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探梅(3)
犀星の視線がより遠くへ、やがて地平線へと伸びていく。
玲陽は胸が熱くなるのを感じた。未来を語る犀星が、あまりに眩しい。
「すべての人々を幸せにはできない。けれど、せめて一人でも多くの人々を助けたい」
犀星は玲陽を見上げた。
「俺は、おまえと再会して、思い知った。大切な人と共にいられること、ただそれだけが、どれほど意味があるかを知った。これはきっと、誰の身にも必要な生きる意味になる。その基盤を作りたい」
「あなたの力になれるなら、私は全力を注ぎたいです」
「陽」
「星。私はあなたの手足です。どうか、存分にお使いください」
犀星はふと、唇を結んだ。
自分が思っている以上に、玲陽は自分の近くにいる。自分が望む以上に、自分に尽くそうとしてくれている。
その思いが何よりも犀星を力づけ、勇気を与えてくれる。
「頼りにしている」
「お任せください、歌仙様」
玲陽が笑う。
不意に、犀星は横を向いた。
「だが、一つだけ、訂正する」
「え?」
「おまえは俺の手足じゃない。心臓だ」
思わず、玲陽は体がぐらついてヒヤリとした。
「それじゃ、一瞬たりとも休めませんね」
冗談のつもりが、声は上ずっていた。
二人は時を忘れ、眼下の景色を眺めながら、少年の日のように互いに夢を語りあった。
この国の未来。まだ冷たい風が吹く中、二人の胸には暖かな希望が満ちる。膨らむ。
枯れ果てた大地も、緑に色づき、やがて黄金色に輝き、人々の笑い声が溢れる。そんな世界が目に見えるようだった。
玲陽は枝に立つと、大きく身体を伸ばした。
久しぶりに存分に動き、心から世界を楽しんでいた。ちらりと犀星を見ると、真剣に筆を動かしながら、どこか幸せそうな笑顔である。
名も知らぬ誰かのために。
犀星の覚悟は、玲陽にとって何よりも、誇らしく、力強い。
玲陽は周りを見渡した。木々の枝にはまだわずかに雪が積もり冬が残っている。残念ながら梅の木は見当たらない。
だが、自分のすぐそばで、春を夢見て花を咲かせようとしている犀星の姿そのものが、厳しい冬の寒さにも雪にも負けない、美しい一輪の白い花に思われた。
世界で一番、美しい|伯華《ひと》を見つけました。
その人の隣で過ごせる日々は、目がくらむほどの、輝きに満ち溢れている。
細枝開雪朶
一點似君情
願化融陽照
寒氷盡自輕
(光理)
|細枝《さいし》に|雪朶《せつだ》開く。
|一點《いってん》、|君情《きみじょう》に似たり。
願わくは|融陽《ゆうよう》と化して照らし、
|寒氷《かんぴょう》尽く自ずから軽からん。
友人たちが、先の露頭であれこれと考えを巡らせている間、涼景もまた試行錯誤を重ねた挙句、どうにか自力で木を降りることに成功した。
枝の上でくつろぐなど、慣れていない彼には心地の良いものではない。自分の身の安全を考えて、とりあえず地面の上にいた方がいい。
やっとの思いで降りてきた木を見上げ、涼景はため息をついた。あの二人には決して見せられない、情けない顔になる。
「確かに、猫でも登れるのにな……」
玲陽が言っていたことを思い出す。
慣れないことをしたために、普段は使わない体の節々がこわばっている。
日にあたって乾いた場所を探すと、涼景は四肢を投げ出し、腕を枕に寝転んだ。
「猫なら、陽だまりで居眠りしていても叱られまい……」
穏やかな日差しと、心地よい風、誰からも見つからない山の中。近くには、信頼する友人がいて、必ず迎えに来てくれる。
久しぶりに深い安堵と重たい疲れが、涼景の意識を瞬く間に眠りの中へ引き込んでゆく。
夢の中で、自分はじっと、山に暖かな季節が来るのを待っていた。
枝の上にいるのだろうか。
地面がはるか下に見える。
紅色の梅の花が、静かにすぐそばで自分を見つめていた。
不思議に思って、さらに周囲を見れば、自分が梅の木になり、その花は自分が咲かせたものだとわかる。
そうか、俺は……
わざわざ探して歩くより、自分が梅になった方が早いな。
夢ゆえの不思議さで、疑問もなく、彼は思った。
ふと、視界に動くものが入る。
一人の少女が、白い息を吐きはがら、あたりをきょろきょろと見回し、何かを探しながらこちらへくる。
ほら、花が咲いたぞ。
涼景は呼びかけようとして、声が出ないことに気づいた。
少女は自分には気づかない。
ただ、一生懸命に枝から枝へ、せわしなく目を向けている。
近づくにつれ、涼景には少女が誰か、はっきりわかった。
燕春だ。
自分が愛してやまない、たった一人の実の妹。
「兄様! 涼景!」
精一杯の声で、彼女は自分を呼んでいる。
「どちらです?」
俺はここにいる!
答えたくても、答えられない。
なぜ、見上げてくれない? おまえの、すぐそばにいる。
春! 俺はここだ!
涼景は胸いっぱいに叫んだが、声は出ない。
「兄様!」
苦しそうに呼びながら、燕春が自分の下を通りすぎ、遠ざかっていく。
春!
