5 / 10

第5話

(……最悪だ)  身体の表面は寒いのに、芯は炙られているようにジリジリと熱い。全身の倦怠感と頭痛には覚えがあった。  どうやらレナードに発情期がきてしまったらしい。  フリッツと番になり落ち着いたと思っていたが、また発情期がくるとは計算外だ。ここのところの寝不足と疲労で生命の危険を感じ、生殖本能が呼び覚まされているのかもしれない。  レナードはセーフティハウスのベッドから顔を出した。ちょうど水を持って来てくれたフリッツが困ったように眉を寄せている。  「大丈夫か?」  「……問題ない、と言いたいところですが厳しいですね」  「薬は?」  「昨日で最後でした」  「困ったな」  洞窟を出てからというものの天候が安定せず、旅程が大幅に遅れてしまっていた。どうにか中腹にあるセーフティハウスには来られたが、そこで缶詰め状態に陥っていた。  二日あれば越えられる山にすでに四日目が過ぎようとしている。昨日から雨と吹雪が交互にきて、外は酷い有様だ。  もらった食糧は尽き、山菜や兎を狩りどうにか空腹は免れている。  「ねぇ、このくらいのならいけるんじゃない?」  窓の外を眺めていたケニーがこちらに振り返った。雨は止み、雲間から日の光が差し込んでいる。  確かにいまが千載一遇のチャンスだ。  だがレナードの肩まですっぽり覆っているデュベの下は、勃起した性器が存在を主張している。  こんな状態で外に出られるはずがない。  「おまえな、レナードの様子を見ろよ。どう考えても無理だろ」  「発情期なら発散すればいいじゃん」  「そんな簡単な話じゃないだろ」  「なら僕が相手してあげようか?」  「なんでそうなるんだよ!」  「ただの親切心」  「ふざけるのも大概にしろ!」  ケニーの言葉にフリッツが怒気を含ませる。  慣れない疲労が蓄積し、フリッツとケニーの空気は最悪だった。常にピリピリと針のようにお互いを牽制しあい、声を発しようものなら罵り合っている。  でもケニーの言うことも正しい。番がいない以前だったら勝手に扱いて出していただろう。  だがいまは番であるフリッツのフェロモンを前に理性がぐつぐつと煮えられている。少しでも気を許したら、また見境なく彼を求めてしまうのが目に見えていた。 (だめだ。それだけはもう絶対にしない)  身体だけもらって一時は満たされてもそれまでだ。未来永劫続くわけではない。  レナードとフリッツの番は、本来あってはならないものなのだから。  「どうか自分を置いて二人だけでも行ってください」  「そんなことできるわけないだろ!」  すかさずフリッツが否定する。レナードを気遣ってくれているのだろうが、いまはその言葉が一番辛い。  「……一人に、して欲しいのです」  発散しなければ動けそうもない。だがケニーとフリッツの前で自慰なんてできるはずもない。  セーフティハウスは一部屋しかないので、他の部屋に移動することも叶わないのだ。  なら動ける二人が先にブランデン辺境地に行ってくれた方が助かる。  「だが山賊が出るかもしれない」  「人間相手なら問題ありません。自分の二つ名をお忘れですか?」  ぐっと顎に皺を寄せたフリッツは垂らしたこぶしを握りしめていた。  (フリッツ様もお辛いに違いない)  レナードのフェロモンのせいでフリッツも同様に発情期になっているはずだ。そんな様子を臆面と見せないところが、彼なりのやさしさだろう。  だがフェロモンまでは隠せない。フリッツの匂いは時間を追うごとに濃くなり、ギリギリのラインなのがわかる。  「おまえら番なんじゃないのか?」  ケニーの一言にフリッツと顔を見合わせた。  「どうして番だと?」  「そんなの見てればわかるだろう」  問題が解けない生徒に呆れるようなケニーの言い方は見た目とのギャップがある。大人びているというよりかは、老成しているように感じた。  「二人の関係はあえて聞かなかったけど……道ならない恋なのか?」  レナードは騎士だと明言しており、フリッツは貴族ということにしていた。  貴族と騎士の恋はロマンス小説の悲恋として定番である。  「……事故つがいだ」  「おい!」  