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探梅(2)

「涼景様なら、刀で斬ります? それとも焼き払いますか?」  涼景は返答に窮して、意地の悪い友人を交互に眺めた。三人でいる時、彼らの間には悪ふざけが混じる。もしかすると、自分はそれを求めて、苦労がわかりきったこの役目を引き受けたのかもしれない。  涼景が迷っているうちに、荊はいよいよその茂りを濃くし、もうこれ以上一歩も先へ進めない状態になった。 「では、突っ切りましょう」  玲陽が涼景を振り返った。 「涼景様、木登りはお得意ですか?」 「は?」  涼景は首をかしげた。玲陽は木を見上げた。 「幸い、この辺はまだ葉が出ていませんので、登るにはうってつけです」 「……本気か?」 「暁将軍は、木に登った経験がなかったか?」  後ろから犀星がからかう。 「将軍になるためには必要ないですからね」  玲陽も、犀星の言葉に乗じる。  涼景は複雑な心境で、高く伸びた楓を見上げた。大木は今、葉を落とし、太い枝が力強く張っている。  玲陽は近くの何本かを確かめ、その若さを確認していた。老木であれば、思わぬところで折れる可能性がある。見誤れば大怪我をする。子供の頃、何度も危険な思いをしている。  玲陽が選んだ木を見て、犀星も頷いた。 「なぁ、本当に?」  最後の救いを求めるように涼景が言った。二人は情け容赦なく、揃って頷いた。  まずは玲陽が幹に手をかける。体の回復を考えれば、木登りなどまだ難しいように思われたが、あっという間に幹を伝い、手頃な枝まで上がってしまった。 「涼景様は縄を使ったほうがいいと思います」  玲陽の言葉に、犀星は荷物から荒縄を取り出し、ちょうど腕を広げたほどの長さに刀で切ると、涼景に渡した。 「おい、これをどうするんだ?」 「引っ掛けて登るんだ。おまえ、本当に登り方を知らないのか?」  犀星はここまでは冗談だったが、さすがにまるで経験がない涼景に呆れ顔である。 「とにかく、陽の登り方を見ておけ。お前は腕の代わりに縄を使え」  さっぱりわからない、というように、困惑しながら、涼景は玲陽を見た。  玲陽は小さな幹の凹凸に足先をかけ、幹を抱くような姿勢で構えた。足場を踏み、それをもとに体を伸縮させ、上のほうに手をかけ、また足を上に上げ、さらにそこから上に向かって伸び上がり、幹に回した腕に体重をかけながら、まるで尺取り虫のように上がってゆく。 「神業だな」  涼景が思わずつぶやいた。 「これぐらいのこと、五歳の子供でもできる」  犀星は軽く言った。 「陽は腕を使えるが、おまえは代わりに縄を使ってみろ。慣れていないと、素手は危ない」 「あ、ああ……」 「心配するな。落ちたら俺が支える。それとも一番後ろで置いて行かれたいか?」  仕方なく、涼景はため息をついた。これはある意味、一種の試練だ。剣術の稽古や作戦を立てるより、どんな強者と一騎討ちを交えるより、あの宝順と一夜を過ごすより、違った意味で命がけである。  そういえばしばらく、こんな胸躍ることをしていなかったな  涼景の好奇心が湧き上がってくる。 「よし、やってみるか」  涼景はやり方だけ教わると、自分から木に取り付いた。友人の前で恥ずかしい格好は見せられない。仮にも暁将軍と言われる涼景である。腕力には自信があった。体力も二人に負けはしない。体の使い方も決して鈍い方ではない。  はじめこそ、危なっかしい動きであったが、やがて容量を得ると、するすると登って行く。 「さすがは涼景様です!」  上の枝に腰掛けて玲陽が言う。 「慣れてしまえば難しい事はありません。猫だって気に登れるんです」 「猫と比べるな」  涼景は汗のにじんだ額で玲陽を見上げ、ニヤリと笑った。 「気を付けろ、表面に苔があると滑りやすい」  犀星が注意を促す。 「この時期の苔は凍結しています。氷と同じだと思ってください」  二人から学びながら、涼景はどうにか一番下の太い枝までたどり着いた。その頃には、玲陽はもう一つ上の枝に移動している。  あれだけ道をふさいでいた荊が、今ははるか下である。  目の前には、力強く枝を広げた高木が、空の向こうまで続いている。  方向から見て、何本か先が目的の露頭だ。  真っ直ぐ行く、とはこういうことだったらしい。納得はしつつ、涼景はその発想の突飛さに、面白い友を持ったと嬉しくなる。 「で、ここからどうするんだ?」  涼景はとりあえず枝で一息つきながら、まだ幹に取り付いている犀星に言葉をかけた。 「まさか、枝を渡っていくとか言わないよな」  涼景の冗談に、玲陽は真剣な顔で頷いた。 「大丈夫です。任せてください」 「え?」  