷いたフリッツは宿屋へと戻ってくれた。
残されたレナードは氷の結晶になった金木犀を見下ろす。
(一体、誰がどんな目的で金木犀を燃やしているのだ)
その疑問に答えてくれる人はいなかった。
金木犀を植え直したのを見届け、昼過ぎにレナードたちはブランデン辺境地に向けて出立した。
エーレにはレナードとケニーが乗り、ゼウスにはフリッツと魔獣を倒したお礼として貰った食料が入った布袋を提げている。
フリッツが明け方宿屋に戻ると、ケニーは騒ぎに気がつかず寝こけていたらしい。
レナードが魔獣騒ぎと金木犀が燃やされたことを説明していると彼は素っ頓狂な声をあげたほどだ。
「ケニーはよほど肝が据わっているんだな」
「一度寝ると朝まで起きないんだよね」
ケニーはくしゃりと笑う。悪戯を咎められても逃げ回る子どものような無邪気さだ。
「魔獣の気配に気づかないなんて、おまえ本当に魔導士か?」
フリッツが挑発するとケニーは片眉を上げた。
「……疲れてたんだよ」
「あんな騒ぎで起きないなんてあり得ない。おまえ、どっか出かけてたんじゃないか」
「なんだよ。僕を疑ってるのか」
「そりゃそうだ。自分が金木犀を燃やしている犯人かも、なんて言う奴をそう簡単に信用できるか」
ふんとフリッツは手綱を引いて、先に歩き出してしまった。ケニーもフリッツの背に向かって、舌を出している。なんて低レベルな争いだ。
「ケニー、フリン様を責めないでくれ。あまり休めていないからお疲れなんだ」
「それはレナードも同じでしょ」
「俺は実習で慣れているから平気だ。でもフリン様は貴族だ。こういう旅も不慣れで、疲れが溜まっていると思う」
一定の距離を保ったままのフリッツの背中をみつめた。凛とした佇まいだが、疲れは隠せていない。不衛生ではない宿屋を選んでいるが、皇室のデュベとは素材が違うだろう。
それでも不満一つ零さずについてきている。フリッツなりに我慢しているのが明白だ。
そのストレスのはけ口として、ケニーと争ってしまうのだろう。
「レナードはあいつにばかり甘い」
「主君だからな。贔屓はしてしまう」
「ずるい!」
「こればかりはすまないな」
咎める視線を避けるようにレナードは前を向いた。
ブランデン辺境地まではアルゼウス山地を越えなければならない。傾斜が多く、雪もまだ残っているので足場が悪い。
本来ならこまめに休憩をとりながら登るものだが、予定よりも出立が大幅に遅れてしまったためレナードたちは休憩もせずに先を急いだ。
だが一時間ほどすると鼠色の雲が低くなり始めた。肌を突き刺す冷気に湿り気が混じる。
レナードは曇天の空を見上げた。
「雨が降ったら面倒です。近くで避難しましょう」
山の中腹に騎士団所有のセーフティハウスはあるがもう少し先だ。そこまで登れるほど猶予はないだろう。
「近くに洞窟があればいいのですが」
「それならこっちにあるよ」
ケニーに手綱を奪われ、エーレを誘導させた。道を大きく逸れてしまう。
前を歩いていたフリッツは振り返り、面倒そうについてきてくれた。
数分歩くと大きな岩山が見える。入口はやすりで削ったように滑らかな半円になっていた。
誰かが土属性の魔法で作ったのだろう。
中を覗くと十人ほど寝転べそうなほど奥行きがあり、馬がかがめなくても頭をぶつけないほどの高さもある。これなら十分に雨風が凌げるだろう。
エーレとゼウスを奥に入れ、レナードたちも続いた。空気はひんやりとしているが風が入ってこない分過ごしやすい。
手早く荷物を降ろし、レナードは雨が降る前に乾いた木を集め焚火の準備をした。
「ケニー、火を頼む」
「お安い御用さ」
ケニーは杖を振りかざした。
瞬間音もなく木材に煙があがり、火がゆっくりと燃えあがる。
ぱちぱちと爆ぜる音を聞きながらレナードは目を丸くさせた。
「詠唱もなしに魔法が使えるのか」
「これくらいならね」
ケニーは得意げにふんと鼻を鳴らした。フリッツの見立て通り、かなり強い魔力の持ち主のようだ。
