1 / 3
探梅(1)
玲陽が都に来て、初めての冬が終わろうとする頃の、五亨庵。
「星、お茶にしませんか?」
慈圓が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして長榻に犀星を招いた。
「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、根を詰め過ぎです」
「だが……」
「何をお考えですか?」
玲陽は犀星の席まで行くと、手元を覗き込んだ。
都の外側の田畑が描かれた絵地図である。
「今年は、後に回していた南西の河川工事を計画してみようと。手伝ってくれるか?」
「勿論です」
玲陽は興味津々で地図を見た。とがめる者がいないのを幸いに、犀星は隣に立った玲陽の腰を引き寄せた。ついでにそっと撫でる。
「このところ、干ばつや洪水のたびに、畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかない」
玲陽は犀星の手をどうしたものかと迷いながら、
「それで、新たに整備を?」
「ああ。早めに現地を見に行きたいと思っている」
「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、歌仙様」
玲陽はわざとらしく、そう笑った。つられて、犀星も破顔する。二人なら、何倍もの力が出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。
「陽」
仕事中らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を抱き寄せた。
「休憩をしないのは、気を抜いたら甘えたくなるから、ですか?」
犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。
「確かに、こんな姿を玄草様に見せるわけにはいきませんね」
玲陽は、犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せ、苦笑した。
光が溜まる五亨庵が、柔らかく二人を包み込む。抱きしめ合う二人の心音が重なり、呼吸が溶け合って甘く香る。
冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。まだ肌寒い中で、互いの温もりは宝玉よりも価値がある。次第にうっとりとそこに浸り、時間の感覚が遠ざかる。
「……おまえたち、何をしているんだ?」
ビクっとして、二人は声を振り返った。
五亨庵の入り口に、涼景が腕組みして立っていた。
「涼景様、いつの間に……」
「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」
すっかり呆れ顔で、涼景はため息をついた。
「いつもこうなのか?」
「い、いえ、偶然、その、玄草様がいらっしゃらなかったので……」
「ほう?」
涼景は目を細め、玲陽は肩をすくめた。犀星が無言で絵地図に目を戻す。
いつものように涼景は中央に降り、長榻に腰を下ろした。上目遣いに犀星を見て、ふっと、唇を緩める。
「他の連中がいないと、いつもこうか?」
「この冬はもう、火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」
玲陽が照れ隠しの言い訳を挟む。涼景はさらににやりとした。
「それで、温め合っていた、と?」
ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。
「その方が経済的だ」
さらりと犀星が答えた。
「そりゃ、何より」
うろたえる玲陽を、涼景はさも面白そうに眺めていた。
「本当に、おまえたちは仲がいいな」
涼景は勝手に茶を注ぎながら、
「別に、責めてなどいない。おまえたちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい」
「涼景様……」
玲陽はくつろいだ涼景の前におとなしく座り、両手を膝に揃えて湯気を見た。
「茉莉花茶です」
「おまえが好きなやつだな」
「ご存知でしたか?」
「ああ。昔からよく、星が言っていた。大切な人が好きなのだ、と」
「大切……」
玲陽は繰り返し、また、照れて黙りこむ。犀星は自分の席から長榻を見下ろした。
「陽をからかうな」
「だったら、おまえもこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」
「俺は、陽がそばにいてくれたら……」
「ああ、わかったわかった!」
涼景が遮る。
「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」
「涼景様……」
玲陽は、遠慮がちに、
「あの、東雨どのは?」
涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、
「大丈夫だ。だいぶ回復している」
玲陽は苦しそうに胸を押さえた。その仕草を見て、素早く犀星は席を降りると、玲陽を押し倒すように長榻に並んで座る。涼景は唇の端を歪めた。
「星、おまえ、本当にわかりやすいな」
「それより、俺たちも東雨のところに行きたいのだが?」
「まだ、待て。おまえたちが動くと目立つ。もう少し、ほとぼりが冷めるまでは、安寿様と俺に任せておけ」
「ですが……心配で」
玲陽は自分の腕を抱いた。外側から、犀星が抱えて引き寄せる。涼景は安心させるように微笑んだ。
「体は確実に癒えてきている。命の危険は脱した。あの傷は一生痛むだろうが……」
「一生の傷……」
玲陽は犀星の着物を握りしめた。密着する体に震えが走る。犀星に触れてさえ痛む、玲陽の背中。同じように、東雨に刻まれた、生涯の傷。それを思うと、胸が詰まった。
「まぁ、これで良かったかどうかは、あいつが決めることだ」
涼景は茶を含みながら、
「情報は針の縫い目からでも漏れるもの。東雨の生死についてはすでに宮中に知れ渡っているだろうが、宝順さえ黙認してくれれば、波風を立てるものはいないだろう」
犀星は形の良い目元を曇らせた。
「今のところ、兄上からは何もない」
「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」
「これ以上、手出しは許さぬ」
誓いのようにつぶやき、犀星は玲陽を抱く腕に力を込めた。涼景がやれやれと首を振る。
「陽も東雨も離したくない、か。まるで、わがままな子どもだな」
「どう思われても構わない」
犀星は静かに、
「俺はただ、穏やかに生きて欲しいだけだ」
「おまえと一緒では、穏やかさなど無縁だと思うが」
犀星が軽く涼景を睨む。涼景は逆にいたずらに笑い返した。
「あいつが親王づきの近侍になれば、おまえも今より、自由に出歩ける」
「すでに勝手に出歩いて、暁隊の皆さんにはご迷惑をおかけしています」
玲陽が小声で告げ口する。
「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言っても聞かない。隊士も十分、諦めている」
「自由奔放に育ち過ぎました、私たち」
涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、
「確かに、宮中は窮屈だろう。歌仙の野山を駆け回っていたおまえたちからしたら」
「懐かしいです」
玲陽は両手を湯呑みで温めながら、
「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」
「探梅、か」
涼景は興味深そうにつぶやいた。
「何代か前までは宮中行事だったが、廃止になったんだ。雪解けの山道で難儀をする、ということで。今は庭園の梅見の会に変わった」
「よかったな」
犀星は傍に絵地図を広げながら、
「おまえの仕事が一つ、減ったわけだ」
「そうだな。宝順では、自分の足で歩くとは絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。輿の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」
「何のための山歩きか、わからないですね」
玲陽が苦笑いする。
「全くだ。あいつは花より色、だから」
「涼景、次に体が空くのはいつだ?」
犀星は絵地図を指して、
「調べたいことがある。この山へ、行きたいんだが」
「は?」
涼景が顔をしかめる。
「まさか、おまえ、公休に俺を使う気か?」
「仕方がないだろう? 近衛なしで出歩くな、と、右近衛隊長に言われている」
「…………」
