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探梅(1)

​ 玲陽が都に来て、初めての冬が終わろうとする頃の、五亨庵。 「星、お茶にしませんか?」  慈圓が用事で出かけて二人きりになると、玲陽は休息の準備をして長榻に犀星を招いた。 「朝から、一度も休んでいませんよね? 少し、根を詰め過ぎです」 「だが……」 「何をお考えですか?」  玲陽は犀星の席まで行くと、手元を覗き込んだ。  都の外側の田畑が描かれた絵地図である。 「今年は、後に回していた南西の河川工事を計画してみようと。手伝ってくれるか?」 「勿論です」  玲陽は興味津々で地図を見た。とがめる者がいないのを幸いに、犀星は隣に立った玲陽の腰を引き寄せた。ついでにそっと撫でる。 「このところ、干ばつや洪水のたびに、畑の被害が甚大になっている。気候が変化しているのかもしれない。今までの治水対策では追いつかない」  玲陽は犀星の手をどうしたものかと迷いながら、 「それで、新たに整備を?」 「ああ。早めに現地を見に行きたいと思っている」 「お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます、歌仙様」  玲陽はわざとらしく、そう笑った。つられて、犀星も破顔する。二人なら、何倍もの力が出せる。その相手が玲陽なら、本当に何でもできると確信する。 「陽」  仕事中らしからぬ甘い呼び声に、玲陽はそっと応えて、犀星の上体を抱き寄せた。 「休憩をしないのは、気を抜いたら甘えたくなるから、ですか?」  犀星は玲陽の胸もとに顔を押し当てて、甘い香りにうっとりと目を閉じた。 「確かに、こんな姿を玄草様に見せるわけにはいきませんね」  玲陽は、犀星の不思議な色合いの髪に頬を寄せ、苦笑した。  光が溜まる五亨庵が、柔らかく二人を包み込む。抱きしめ合う二人の心音が重なり、呼吸が溶け合って甘く香る。  冬は確実に遠ざかり、春は確実に近づいてくる午後。まだ肌寒い中で、互いの温もりは宝玉よりも価値がある。次第にうっとりとそこに浸り、時間の感覚が遠ざかる。 「……おまえたち、何をしているんだ?」  ビクっとして、二人は声を振り返った。  五亨庵の入り口に、涼景が腕組みして立っていた。 「涼景様、いつの間に……」 「近くを通りかかったから、覗きに来てみれば……」  すっかり呆れ顔で、涼景はため息をついた。 「いつもこうなのか?」 「い、いえ、偶然、その、玄草様がいらっしゃらなかったので……」 「ほう?」  涼景は目を細め、玲陽は肩をすくめた。犀星が無言で絵地図に目を戻す。  いつものように涼景は中央に降り、長榻に腰を下ろした。上目遣いに犀星を見て、ふっと、唇を緩める。 「他の連中がいないと、いつもこうか?」 「この冬はもう、火を焚かないことにしたので、ちょっと寒くて」  玲陽が照れ隠しの言い訳を挟む。涼景はさらににやりとした。 「それで、温め合っていた、と?」  ポッと頬を赤らめて、玲陽がうつむく。 「その方が経済的だ」  さらりと犀星が答えた。 「そりゃ、何より」  うろたえる玲陽を、涼景はさも面白そうに眺めていた。 「本当に、おまえたちは仲がいいな」  涼景は勝手に茶を注ぎながら、 「別に、責めてなどいない。おまえたちが幸せでいてくれると、俺も嬉しい」 「涼景様……」  玲陽はくつろいだ涼景の前におとなしく座り、両手を膝に揃えて湯気を見た。 「茉莉花茶です」 「おまえが好きなやつだな」 「ご存知でしたか?」 「ああ。昔からよく、星が言っていた。大切な人が好きなのだ、と」 「大切……」  玲陽は繰り返し、また、照れて黙りこむ。犀星は自分の席から長榻を見下ろした。 「陽をからかうな」 「だったら、おまえもこっちに来て話をしろ。どうせ、仕事詰めで気も休まらないんだろ?」 「俺は、陽がそばにいてくれたら……」 「ああ、わかったわかった!」  涼景が遮る。 「惚気は晩酌の時にでも聞いてやる。酒が入らないと、こっちまで照れくさくなる」 「涼景様……」  玲陽は、遠慮がちに、 「あの、東雨どのは?」  涼景は瞬時に真面目な顔に戻ると、 「大丈夫だ。だいぶ回復している」  玲陽は苦しそうに胸を押さえた。その仕草を見て、素早く犀星は席を降りると、玲陽を押し倒すように長榻に並んで座る。涼景は唇の端を歪めた。 「星、おまえ、本当にわかりやすいな」 「それより、俺たちも東雨のところに行きたいのだが?」 「まだ、待て。おまえたちが動くと目立つ。もう少し、ほとぼりが冷めるまでは、安寿様と俺に任せておけ」 「ですが……心配で」  玲陽は自分の腕を抱いた。