魔法を使うときは詠唱をして、自身の体内に流れる気を高めるのが常識だ。
何十年も鍛錬を積み上げれば詠唱なしでも魔法が使えるらしいが、ほとんど老人ばかりだと聞く。
ケニーのような子どもがそこまでの鍛錬を積めるとは到底思えない。
「魔法学校で習ったのか?」
「いや、独学。師匠がいたんだ」
「どうりでデカい杖持ってるわけだな」
フリッツが嫌味を言うとケニーは眉を寄せた。
「この杖のなにが悪い。カッコいいだろ」
「どこがだ。持ち運びに不便だし、重たいし古臭い。いまどき小さいものがベターなんだよ」
「なんだと」
「落ち着いてください」
フリッツとケニーは本当に気が合わないらしい。嫌いなら関わらなければいいのに、目の上のたんこぶのように視界にちらつくのだろう。
二人の言い争いに紛れるようにざあと雨が降り出した。僅かだが雨粒が中にまで吹き込んでくる。洞窟内の空気に氷が含まれたように冷え冷えとした。
さすがに冷えてくる。
「フリン様、毛布は足りていますか?」
「レナードが温めてくれば大丈夫」
「問題ないようですね」
「やーい、フラれてやんの」
「んだと、クソガキ!」
二人はすぐに喧嘩を始めてしまうのでレナードはほとほと疲れてしまい、止めるのを諦めた。
通り雨だったようですぐに止んだが、雪が溶けた道は泥濘んでしまっている。足を滑らせて転落してしまう可能性もあり、今晩はここで過ごすことにした。
「では食料を取ってきます。二人は火の番をしててください」
「俺も行く」
「フリン様は少しお休みになった方がいいです」
「それはおまえだろ。昨晩からほとんど寝ていないじゃないか」
夜中に魔獣騒ぎがあったのでそこから半日以上は起きている。少し身体は重いが、思考も明瞭で身体も動く。
「これくらい訓練で慣れています。魔獣が来るとも限りませんし、ケニーについててあげてください」
「無理。あいつといると俺が襲っちゃいそう」
冗談にも聞こえない真剣な目の色にレナードは身体の重さが増した気がした。
これから一晩共にしなければならないため、いざこざは困る。少し距離を置くのもいいかもしれない。
「ケニーはそれでいいか?」
「僕も同じ意見。エーレたちといるよ」
「わかった。ではフリン様、行きましょう」
レナードはフリッツと共に山の中に入った。
木の幹に目印を掘りながら草木を掻き分けて山の奥へと進む。水分を含んだ土が革靴の底に挟まって重さが増す。
レナードが先頭を歩きながら長い草を切り落とし、足場を整え、安全を確認してからフリッツを呼んだ。
「ここは歩いても大丈夫です」
「どこまで過保護だよ。そんなことしてたら時間がかかるだろ」
「ですが、ここは泥だらけですしお召し物が汚れてしまいます」
フリッツの装いは街で買ったものなので、普段の一級品ではない。それでも汚してはいけないような気がしてしまう。
案の定、フリッツは呆れたように首を振った。
「このくらい平気だ。でもそんなに気になるならこうしよう」
フリッツが詠唱をして杖を振ると泥が乾いて、さらさらの砂になった。
「これなら歩きやすいだろ」
「そうやって魔力を無駄遣いしないでください」
「なんだよ。人がせっかくよかれと思ったのに」
「……ありがとうございます」
「心が籠ってないな」
「フリッツ様のお身体を心配しているんです」
本来ならこの程度の山は風の魔法があれば飛んで越えられる。それをしないのは馬がいるし、荷物もあるためだ。
魔力は無尽蔵ではない。使ったら使った分だけ疲労がます。ただでさえ慣れない旅路にフリッツが普段通りの魔力を溜められているとは思えない。
罰が悪かったのか、フリッツは話を逸らした。
「食糧結構もらったから無理に採らなくていいんじゃないか?」
あまり問い詰められたくないのだろう。レナードもここでフリッツと揉めたくないので、話を合わせた。
「そういうわけにはいきません。さっきみたいに山の天気は変わりやすいです。下手したら二、三日動けない日もあるでしょう。そのときに食糧が尽きたら死を意味します。いまのうちに節約しておきませんと」