「おまえが無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」
「あいつには言うな。仕事を増やしたら、あとで俺がどんな目に会わされるか……」
「だったら、やはり、おまえしかいない」
涼景は諦めの息をついた。
「わかった。何を調べに?」
「梅の開花」
「は?」
再び、涼景は度肝を抜かれた。
「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」
「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」
「だから、おまえに頼んでいる。俺に何かあったら、おまえが咎を受けるんだろう?」
「それはそうだが……」
涼景は苦い顔をした。
「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」
「陽……」
わかってくれるか、と、涼景は玲陽を見た。玲陽はにっこりして小首を傾げ、
「ですから、私たちだけで行きましょう」
「そういうことじゃない……」
涼景の期待は、見事に裏切られた。
入嶺尋殘雪
春禽已自聲
願攜梅一朶
初發祝君榮
(伯華)
|嶺《みね》に入りて残雪を尋ぬ。
|春禽《しゅんきん》すでに自ずから声す。
願わくは|梅一朶《ばいいちだ》を|攜《たずさ》え、
初めて|発《ひら》きて君の栄えを祝わん。
「ついでに、このあたりの川の様子を見たいんだ」
こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。
「今年は、南西の治水を行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて畑が荒れては、皆、窮するだろう」
「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」
「視察計画書はできている。護衛の指名はおまえに任せる。陽が同行することは絶対だ」
犀星が顔を上げると、涼景は、任せろと頷いた。
「梅の花……」
玲陽はぼんやりと宙を見ていた。
「兄様。梅の木って……」
「うん?」
「いえ……」
「なんだ?」
「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」
「待て、陽!」
涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。
「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」
「別に、悪いことじゃないですよ」
玲陽は安心させるように微笑んだ。
「逆です。梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」
「そ、そうか。よかった……」
「涼景、おまえ、相当疲れてるな」
「その俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」
犀星はじっと、涼景を見つめて、
「おまえを、信頼しているから」
「……こいつ」
犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。
そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。
まるで、兄弟みたいだ。
面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。
そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。
こんな時間が、長く続けばいい。
梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。
玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合う二人を、いつまでも眺めていた。
趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は雪解けでぬかるんで足場が悪い。
特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない。
「いい所ですね」
玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に慣れた様子だ。
涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大軍を動かすため、地盤のしっかりした場所を選部ことが多い。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を通ることはない。
山の麓に近衛隊を残して周辺の警護に当たらせ、涼景は犀星と玲陽を追った。
「おい」
難なく進んでいく犀星たちに遅れをとって、涼景は呼び止めた。
何事か、と二人が振り返る。
犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。
「大丈夫か?」
犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。
「ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」
「足場って……どこも泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」
「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」
「おまえたちが慣れすぎなんだ」
「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」
「わかりました」
今までの涼景は、この二人に劣等感を感じた事はなかった。自分より優れた面は知っていたが、それは素直に尊敬し、友人として自慢でもあった。
同時に、武芸に関しては決して負けない自負があった。それは立場上、譲ってはならない領分でもあった。
馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星の面倒を見てきた。だが、単純な春山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も先である。さすがの涼景も認めざるをえない。
犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南西側の一面が見渡せる上、川の流れや、畑の面積、家屋の状況、残雪など、しっかりと確認できる。その情報に氾濫区域の地図を重ねれば、やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。
涼景に治水はわからない。だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と山歩きを許可した。
「こんなに酷いとは……」
悪路に苦戦しながら、暁将軍は愚痴をこぼした。
玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び、一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景にはどこも同じに見える泥道だが、彼らには足場が良し悪しの判断がつくらしい。
さらに問題は草木だった。この山には、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことである。
こんな情けない思いは、いつ以来だろうか。
涼景は、玲陽が歩いた足跡を追いかけた。犀星は二度踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これは、まさに経験からしか学べない技術だった。
そうして進むうちに、次第と草木はその深さを増していく。
「兄様」
玲陽が振り返る。
「荊《いばら》ですね。迂回しますか?」
犀星は少し考えてから、
「まっすぐに行こう」
涼景を驚かせる返答が返ってきた。
「おい、ちょっと待て。おまえたちに、かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」
涼景の言い分を、二人は気にした様子はなかった。犀星はわずかに笑って、
「別に、このまま踏み入るわけじゃない」
玲陽もにっこりした。
ともだちにシェアしよう!