「事実でしょう」  レナードが答えるとフリッツは顔を青くさせた。だがようやく答えを得られたケニーはどこか浮かない顔をしている。  「なるほど。どうりで番らしくないのか」  「フリン様、このままだとあなたも辛いでしょう? ケニーと先に下山してください」  どうしたって本能が番を求める。禁断の果実を手にした罪人はまた快楽を欲して、何度でも犯罪に手を染めてしまう。  駄目だと自制しても本能には抗えないのだ。  「どうか、自分を置いてください」  「おまえ……そこまで」  「お願いします」  絞り出す声は蜘蛛の糸のように脆いだろう。だが静謐な部屋の中ではよく響く。  フリッツはしばらく逡巡したのち、唇を引き結んだ。  「わかった。身支度をしろ、ケニー」  「はいはい、決着したようでよかったよ」  ケニーはひょいと立ち上がり、背筋をうんと伸ばした。  「エーレをお願いします」  「……あぁ」  フリッツは一度もこちらを見ず、ケニーを連れてセーフティハウスを出て行った。 窓から見える背中を見送る。ビスケットのように心が簡単に粉々になった。  番が行ってしまった、という喪失感が胸に去来してレナードの目尻に涙を浮かばせる。  (しっかりしろ、レナード。もうフリッツ皇子には迷惑かけないと誓っただろ)  手の甲で目を拭い、レナードはデュベを頭から被って没頭した。  どうやら眠ってしまったらしい。  レナードが目を覚ますと手やデュベに精液が固まり青臭さを放っていた。自分のものだと思うと情けなさに拍車をかける。  清潔な布で拭き、デュベは処分しようと部屋の隅に置いておく。出立前に燃やすしかないか。  欲を吐き出したおかげで熱も治まり、頭と身体がすっきりしている。  そのお陰で外の気配にすぐ気がつけた。  レナードは外から見えないように壁に背中をつけ、窓から目線だけを出した。  『今日はここで飯を食うか』  『お、兄貴。また荒らすんですかい?』  『整合騎士団のハウスを好き勝手できるから最高じゃないか』  『それもそうですね』  どっと笑う声が複数人確認できる。山賊か。  どうやらフリッツの予感は的中したらしい。  (面倒だな)  彼らの口ぶりからするとセーフティハウスを荒らしているのだろう。  ここは領民なら誰でも使える。  ただ騎士団が管理しているわけではない。人の善意で成り立っているため、出るときは部屋を掃除したり、あれば食料を残していくものだ。  それを踏みにじるなんて許さない。  ガチャリとノブが回されると同時にレナードは内側からドアを蹴破った。  ドアの前にいた男は仲間たちを巻き込みながら後ろに倒れていく。素早く立ち上がる者もいれば、気絶している者もいる。  レナードは視線を巡らせ、敵の位置と人数を把握した。二十人弱。少し分が悪い。  「なんじゃ、お前は!?」  親玉らしき恰幅のいい男がレナードを指差した。顔が熟した林檎のように赤く、呂律が怪しい。  それは周りの男たちも同じだった。  「整合騎士だ。ここらのハウスを荒らしているのはおまえたちか」  「さぁ、どうかな」  親玉が笑うと手下たちも釣られて野次を飛ばしてきた。  だが挑発に乗るつもりはない。  レナードが眉間の皺を刻ませるとぴたりと笑い声が止んだ。  相手の命を考えないで戦えば一瞬でケリがつく。罪は犯しているとはいえ、一介の騎士が断罪することは許されない。  (なら捕まえるしかないな)  レナードは倒れている人山を飛び越え、親玉の目の前に着地した。怯む男の顎に掌底を繰り出す。がつっという音と共に仰け反り、鳩尾にすかさず肘打ちをする。  親玉は白目を剥いて地面に倒れた。  一瞬の出来事に手下たちの笑いは止み、水を打ったように静かになった。  「テメェ、ふざけんなよ!」  親玉がやられた怒りに手下たちはいきり立つ。狼の遠吠えのようにわんわん喚き散らしていた。  こぶしが矢のように飛んでくる、が遅い。レナードは軽く上体を反らして避けつつ反撃をしかけた。  酒に酔っているせいか赤子の手を捻るより男たちは弱い。顔や鳩尾にこぶしを突くだけで、山賊たちは倒れていく。  (くそっ……まだ本調子じゃないな)  戦うほど体力が消耗し、身体が重い。