「ふーん。そういうものか」
フリッツは不思議そうに声をあげた。
話しながら食べられる木の実や山菜を見つけて摘み取っていく。指示しなくてもフリッツも同じものを摘んでいた。
家臣にやらせてふんぞり返らないところがフリッツらしい。
騎士科は実習として山の中に何日も籠る厳しい訓練を重ねるが、魔法科はない。
魔法科の生徒で騎士団を希望する生徒は少なく、ほとんどは研究所や魔法省に務めることが多い。
そのため山での過ごし方はレナードの方が詳しいのだ。
持って来ていた布袋が満杯になり、レナードたちはさらに奥へと進む。
しばらく歩いていると人一人分が横たわれるくらいの開けた場所まで来た。木々も生い茂り、近くには松の木が生えている。きっと雪の下にはどんぐりが埋まっているだろう。
絶好の狩りの場だ。
「兎用に罠を仕掛けておきましょう」
レナードは革袋からワイヤーを出した。十五センチほどの輪を作り、中に餌になる木の実を吊るす。これを木の幹に引っかけておかば匂いに釣られて兎が来るはずだ。
レナードが手早く罠を仕掛けているとフリッツは呆然と立ち尽くした。
「兎を食べる……?」
「フリッツ皇子も召し上がったことあるでしょう?」
「おまえ、動物好きなのにいいのか?」
信じられない、とばかりに顔面が青くなっていくフリッツに笑いそうになった。こういうところが皇族らしい清らかさだ。
「愛でるのと食べるのは別です」
「そういうものか」
「戦場では贅沢言えませんからね」
アーガイル帝国は近隣国と和平を結び、戦争もなく比較的平穏に暮らせている。
だが一方で魔獣の存在に手を焼いていた。
アーガイル帝国は立地上、山に囲まれている。魔獣は山奥に住処を持つので、常に危険に晒されているのだ。
金木犀で領地を保護しているとはいえ、万全ではない。それに魔獣は人間の血肉で強くなる点もあるので、これから先、どんどん進化していくだろう。
厳しい訓練に耐え、領民の暮らしを護るのが騎士の務めだ。
「もう少し散策しましょうか」
レナードとフリッツはさらに奥へと進んだ。
木々を抜けると大きな湖が見えた。水面には薄氷が覆い、日差しを受けてキラキラと輝いている。
ここ一帯はまるで聖域のように空気が澄んでいた。魔獣には住みにくい環境なのか、近くに気配なさそうだ。
「あ、虹」
雲間から日が差し込んできたので空に大きな虹がかかっている。その光景にレナードは目を細めた。
「幼いとき、フリッツ皇子が自分に虹を見せてくださいましたね」
「よくそんな昔のことを憶えているな」
「あれより美しい虹は見たことがありません」
いまでも瞼の裏に鮮明に残っている。天使のソプラノのような詠唱はまるで聖歌のように癒された。目の前に小さな虹が見えたとき、フリッツが神様ではないかと思ったほどだ。
「あの虹に自分は忠誠を誓いました」
あの瞬間、頭の中で鐘を突かれたようにフリッツに恋をした。同時に護らなければ、という使命感が芽生え、そこからがむしゃらに努力を続けてきている。
近衛騎士になり、フリッツを護る。
その夢がすぐそこまで迫っているのに。
(どうして番なんか)
しかも事故つがいだ。フリッツの意志ではない。
その事実がより重く胸に影を落とす。
「おまえはっーー」
「フリッツ皇子!!」
足を泥濘に取られ、フリッツの身体が左に傾いだ。隣は崖。このまま落ちたら怪我では済まないだろう。
レナードはめいいっぱい腕を伸ばし、フリッツの腰を抱いて引き寄せた。
どんと後ろに尻餅をつき、後から全身が震える。恐怖が遅れてやってきたらしい。
がたがたと歯の根が合わなくなり、必死にフリッツにしがみついた。
「レナード?」
「……あなたが、死んでしまうかと」
「これくらいなら飛べる」
フリッツの怒気を孕んだ言葉に頰を叩かれたような気がした。高い魔法力は帝国一と言われている。こんな泥濘に足を滑らせた程度、彼にとったら簡単にリカバリーできる。