外側から、犀星が抱えて引き寄せる。涼景は安心させるように微笑んだ。 「体は確実に癒えてきている。命の危険は脱した。あの傷は一生痛むだろうが……」 「一生の傷……」  玲陽は犀星の着物を握りしめた。密着する体に震えが走る。犀星に触れてさえ痛む、玲陽の背中。同じように、東雨に刻まれた、生涯の傷。それを思うと、胸が詰まった。 「まぁ、これで良かったかどうかは、あいつが決めることだ」  涼景は茶を含みながら、 「情報は針の縫い目からでも漏れるもの。東雨の生死についてはすでに宮中に知れ渡っているだろうが、宝順さえ黙認してくれれば、波風を立てるものはいないだろう」  犀星は形の良い目元を曇らせた。 「今のところ、兄上からは何もない」 「殺してしまえばそれまでだが、生かしておけば、また使い道がある、と考えたのだろう」 「これ以上、手出しは許さぬ」  誓いのようにつぶやき、犀星は玲陽を抱く腕に力を込めた。涼景がやれやれと首を振る。 「陽も東雨も離したくない、か。まるで、わがままな子どもだな」 「どう思われても構わない」  犀星は静かに、 「俺はただ、穏やかに生きて欲しいだけだ」 「おまえと一緒では、穏やかさなど無縁だと思うが」  犀星が軽く涼景を睨む。涼景は逆にいたずらに笑い返した。 「あいつが親王づきの近侍になれば、おまえも今より、自由に出歩ける」 「すでに勝手に出歩いて、暁隊の皆さんにはご迷惑をおかけしています」  玲陽が小声で告げ口する。 「こいつは、昔からそうだ。俺が何度言っても聞かない。隊士も十分、諦めている」 「自由奔放に育ち過ぎました、私たち」  涼景は暖かな茶の香りを楽しみながら、 「確かに、宮中は窮屈だろう。歌仙の野山を駆け回っていたおまえたちからしたら」 「懐かしいです」  玲陽は両手を湯呑みで温めながら、 「昔、この季節になると、よく山深くに入りました。梅を探して……」 「探梅、か」  涼景は興味深そうにつぶやいた。 「何代か前までは宮中行事だったが、廃止になったんだ。雪解けの山道で難儀をする、ということで。今は庭園の梅見の会に変わった」 「よかったな」  犀星は傍に絵地図を広げながら、 「おまえの仕事が一つ、減ったわけだ」 「そうだな。宝順では、自分の足で歩くとは絶対に言わないだろうからな。かといって、馬も進めん。輿の担ぎ手が酷い目に合う上、梅を探すのは俺たちの仕事になる」 「何のための山歩きか、わからないですね」  玲陽が苦笑いする。 「全くだ。あいつは花より色、だから」 「涼景、次に体が空くのはいつだ?」  犀星は絵地図を指して、 「調べたいことがある。この山へ、行きたいんだが」 「は?」  涼景が顔をしかめる。 「まさか、おまえ、公休に俺を使う気か?」 「仕方がないだろう? 近衛なしで出歩くな、と、右近衛隊長に言われている」 「…………」 「おまえが無理なら、別の……ああ、蓮章でもいい」 「あいつには言うな。仕事を増やしたら、あとで俺がどんな目に会わされるか……」 「だったら、やはり、おまえしかいない」  涼景は諦めの息をついた。 「わかった。何を調べに?」 「梅の開花」 「は?」  再び、涼景は度肝を抜かれた。 「探梅だ。陽の体力をつけるにも、ちょうどいいだろ」 「そりゃ、反対はしないが……危険だぞ」 「だから、おまえに頼んでいる。俺に何かあったら、おまえが咎を受けるんだろう?」 「それはそうだが……」  涼景は苦い顔をした。 「兄様、涼景様はお疲れですから、お休みの日まで連れ回してはお可哀想です」 「陽……」  わかってくれるか、と、涼景は玲陽を見た。玲陽はにっこりして小首を傾げ、 「ですから、私たちだけで行きましょう」 「そういうことじゃない……」  涼景の期待は、見事に裏切られた。 入嶺尋殘雪 春禽已自聲 願攜梅一朶 初發祝君榮 (​伯華) |嶺《みね》に入りて残雪を尋ぬ。 |春禽《しゅんきん》すでに自ずから声す。 願わくは|梅一朶《ばいいちだ》を|攜《たずさ》え、 初めて|発《ひら》きて君の栄えを祝わん。 「ついでに、このあたりの川の様子を見たいんだ」  こっちが本命だ、というように、犀星は絵地図を涼景に示した。 「今年は、南西の治水を行いたい。昨年、台風で酷い被害が出ている。二年続けて畑が荒れては、皆、窮するだろう」 「そういうことなら、名目が立つ。わざわざ、俺の休日を返上しなくてもいい」 「視察計画書はできている。護衛の指名はおまえに任せる。陽が同行することは絶対だ」  犀星が顔を上げると、涼景は、任せろと頷いた。 「梅の花……」  玲陽はぼんやりと宙を見ていた。 「兄様。梅の木って……」 「うん?」 「いえ……」 「なんだ?」 「その……一番、仙界に近い木と言われています。