自慰で発散したとはいえ、薬で発情期を抑えたわけではないのでまだ発情の熱が燻っているのだろう。  レナードの異変に気づいた大男はにやりと笑った。  「お、疲れてきてるな」  「……そんなわけないだろ」  飛びかかってきた男を振り払おうとしたら、もう片方から蹴りが飛んでくる。避けるつもりで膝を曲げたら、そのままがくんと力が抜け、もろに顔面に喰らってしまった。  視界がぐらりと歪む。  だがレナードはすぐ反撃をしようとこぶしを向ける。空振り。視界が正常に戻らず距離感が掴めない。  レナードが弱っているうちに手下たちが覆いかぶさって来た。男一人に対し五人ほどの人数に押さえ込まれれば、さすがに振るい払えない。  あっという間にレナードは男たちの手によって拘束されてしまった。  その様子を見た大男は黄ばんだ歯を覗かせている。  「なんだ呆気ない。中に入れろ」  「くそっ、離せ!」  レナードは男たちに引きずられてセーフティハウスに入れられた。  「こいつ、一人でシコってたんじゃないか」  「本当だ」  「職務中になにしてんだよ」  精液のついたデュベを見て、男たちはケラケラと笑う。  (くそっ、不覚だ)  屈辱でレナードの頭に血がのぼる。拘束を振り払おうと暴れても、縄で両手両足きつく縛られてしまう。  床に転がされ、それでも芋虫のように抵抗を続けた。  「これを解け!」  「さてどうすっかな」  手下の大男がご馳走を前にした獣のようににちゃと笑った。  「いや、待てよ。こいつ……オメガじゃないか?」  「こんな熊みたいなのに?」  「間違いない。ほら、しかも番持ちだ」  大男はレナードの襟元を掴み、歯型のついたうなじを周りに晒した。  「なるほど。大方、発情期がきたけど番がいないから発散してたってわけか。ならちょうどいい」  男たちの目の色が変わった。  いままで何度か遭遇したことのある欲情に濡れた瞳を一斉に向けられる。オメガを性欲の捌け口としか見ない人間は多い。  そういう輩は一人残らず鉄槌をくだしてきたが、いまはこの有り様だ。  どうにか逃げようと暴れるが縄はどんどん皮膚に食い込んでしまう。  蟻地獄にハマったように救いがない。  「ほう……男のオメガとは運がいいな」  ようやく親玉は目を覚ましたらしく、手下に支えられながらレナードの前に立った。  分厚い腹がベルトに乗り、黄ばんだ歯や皮脂でベタついた白髪が気持ち悪い。レナードが眉間を寄せただけで頰を叩かれた。口の中に血が滲む。  「さっきのお返しだ」  フリッツの顔が浮かぶ。  (こんな汚い男たちに上書きされるなんて)  悔しさで涙が込み上げる。  フリッツに愛された身体が、男たちの触れた箇所ごと朽ちてなくなってしまえばいいのに。  乱暴に床に押さえつけられ、レナードは四つん這いの姿勢にさせられた。  「こいつ……こんなとこまで染みつくってるぜ」  「オメガは卑しいな」  「……下衆が」  誇張された引き笑いがねっとりとレナードの身体に纏わりつく。  (最悪だ)  愛しい人の顔を思い浮かべ、レナードは屈辱に耐えるように歯を食いしばった。  ズボンに手をかけられる。もうだめだ。  「おい、寒くないか」  一人の手下が腕を擦りながら部屋の中を見渡した。ドアを壊したせいで外の冷気が入る。だがそれだけではない。  室内がまるで冷凍室に移動したかのように冷えている。  「あれ見ろよ!」  男が指した天井にはいくつもの氷柱が垂れ下がっていた。吐く息は白く、外套を着ていても寒い。  全員の顔が青白くなる。髭に霜がついている者もいる。  窓をびゅんと強い風が叩いた。  来る。  レナードは天井を見上げた。  段々風が強さを増し、建物が左右に激しく揺れる。レナードは頭を護るように身を丸くした。  ーーばきっ!!  まるで枝を折るような軽い音と共に天井が吹っ飛んだ。  そこに現れたのは曇天の空を従えるフリッツだ。風の魔法で宙を舞い、腕を組んでじっとこちらを見下ろしている。  「おまえら……なにをしている?」  地獄の底から這い出た悪魔のような声に山賊たちは息を呑んだ。  それはレナードも同じだった。  フリッツの表情がない。感情という感情を削り、残った殺意だけがアクアマリンの瞳に宿っている。  