図体ばかりでかく、魔力もない自分がレナードを護るのはおこがましいのだと言われているよう気分になり、腕の力を抜いた。
(それじゃあ無力な俺はフリッツ皇子のそばにいられないじゃないか)
近衛騎士になってもフリッツを護れなければ意味はない。
番を解消したら、フリッツとはこの先の人生、交わることがないだろう。
ミシェルと結婚し、帝国を安定に導く姿を爪を噛みながらひっそりと眺めている自分が容易に想像できてしまう。吐き気がした。
「でもな、レナード」
フリッツに肩を掴まれ、外套越しでもわかるほどの温かさにレナードの震えが治まる。
「助けてくれて……ありがとう」
耳朶まで赤くさせて呟くフリッツは不機嫌そうに眉を寄せた。どうやら照れているらしい。
なぜか理由はわからないが、必要だと言われているように聞こえる。図々しいだろうか。
レナードを生かすも殺すもフリッツだけだ。さっきまで沈んでいた心に再び夢の粒が増えてくる。
肩の力が抜けてしまい後ろに倒れた。
「おい、大丈夫か!?」
「なんだかほっとしてしまって」
「よくわからないな」
下から見上げるフリッツの背後には虹がかかっている。美しいものを合わせるとこんなに恋焦がれるように胸を打つのかと初めて知った。流れ星に手を伸ばす子どもみたいな純粋さで、この人に触れてしまいたい。
だが、とレナードは指先を丸める。
誰にも脅かされることなく貞潔を護り、ただ神に服従する修道士のようにフレッツだけを想っていた。
でもこの身体はフリッツを受け入れてしまった。甘く痺れるような快感の渦に飲み込まれ、自分の欲を何度も吐き出した。
もう清廉潔白な想いではいられない。
禁断の果実を手にした神話のように、フリッツを手に入れる悦びを知ってしまったのだ。
いまだずきりと痛むうなじはレナードを現実に戻し、残酷さを顔面にぶつけてくる。
なにも知らなかったあの頃には戻れない。
洞窟に戻るとケニーはエーレとゼウスの間に挟まるように眠っていた。疲れていたのだろう。まだあどけない寝顔は可愛らしい。
レナードがうっとりと目を細めているのに対し、フリッツは鼻白んでいる。
「こいつ寝てるのか」
「疲れてるんですよ。山道は辛いですからね」
レナードは獲ったきのこや山菜が入った袋を置いて、腕まくりをした。
「ではケニーが寝ている間に兎を締めてきます」
帰りがけに寄った罠には運よく兎が一匹かかっていた。愛くるしい目に見つめられると心痛むが、自分たちが生き抜くためには仕方がない。
「本当に食うのか?」
「もちろんです。命に感謝して食べますよ」
「……わかった。俺も見てる」
「気分悪くなりますよ」
「目を逸らすわけにはいかないだろ」
「では少し洞窟から離れましょうか」
レナードは兎の耳を掴んだまま外へと移動した。手足をバタつかせ抵抗を見せる兎はかなり活きがいい。
切り株の上に兎を寝かせ、レナードは片手で祈りを捧げ、フリッツは手を組んで膝をついた。
「いきます」
レナードは短刀で兎の頸動脈を切った。血がぶわっと吹き出し、白い毛皮が赤く染められていく。痛みで兎がバタバタと跳ねるような動きをしたが、レナードは素早く後ろ足を縛り、木の幹に吊るした。こうして血抜きをすれば臭みがなくなる。
兎は宙をぴょんぴょんと跳ねる動作を繰り返していたが、しばらくするとピクリとも動かなくなった。
レナードはもう一度手を合わせて感謝を捧げる。
血抜きが終われば兎の皮を剥ぎ、肉を丁寧に削ぐ。一つの部位も無駄にはしない。
慣れているとはいえ心は痛む。それはフリッツも同じなのだろう。歯を食いしばりながら肉片になる兎を見つめていた。
「気持ち悪くはないですか?」
「あまりいい気はしないが、そうか。こうやって肉ができていくんだな」
皇族のフリッツが食べるものは調理が済んだものばかりだ。野菜は誰が育て、動物の肉はどう捌き、魚をどうやって釣るのかをわからないまま結果だけを目の前にしている。
