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第1章 喪失と日常と

 目覚まし時計が鳴る3分前に目が覚めた。  カーテンを開けると、眩しすぎる光に思わず目を背けてしまう。梅雨が明けたと思ったら、すぐに夏がやって来た。    洗面所で顔を洗う。洗顔フォームが残り少なくなって来たので、買わなければいけない。頭にメモして、キッチンへ向かう。    目玉焼きを作って皿に移し、横にベビーリーフを添える。食パンを焼いている間に、ドリップコーヒーを淹れる。  さっと食べ終えて食器を洗うと、着替えを済ませて、髪を整える。コーヒーの残り香が、部屋の静けさに優しく滲んだ。    いつもの一連の流れを終えると、俺はチェストの上に置いてあるピアスケースを手に取った。白くて小さな、ピアスが2つだけ入るものだ。丁重にテーブルに置くと、ゆっくりと蓋を開く。  光を反射して、さりげなく輝く丸いシルバーのピアス。それは香澄さんが俺にくれた、最初で最後の贈り物だった。  命日まで、あと三ヶ月ほど。  考えないようにして、蓋を閉じた。   「さっくんに似合うと思って」  スーパーの駐輪場の前、なんの脈略もなく手渡された包みに、思わず目を丸くしたっけ。  香澄さんはいつもの柔らかな笑みを浮かべて、俺がそれを開けるのを見守っていた。  初夏の光を受けてキラリと輝くそのピアスは、その日から俺の欠かせないものになった。  ピアスをそっと手に取ると、左耳に2つ付ける。ケースを定位置に戻して、全身鏡で自分の姿を眺める。今日もいつも通り。大丈夫だ。……大丈夫。  仕事用カバンを手に取って、家を出た。 「ごー、ろく、しち、はち、きゅー。29枚ですね。あと35円お願いします」  レジで出された1円玉を数えてお客さんに笑いかけると、 「ごめんねえ、1円玉が余っちゃって……」  少し恥ずかしそうに、申し訳なさそうに笑って10円玉3枚と5円玉をそっと出してくる。 「大丈夫ですよ。お気になさらないでください」  代金ちょうどを受け取って、レシートを渡す。  こういうの、最初は正直面食らった。お金を多量に数えることに慣れていないし、後ろにお客さんが待っていることがほとんどだから、自分のペースで数えているわけにもいかない。  でも、スーパーのレジに立ち出して1年半にもなると、すっかり慣れてにこやかに対応できるようになった。 「ありがとうございました。またお越しくださいませ」  微笑んでお辞儀すると、「ありがとうねえ」とお客さんも笑顔で会釈をくれる。ちょっと嬉しい。 「朔ちゃん、休憩行ってきな〜」 「あ、もうそんな時間……。ありがとうございます」  レジ主任がやってきてバトンタッチさせてもらい、俺はスタッフルームへ向かった。 「朔ちゃん、今日は弁当?」 「ううん、今から買いに行く」  部屋に入ると同じくレジ係の圭ちゃんが、家で作ってきたおにぎりを食べながら話しかけてきた。圭ちゃんの本職は絵描きさんだ。スーパーは週3回の勤務で、時々昼食が一緒になる。ほぼ同時期に入社して年が近いこともあり、仲良くしてもらっている。  俺はロッカーから財布を取り出すと、昼食を選びに売り場へと出た。  新卒で入った会社を1年で辞めて、ここではフルタイムのパートとして働いている。月給があまり高くなく、貯金がほとんどできないのが難だけど、この仕事は気に入っていた。  人間関係も良いし、たまには顔を顰めたくなるようなこともあるけれど、お客さんとちょっとした話をするのも好きだったりする。  25歳。今はまだ良しとして、この働き方も数年のうちには変えなければいけない。  ……たとえ、ここが香澄さんの記憶が詰まった場所であっても。    お惣菜コーナーは昼食を求める人で賑わっていた。目に留まった麻婆丼を買い物カゴに入れて、お菓子売り場に立ち寄る。  すると、グミの置いているあたりで熱心に商品を選んでいるお客さん。  サラサラそうな黒髪、細身で俺より背はわずかに低く、歳は多分近い。歩いている時は少しうつろな感じの瞳が、今は真剣にグミに注がれている。  このお客さんは、休憩時間にごくたまに見かける。いつもぼんやりしているか真剣かの二極なのと、この時間のお菓子売り場で若い男性客は珍しいので、顔を覚えてしまった。  話をしたことはもちろんない。接点が全くないからだ。  俺は彼の邪魔にならないように注意しながら、ラムネをカゴに入れると、お菓子売り場を後にした。  その日の帰り道。歩道で1匹の黒猫を見かけた。首輪を付けてはいないけれど、痩せすぎた感じもなく、毛並みもきれいだ。地域猫なんだろうか。  寄ってきてくれるだろうか? そんな期待を込めて、しゃがんで「にゃーん」と呼びかけてみる。  猫はこちらを見向きもせずに俺を横切って、民家の塀に飛び乗り消えていった。 「そっけないな」  思わず少し笑ってしまう。  ふと気が緩んだ瞬間、指先が自然に左耳のピアスに向かう。  ひんやりとした温度。滑らかな触り心地が香澄さんの纏う空気に似ていて、胸の奥が甘くなるとともに、キシ、と歪んだ。  途端、視界の端がわずかに滲む。  辺りは薄暗い。夕立が来るかもしれない。傘はない。  なのに、足が動かなくなってしまった。  ひとけのない歩道の端。目を静かに伏せてしゃがみ込んでいた。    ポツ……と雨が落ちてくる。 「……洗濯物……」  昨夜ベランダに干してきていたことを思い出すと、ようやく足が動き出す。  深く心を蝕んでくるように雨が冷たい。    走りながら思った。  歪んでいたって、それで動けなくなることがあったって構わない。  今は、痛みを失ってしまうことの方が怖かった。

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