「なにをしている、と訊いているんだ」  フリッツがもう一度繰り返すと親玉がガクガクと歯を鳴らせながら口を開いた。  「こいつは……オメガだ」  親玉はレナードを指さしたあとゆっくりとフリッツを見上げた。神に許しを請う罪人のように膝をついて、手を組んでいる。  「オメガ、だから?」  フリッツが先を促す。  「捕まえて」  「捕まえて」  「……」  「なんだ。続きを言え」  フリッツは顎をしゃくった。だがあまりの威圧感に親玉は喉を潰されたように引き攣った喘ぎ声をあげたきり、口を開かない。  「慰み者にしようとしただろう?」  瞬間、温度が一気に下がる。空気中の水分が凍り、キラキラと氷の粒子に変わった。  目を奪うような光景に反し、フリッツの殺気は研磨された切っ先のように鋭くなっていく。  「ーー降りしき水よ。吹き荒れる風よ。我が元に集え!」  フリッツの杖に光の粒子が集まり、針のように細い剣に姿を変えた。  「俺の番に手を出したんだ。誰から死にたい?」  「ひいいいぃいいい!!」  悪魔を前に山賊たちは悲鳴を上げながら出口へと向かった。だが狭い扉を前にぎゅうぎゅうとおしくらまんじゅうのようになってしまい、誰も外に出られない。  「どけ! 俺が先に行く!!」  「兄貴、それはないですぜ!」  「みんな殺されるぞ!」  ふわりと音もなくフリッツが地面に着地した。  「さぁ誰から死にたい?」 フリッツの恐ろしいほどの美貌を前に、山賊たちは顔面を蒼白にさせた。  「……フリッツ皇子!!」  レナードが名前を呼ぶとフリッツの視線がこちらに向く。まだ目の奥には夜の海のような暗さがある。このまま吸い込まれたら二度と元の場所に戻れない気がした。  フリッツの意識を取り戻そうともう一度名前を呼ぶ。  「フリッツ皇子……もうおやめください」   「……」  「自分は大丈夫です。この有様ですが、怪我はありません」  手足を拘束され、情けない姿を晒しているが、それ以外問題ない。  フリッツはゆっくり二度瞬きをするとアクアマリンの瞳に焦点が戻った。  「おまえを慰み者にしようとした」  「すいません。油断しました」  「殴られたのか? 口が切れてる」  「大したことありません」  フリッツの指の腹で唇を拭われた。少しだけじくりと痛む。  発情期だったとはいえ、人間相手なら大丈夫だと驕ってしまった。  レナードは安心させようと笑顔を浮かべるが、フリッツの顔に暗い影が残ったままだ。  「俺がそばにいれば……」  フリッツは番としての責務を果たせなかったことを悔いているのだろう。甘い菓子のような言葉を吐くのはアルファとしての本能だ。  自分は何人も番を持てるくせに、オメガが番以外に身体を開くことを極端に嫌う。  なんて自分勝手な性だ。  「お、おまえフリッツ皇子と言ったな!」  我に返った親玉はフリッツを指さした。その瞳に本来の強い光が戻っている。  名前を呼ばれたフリッツは虫けらを見るように眉を寄せた。  「だったらどうした」  「出自不明の皇子か。おまえの母親を知ってると言ったらどうする?」  「は?」  親玉はしゃがれた声に甘さを滲ませた。その媚びるような仕草にフリッツの眉間に皺が寄る。  (誰も母君を知らないのにこんな下衆が知るはずもない)  だがフリッツが反応したことにいけると踏んだのか、親玉は訊いてもいないのに話し始めた。  「これでも昔は旅芸人としてあちこち回ってたんだ。そこで面白い噂話を聞いたことがあってね」  「ほう。話してみろ」  「でもタダでとは言えない。そうさな、そのオメガを対価としてくれればいい」  親玉はじっとレナードに視線を向けた。どうやらまだ諦めていなかったらしい。  フリッツは杖を強く掴んで、剣を振り上げた。  「交渉決裂だな」  「ま、待ってくれ。うわああああああ!!」  ざんと空気を引き裂くように剣が振るわれるとそこから猛吹雪が巻き起こり、山賊たちが外にまで吹き飛んでいった。木の幹にぶつかり、泡を吹いて意識を失っている。  「よかったんですか? 母君のことなにか知ってるような口ぶりでしたが」  「ただのはったりだろ」  唾でも吐き捨てるような言い方だ。