立場上仕方がない。
でもフリッツは現実に目を逸らさず、兎が絶命するまで見届けていた。それは精神が削られる苦行に近いだろう。よく最後まで逃げ出さずにいられたと感心する。
(そうやって、人々の暮らしを見ようとしてくださっているのだ)
フリッツは決して驕らない。領民の目線に立ち、その生活を共にしている。
きっと皇帝の教えなのだろう。
だからアーガイル帝国は争いもなく、平和なのだ。
レナードは肉を木の櫛に刺し、焚火で炙った。段々といい匂いが洞窟に広がっていく。匂いに釣られたのかケニーが目を覚ました。
「ん……ご飯?」
「ちょうどいいタイミングだな」
ゆずり葉の上に焼いた山菜ときのこ、兎の肉に塩コショウをしたものとパンを添えると立派な夕食になる。
焚火を囲うようにそれぞれ地面に座った。
「すごいご馳走だ!」
声をあげるケニーは目を輝かせている。空腹を訴えるようにぐうと腹の虫が鳴ると、恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「ちゃんと感謝して食えよ」
「そんなこと言われなくてもわかってるし」
フリッツの小言に眉間を寄せながらも、待ちきれなかったのかケニーはぱくりと兎の肉を口にした。
「美味しい! 肉が柔らかくてふわふわだ」
「もっと食べるか?」
「いいの?」
「もちろん」
レナードは自分の分の肉をケニーの葉の上にのせた。ありがとう、と屈託のない笑顔に指先まで愛おしさが広がる。
「それじゃレナードが足りないだろ。俺のをやる」
今度はフリッツがレナードの葉に肉をのせてくれた。
「それではフリン様の栄養が足りなくなってしまいます」
「俺を護るなら、腹が減って力が出ないと言い訳されたくないしな」
立膝に肘をついたフリッツは目を細めた。
「……ありがとうございます」
フリッツからもらった肉は最後まで取っておくことにした。
外は暗く、焚火の明かりが洞窟に淡く光っている。
レナードとフリッツ、ケニーの三人で火を囲みながら食事をするのは、なんだかくすぐったい。
フリッツは順繰りに視線を向け、木の櫛を焚火に投げ入れた。
「こうしていると家族みたいだな」
「家族、ですか……?」
「レナードが母親で俺が父親、仕方がないがケニーを子どもにして、三人家族」
フリッツと視線が合うと彼は擽ったそうに笑っていた。
家族。なんて甘美な響きなのだろう。
フリッツと家族になれたら、と何度も願ったことがある。だがそれは叶わないと諦めたのも同じ数だけあった。
焚火を囲う三人は傍から見れば家族の団欒に映るだろう。それはとてもありふれた幸せで、誰もがすぐに描ける。
でも、それはいけないことだ。
「……困ります」
レナードが絞り出すとシルクのように柔らかく包まれていた空気に裂け目が入る。隙間から外の冷気が入ってきたように洞窟内の気温が下がった気がした。
はっとして顔を上げると、フリッツは睫毛を伏せてしまっている。
「俺は母親を知らないからな。こうやって食事を囲うのを憧れていたんだ」
まるで秘密を打ち明けるようなフリッツの言葉にレナードは唾を飲んだ。
皇后はフリッツを産んですぐ亡くなったと言われている。だが自画像はなく、お顔がわからない。それに私物らしきものもないそうだ。
顔も名前もどこ出身なのか公にされておらず、皇后の存在は緘口令が敷かれている。
だからフリッツは家族で食卓を囲んだ経験はない。
「俺は不義の子なのだろうか」
「まさか、ありえません。あなた様ともあろう御方が」
属性を二つ持ち、桁違いの身体能力を持つアルファが不義の子のはずがない。
間違いなくこの国を導く方になる。
「どうだろうな」
それきり言葉を閉ざしてしまったフリッツは焚火を見下ろしていた。
その横顔を見つめているケニーの目が伏せられたのが、レナードの視界に引っかかりを残した。
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