だから……」 「待て、陽!」  涼景が、玲陽の言葉の続きを止める。 「お前が『嫌な予感が……』とか言い出すと、決まって本当に厄介なことが起こるんだ。だから、せめて、思っても、口にはしないでくれ」 「別に、悪いことじゃないですよ」  玲陽は安心させるように微笑んだ。 「逆です。梅の木は、仙界への通り道。その人の夢幻の願いを叶えてくれると言われているんです。悪い話じゃないでしょう?」 「そ、そうか。よかった……」 「涼景、おまえ、相当疲れてるな」 「その俺を巻き込もうとしているのは、どこの誰だ?」  犀星はじっと、涼景を見つめて、 「おまえを、信頼しているから」 「……こいつ」  犀星の殺し文句に、何度、無茶をさせられてきたことか。  そんな二人のやり取りを、玲陽は微笑ましく見守る。  まるで、兄弟みたいだ。  面倒見の良い兄と、それをうまく操る弟。  そんな関係が、涼景と犀星の間に見えて、玲陽は心から平穏を感じる。  こんな時間が、長く続けばいい。  梅の木を見つけたら、そう、願い事をしよう。 ​ 玲陽は冬の寒さも忘れて、じゃれ合うように言い合う二人を、いつまでも眺めていた。  趣ある梅の探索とは裏腹、この季節の山道は雪解けでぬかるんで足場が悪い。  特に、犀星が示した山の状況は酷く、人が入った形跡もない。 「いい所ですね」  玲陽はしっかりと足元を固めた服装で、山歩きに備えている。犀星も同様に慣れた様子だ。  涼景は、とりあえず言われた通りに支度をしてきたが、実際に歩き始めると、その困難さを思い知った。数々の戦場を渡り歩いてきたが、大軍を動かすため、地盤のしっかりした場所を選部ことが多い。遊撃で動く場合も、ここまでの悪路を通ることはない。  山の麓に近衛隊を残して周辺の警護に当たらせ、涼景は犀星と玲陽を追った。 「おい」  難なく進んでいく犀星たちに遅れをとって、涼景は呼び止めた。  何事か、と二人が振り返る。  犀星はともかく、玲陽は体力的に落ちているはずだ。それなのに、軽々と山道を登ってゆく。 「大丈夫か?」  犀星が引き返してきて、涼景の足元を見る。 「ちゃんと、足場を選ばないと、疲れるだけだぞ」 「足場って……どこも泥が深い上に、下手に雪を踏めば滑るし……」 「涼景様にも、苦手なものがあったんですね」 「おまえたちが慣れすぎなんだ」 「陽、先頭を頼む。俺が後ろに回るから」 「わかりました」  今までの涼景は、この二人に劣等感を感じた事はなかった。自分より優れた面は知っていたが、それは素直に尊敬し、友人として自慢でもあった。  同時に、武芸に関しては決して負けない自負があった。それは立場上、譲ってはならない領分でもあった。  馬の駆け合い、戦場での動き、武術や戦略に至るまで、全て自分が率先して犀星の面倒を見てきた。だが、単純な春山の歩き方については、両者の方が一歩も二歩も先である。さすがの涼景も認めざるをえない。  犀星が目指しているのは、山の中腹にある切り立った露頭だった。そこからは都の南西側の一面が見渡せる上、川の流れや、畑の面積、家屋の状況、残雪など、しっかりと確認できる。その情報に氾濫区域の地図を重ねれば、やるべき治水工事の全容が見えてくるはずだ。  涼景に治水はわからない。だからこそ、せめて自分はこの二人が自由に動けるように、と山歩きを許可した。 「こんなに酷いとは……」  悪路に苦戦しながら、暁将軍は愚痴をこぼした。  玲陽はできる限り足場のしっかりした場所を選び、一歩一歩ゆっくりと歩いてくれた。犀星は涼景がずり落ちないよう、時折背中を支えてくれる。涼景にはどこも同じに見える泥道だが、彼らには足場が良し悪しの判断がつくらしい。  さらに問題は草木だった。この山には、人が通る道はない。道なき道を行くとはまさにこのことである。  こんな情けない思いは、いつ以来だろうか。  涼景は、玲陽が歩いた足跡を追いかけた。犀星は二度踏まれた場所を少し避け、それでも安全な場所を確保しながらついて行く。これは、まさに経験からしか学べない技術だった。  そうして進むうちに、次第と草木はその深さを増していく。 「兄様」  玲陽が振り返る。 「荊《いばら》ですね。迂回しますか?」  犀星は少し考えてから、 「まっすぐに行こう」  涼景を驚かせる返答が返ってきた。 「おい、ちょっと待て。おまえたちに、かすり傷一つつける訳にはいかないんだ」  涼景の言い分を、二人は気にした様子はなかった。犀星はわずかに笑って、 「別に、このまま踏み入るわけじゃない」  玲陽もにっこりした。

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