山賊たちを心底嫌っているらしい。 「すまない、まだ縄を解いていなかったな」  剣先で縄を切ってもらい、レナードはやっと自由になれた。ひりつく手首を隠しながら膝をついて、頭を下げた。  「お手を煩わせて申し訳ありません」  「おまえは莫迦なのか!」  フリッツの怒声にしんと辺りが静まりかえる。レナードの心拍を止めてしまったかのようにしばしば呆然と主を見上げた。  「どうして俺を呼ばない? 気づかなかったらどうなっていたか」  「……申し訳ありません」  フリッツを失望させてしまったらしい。護るべき相手にこうして助けられているのだから当然だ。  自分の力のなさが不甲斐ない。  どれだけ努力をしても、アルファには敵わないのだ。  (そんなこと、最初からわかっていただろ)  レナードは嫌な思考を追い出すように、首を左右に振った。  「でもどうして山賊たちが来るとわかったんですか?」  「途中であいつらを見かけたんだ。だから急いで引き返して来た」  絞り出すようなフリッツの声音は震えていた。杖を落とすと氷剣がパリンと割れる。それに気を取られていると大きな手が伸びてきた。  「頼むから俺のそばを離れないでくれ」  泣きじゃくる子どもが親に甘えるようにぎゅっとしがみつかれた。  求められる嬉しさの裏側は氷より冷たい。  (番の強制力か)  レナードを妾としてそばに置いておきたいのだろう。  美しい悪魔のような囁きにレナードの意志はより強固なものに変わった。  (やはりフリッツ皇子のためにも番を一刻でも早く解消しよう)  レナードはおろしたままのこぶしをぎゅっと強く握った。       レナードは山賊たちを動けないように縛り、温情のため近くに焚き火をたいてやった。これから陽が落ちるため寒さが身に染みるだろう。  まだ気絶している者がほとんどだが、意識を取り戻した者はフリッツを見て再び泡を吹いて気絶してしまっている。  よほど堪えたらしい。  男たちを一か所にまとめていると稲穂の髪が木陰から覗いた。  「レナード」   「ケニー! 驚かさないでくれ」  「ビックリさせようと思って隠れてたんだ」  ケニーは悪戯が成功したことに笑っている。だが山賊たちの惨状を見て「よくやったね」と口に手を当てた。  「ケニーも戻って来てくれたのか」  「フリッツがあまりにしつこいから仕方なくね」  「関所に預けようとしたら「僕も行く」と言ったのはおまえだろ」  フリッツとケニーは再び口喧嘩を始めたが、レナードは止める気にならなかった。やっと日常が帰ってきたようで安心する。  「二人共、ありがとうございます」  レナードは改めてフリッツたちに頭を下げるとケニーは肩を竦めた。  「まぁ僕はまだブランデンに行く勇気がないだけだよ」  「家族が危篤なのだろ? 早く行こう」  「でも……」  ケニーの顔に困惑の色が強くなる。もしかしてあまり仲がよくないのだろうか。  ケニーのことはよくわからない。数日共にしているが、知っていることと言えば強い魔導士であることと、ブランデン辺境地に危篤の家族がいるということくらいだ。  どこまで触れていいのか距離感が掴めないでいる。  「ここにいても仕方がない。とりあえず下山しよう」  フリッツの声に頷いた。また雲行きが怪しくなってきている。それに山賊のことをブランデンの衛兵に伝えて、引き取ってもらう必要もあった。  フリッツに風の魔法でサポートしてもらいながら小走りに下山すると、ものの数分で関所が見えてきた。  どうやらエーレとゼウスはここで留守番をしていたらしい。レナードを見るとエーレは声高く嘶いた。  ブランデン辺境地はアーガイル帝国の最北端の領土だ。  領地は広く、薬草が豊富に育つことから製薬技術が発達しており、他国にも輸出している。お陰で首都の次に潤っている領地だ。  だが大事な財源である薬の流通が滞っているのだ。なにかあったのかは明白だろう。  門に着いてレナードが最初に目にしたのは関所の衛兵の疲労を滲ませた顔だ。  どこか陰鬱な空気に三人で目配せをしてからレナードが声をかけた。  「随分お疲れですね。なにか変わったことがありましたか?」  