呆気に取られている涼景には構わず、玲陽は自分の荷物の中から、細めの縄を取り出した。その先には分銅がついている。まるで恐ろしいものでも見るように、涼景は息を呑んだ。 「なんだよ、それ……」 「どこかで見た事はありませんか?」 「……攻城戦の時に使う、鉤縄に似ているが?」 「そうです。鉤だと、木を痛めるので、分銅に変えてあります」  玲陽は、見極めた枝に向かって縄を放り投げた。見事に縄が枝に引っかかり、分銅が遠心力でくるくると回転し、固定される。 「縄と枝の摩擦で、私たちの体重くらいは支えてくれますから」 「それで、どうやって向こうまで……」  涼景は嫌な予感しかしなかった。 「こうやって」  玲陽は足場にしていた枝に立ち上がると、軽々とそれを蹴って、分銅が巻き付いた枝の一本下に飛び移った。 「…………」  今見た光景が信じられず、数瞬、涼景は瞬きを忘れた。玲陽は縄を外すと、 「こんな感じで、渡っていきます」 「いや、こんな感じって……いきなりは無理だろ!」 「無理じゃありません。今、私がやりました」 「だから、おまえにできても、俺には……」 「涼景、おまえの分の渡り綱」  気づけば、すぐ横まで来ていた犀星が、分銅付きの縄を涼景に差し出している。 「ほ、本気かよ……」 「陽、一本先へ。涼景は俺が一緒に飛ぶ」 「わかりました」  玲陽は自分の綱を外して、さらにその先の枝に巻きつけ、軽々と渡る。 「自分が飛び移りたい枝の、少し手前の上を狙え。木の枝は、少しずつずれて伸びている。体が勢いで振られて、ちょうど速度が弱まったあたりで足を着けるように決める」 「理屈はわかるが、そんなに簡単には……」 「陽はこういう時に道筋を読むのが得意なんだ。あいつが使った枝を使えば、うまくいくから」  犀星は、何でもない、という調子で涼景を力づけるが、涼景はそれどころではない。 「とにかく、やってみろ。無理そうだったら、ここで待っていてくれていいから」 「そんな訳に行くか!」  すでに、護衛の域を超え、意地になって涼景は縄を構えた。  攻城戦で鉤縄を使う訓練は積んでいる。それと同じ……  自分に言い聞かせ、玲陽が選んだ枝を目掛けて縄を放る。だが、攻城戦と違うのは、足場が頼りない枝の上、ということだ。思わず癖で片足を後ろに引いたが、そこには踏むべき大地がない。一瞬で全身に汗が噴き出した。  犀星が、体勢を崩した涼景を、器用に支えた。  涼景は観念した。 「すまん、星。俺は足でまといだ。ここからは二人で行ってくれ」 「いいのか? 護衛なしで勝手に動いて」 「この状況で、おまえたちに護衛は必要ない」 「そうか。じゃあ、ここに座って、幹にもたれて休んでいろ。帰りもこの枝を通るから、迎えにくる。心配するな」 「残念だが、そうさせてもらう」  残念、というより、心底、悔しそうな涼景を見て、犀星は目を細めた。 「気にするな。無茶を言ってると承知している」 「おまえたち、生まれる場所を間違えたな」 「うん?」 「俺なんかより、よほど優秀な将軍になっていた」 「俺はともかく……」  犀星は声を低めた。 「陽は、戦いは好かない」 「……そうだな」  涼景は犀星の手を借りて、楽な姿勢に座りこんだ。 「星、気をつけろ」 「ああ。視察を済ませたら、すぐに戻るから」 「俺のことは気にするな」  涼景はすっかり自分の敗北を認めていた。 「本当は、陽に、自信をつけさせたかったんだろ? 自分はもう、思うように動ける、と」  犀星は真顔で涼景を見た。 「おまえが、陽のためにしか行動しないことは知っているさ」 「見くびるな。俺はおまえのことも考えている」 「そうか?」 「そうだ」 「その結果がこれだぞ」 「いい気晴らしになっただろ?」 「……負けたよ、おまえには」  涼景は柔らかく笑った。 「兄様? 大丈夫ですか?」  先をゆく玲陽が振り返って叫んだ。涼景は優しく笑った。 「行けよ。ここから先は、おまえたちだけの世界だ」 「……わかった」  犀星は顔を上げた。  玲陽の後を追って、犀星は枝を飛び移っていく。二人が器用だということは知っていたが、まさかここまで差があるとは……  涼景は悔しさを通り越して、素直にその特技を認めざるを得なかった。  犀星と玲陽は、軽快に枝を渡り、あっという間に目指す露頭へたどり着いた。  玲陽が近くで居心地の良い枝を選び、よじ登る。息を吐き、景色を楽しむように幹にもたれてゆったりと座る。犀星はそのすぐ下の枝に陣取り、近くの枝に荷物を引っ掛けて身軽になってから、竹簡と小筆を取り出した。  景色を目の奥に記憶し、思い出すために必要な走り書きを残す。  一面に広がる雪解けの大地は、様々な色が入り混じっていた。地平のあたりはまだ白や灰色で、近くなるほど茶と黒、まばらに緑もある気がしたが、ほとんどは濡れた枯れ草に覆われていた。  細く走る際立った線は、農地を区切る道である。土を積み上げただけで、ところどころが途切れている。それに沿って並ぶ木造の家は、半分以上が空き家だった。  本来、畑として耕作されるべき土地は荒れて、何年も放置されている区画も多い。  北西の山脈から一本の川が足元まで続いている。太久江から別れた、西の支流・|京河《けいが》である。犀星が花街の治水に利用したのも、この豊かな水源であった。  京河は川幅が伍江より広く、流れも穏やかで氾濫の少ない大河である。農地の中央を横切っており、農業用水として便宜が良い。  玲陽は初春の透き通る風の中、川面のきらめきを眩しそうに眺めながら、足元の犀星に問いかけた。 「広大な平野と豊かな水源があるのに、どうしてこれほど区画が不統一で、人がいないのです?」  犀星は遠くに目を向けた。 「このあたりは、もともと国有地だったが、長い間に貴人への褒賞として分配されたんだ。都に隣接するから、権力の集中を避けて、わざと不自由な形に切り分け、反目し合う家々に」 「意図的に地域の統一を妨げた、ということ?」 「そうなる」  玲陽は、宮中の仕組みを思い出した。身近なところでも、左右の近衛隊の例がある。二人の親王の警護を左右に分ける、という業務上の細分化だけではなく、性格を異にする人材に任せることで結託を防ぎ、皇帝の権力を唯一のものとする計らいがあった。犀星が続けた。 「耕作しにくい上、他領に対する嫌がらせもある。災害時の責任の所在もあいまいで、農民にとっては不自由しかない。耕作権を放棄する者が増え、さらに管理者が不明瞭になり、農地として本来の能力を発揮できていない」 「悪循環ですね」  玲陽は髪を耳に搔き上げた。風が裾を揺らし、動いて火照った体を静かに冷ましてくれた。 「せっかくの土地が、勿体無いです」 「ああ。ここが機能すれば、この冬のような食糧不足も緩和される。どうしても、手をつけたい」  玲陽は頷いた。 「どうするつもりですか?」 「そうだな」  犀星は事前に書き留めていた竹簡を探った。 「まずは、散乱している耕作権の確認からだ。書類上の所有者と合わせて、責任を明確にする。それから、五亨庵の名で区画整備を立案する。水路と地形に沿って耕作単位を再統合し、境界を明確かつ、複雑にならないよう整える」 「所有している貴人たちからの反発は?」 「あるだろうな」  犀星は頷いた。 「しかし、彼らとて、ここを金と食糧を産む土地に変えたいのも本音。隣接する他家への見栄から協力を申し出られないだけのこと。俺はあくまで、その仲介に徹する。彼らは実より名を重んじる。そこを尊重してやれば、ことは運びやすい」 「確かに。そして、星が求めるのは、結果として付いてくる実のみ」 「そういうことだ」  玲陽は表情を緩め、目を細めて景色を眺めた。その目の奥には、犀星の理想が現実となり、水路と土手で美しく綾取られた大地が見えるようだった。 「今まで、ここは粟の栽培が多かったが」  犀星は静かに、 「最近は気温が下がりやすく、収穫が極端に落ちるようになった」  玲陽は幾つかの植物を想像しながら、 「黍や高粱はこの辺りの気候には合わない。小麦もいいですけど、大麦の方がさらに寒さに強い。早春から蒔くことができますし、短い夏でも収穫が望めます。食用として調理もしやすく、様々な用途があり、主食として優れています」 「保存もしやすいから、冬季間も重宝するだろう」  二人は視線を交わして微笑んだ。  犀星の目が、青空より蒼くきらめく。 「やはり、おまえと一緒がいい」  溢れた犀星の本音に、玲陽の胸が強く鳴った。嬉しさで自然と頬が赤らむ。 「自信を持って、進めることができる」  玲陽は恥ずかしさを隠すように、声を抑えた。 「玲家がおさめていた土地は平野部がほとんどで、田畑の管理が主な仕事でした。叔父上は、犀家の領地だけではなく、私の家族が放り出していた平野部の管理にも、力を貸してくださいました」  懐かしそうに、玲陽はゆっくりと語った。 「あの時はよくわからなかったですが、本当に良い勉強をさせてもらっていたのだと、今になって思います」 「そうだな。机上の空論ではなく、実際にその難しさを体験し、そしてやりがいを感じた」 「星なら、必ず、この仕事を成し遂げてくれます」  玲陽は、楽しい遊びを前にした子どものように、声を弾ませた。犀星は少し空を見上げた。 「今年はこの一帯。来年は東、その次の年は……」

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