レナードの問いかけに衛兵は警戒心を表すように太い眉をわずかに上げた。 けれどレナードの身なりから騎士だと判断してくれたらしく、髭をひと撫でしてから男は口を開く。  「金木犀を直しても直しても壊され、毎日のように魔獣が攻めてくるのです」  「魔獣が……」  「そのせいでいま領地は疲弊しきっています」  想定より酷い状況らしい。一度や二度ではなく、毎日魔獣が襲撃してくるとなればたまったものではない。  「どうして整合騎士団に応援を要請しないのですが? 風便を使えば数分で着きますよね」  「アルゼウス山地に山賊が住み着いてしまい、行商が襲われる事件が続いて、陸路での手紙を出せないのです。それにここは土属性の魔力持ちしかいないので、風便は使えません」  ブランデン辺境地はかなり鎖国的な暮らしをしていたようだ。  それもそうだろう。  薬は人を治す治療薬でもあれば、人を殺す毒薬でもある。一歩間違えれば兵器にもなりえるのだ。  その知識を他国や他の領土に漏らさないよう外界との接触を最小限に抑えているらしい。  衛兵の男は続ける。  「それに辺境伯も倒れられしまい、もうどうすればいいやら。お世継ぎもおられませんし、ブランデンは終わるかもしれません」  「ダンテ辺境伯の体調が芳しくないのですか?」  「今月に入ってからずっと伏せっておいでです」  レナードがフリッツに視線を向けると彼も知らなかったらしい。首を横に振っている。  辺境伯ーー地方長官は貴族の称号の一つだ。ブランデンをまとめあげている、いわば領主のようなものである。  名はダンテ・アディスという男で、御年六十を越えているはずだ。  レナードも五年前に抑制剤の新薬の治験で会ったことがある。  ダンテはオメガらしく見た目が若かった。当時は五十代くらいだったろうが、まだ三十代くらいに見えた。艷やかな黒髪と涼し気な目元が印象的な美しい人だったと記憶している。  (お年を考えるともう……)  平均寿命が七十歳であるアーガイル帝国では六十歳過ぎはかなりの高齢者だ。  この領地はアディス家が代々統治している。だがダンテは未婚で、番がいないと聞く。貴族にしては珍しく養子も取っていなかったらしい。  そうなると次期辺境伯がいない。  いまは遠縁が指揮を執っているようだが、ダンテほどの才力がなく、領地は揺らいでしまっているようだ。  現状を見れば嫌でもわかる。  レナードはゆっくりと口を開いた。  「可能でしたら辺境伯にお会いしたいのですが」  「あなたは騎士のようですが、叙任式は受けられましたか?」  「……いえ、まだです」  「でしたら見習いの方を通すわけにはいきません。その決まりくらい、わかりますよね?」  騎士は叙任式を受けてこそ一人前とされる。いくら学園を卒業し、整合騎士団のエンブレムがついた外套を羽織っていてもレナードの立場はまだ学生だ。  そんな一般人がおいそれと貴族に会えるはずがない。正式な手続きをとらなければならないが、時間もかかる。  「そこは俺の顔に免じてくれ」  「あなた様は……まさか」  衛兵はフリッツの顔を見て、睫毛の際がわかるほど目を開いた。  「アーガイル帝国、第二皇子フリッツ・テイラーだ。彼は学生とはいえ、俺の護衛だ。騎士として扱ってもらって構わない」  「それは失礼しました」  衛兵はさっと頭を下げた。  「連絡を取ってみます。それまで中に入ってお待ちください」  「そうさせてもらうよ」  衛兵が門を開けてくれ、フリッツが先頭に入った。振り返るとケニーは顔面を青くさせている。  「あいつが、フリッツ……だと?」  「そうだ。黙っていてすまない」  レナードが謝罪すると、ケニーの顔色がどんどん青くなっていく。このまま倒れてしまうのではないかと慌てて彼の背中を支えた。  「大丈夫か?」  「悪い。動揺した」  「顔色が酷い。少し休むか」  「……」  「ケニー?」  「やっぱり僕は行けない」  ケニーは山の方へ踵を向けた。そのまま脱兎のごとく走ってしまう。  子どもを一人にしておけない。いくら強い魔導士とはいえ、まだ山賊や魔獣が潜んでいる可能性もある。  「ケニー、待ってくれ!」  レナードは急いでケニーの後を追いかけた。

ともだちにシェアしよう!