涼景は振り返ろうとした。後を追おうとした。
だが、今の自分は梅の木だ。動くことはできない。
小さくなっていく燕春の声が、彼の心を締め付けた。
「ああっ!」
自分の声に、涼景は目を覚ました。
体を確かめると、元通り、人である。
ただの夢。
涼景はぼんやりと、空を見上げた。
都はまだ冷えるが、歌仙はもう、至るところで梅が咲いているだろう。
探すまでもなく、屋敷の庭から、山々を彩る紅白の梅が眺められる季節だ。
身体の弱い妹は、間近で梅の花を見たことはない。
深院君難出
山寒獨探梅
願持芳一朶
為綰黒雲來
(仙水)
|深院《しんいん》、君 出づるに難し。
山寒くして、|獨《ひと》り梅を|探《もと》む。
願わくは|芳《かんば》しき|一朶《いちだ》を持ち、
黒雲の|來《きた》るを為《ため》に|綰《わ》かん。
一枝、取ってきてやろう、と言ったことがある。自然に咲くものをむやみに傷つけるな、と妹に叱られたことを思い出した。
『私は、兄様と一緒にいたいのです。梅の花はただの口実』
そう言って、燕春は涼景の頬に口付けた。
あの頃は、穢れとは縁遠く、そして、自らの感情に素直であった。そして、怖さを知らなかった。
だが、今は違う。
燕春は年齢を重ね、物事を理解し、女になった。
ただの兄妹の触れ合いの域を越えてしまった二人に、引き返す道はない。せめて、できる限り、遠ざかること。
はるかな距離だけが、救いだ。
玲陽を迎えに歌仙に戻った時も、自宅には最初の夜しか立ち寄らなかった。
そばに燕春を感じれば、自制心を保つ自信はない。
我知らず、涼景は片手で目頭を押さえた。
時がたてば、燕春とて、自分から離れていくだろう。
そんな願いのような祈りは虚しく、彼女が自分を恋慕う心は、時折届く文から、苦しいほどに伝わってくる。いつも、最後まで読むことができず、かといって手放すこともできず、涼景の文箱には、細い線で書かれた熱い想いだけが溜まっていく。
涼景の胸中を知っているのは、犀星と蓮章だけである。おそらく、今では宝順も勘づいているに違いない。一族を守るという理由だけで、ここまでの屈辱に耐えられるほど、手ぬるい扱いは受けてはいない。
『お前は、年の離れた若い娘が好みか?』
一度、宝順にそう、問われたことがある。
その時は適当にはぐらかしたが、燕春のことを言っていたのは間違いなかった。
犀星たちの気配は、遠のいたままだ。
まだしばらくはかかりそうだ。
涼景は、手頃な枝を拾うと、木の根本に突き立てた。ここで待っていろ、という記しである。
そうしてから、ぶらりと、足場の良さそうなところを探しつつ、南へと向かう。
「そもそも、梅の開花を調べに来たんじゃなかったのか」
草を分けて進みながら、涼景は、忘れたい思いを振り切るように、一歩一歩を踏み締めた。
宮中では滅多に嗅ぐことのない、泥の匂い。そして、冷たく心地よい湿気を含んだ風。葉を落とした木にも、しっかりと宿る命。
燕春からの手紙とは別に、自分が家のことを任せている女官長からも、定期的に妹の体調についての正確な報告が届いている。それによれば、毎年冬場は床につききりで、起き上がる力もないほど、食も細くなるらしい。
燕家はかつての名家ではあるが、今は没落の一途を辿っている。だからこそ、涼景の出世が家の頼みであり、それを願って両親は息子を都へ送り出した。今では、涼景一人の肩に、遠縁も含め、全ての血族の命運がかかっている。十分過ぎる俸禄も、彼の手元にはほとんど残らない。
それでも、燕春にだけは辛い思いをさせないよう、どうにか工面して送っている。
一人で歩いていると、いろいろなことが思い出される。
自分が初めて私情で人を殴ったのは、数年前、ちょうどこの時期に本家に戻った時だった。
あれは先代・父の八回忌、親族が集まっての宴席の後、酔いを覚ましに庭に出た時、遠縁の男たちが話している会話が、偶然聞こえてきた。
『どうせ、永くないのだから、妹に金を使うのは無駄じゃないか。そのぶん、こちらに回して欲しいものだ』
酒が入ってのこと。
その場限りで収められたが、涼景ははっきりと拳の感触を覚えている。
どれだけ、戦場で敵を手にかけても、そこには感情などなかった。
戦いは責務であり、人を殺めることへの罪悪感は、何千人殺そうとも消えるものではない。
だが、あの時、親族を殴ったのは、明らかに自分の感情だった。悔しさと、悲しさ、憎しみか恨みか、やり場のない怒り。
相手が一撃で気を失った上、周囲も止めに入ってくれたが、そうではなければ、本当に殺していたかもしれない。あの時ほど、自分で自分が恐ろしいと思ったことはない。
親族のほとんどが燕春に同情的だ。
しかし、人の数ほど考え方は違う。正誤を決めつけるほど涼景も世間知らずではない。それでも、自分なりの正義は持っている。完全に相反したとき、やはり、感情に流されるのは、人間として避けられないことなのかもしれない。
「春……」
無意識に、涼景は呟いた。
その名を、人前で口にすることはない。
名を呼んだだけで、心を見抜かれてしまいそうで、涼景は常に何かに怯えていた。
また、取り止めのない記憶がよぎる。
『なぁ、一人でする、って、普通なのか?』
あれは、犀星が二十歳になる前、二人で酒を飲んでいた時だった。突然の問いかけに、涼景は一瞬、何のことかわからなかった。
『東雨が言うんだ。自分ともしない、一人でもしない、大丈夫なのか、って』
思わず酒を吹き出しかけたのを覚えている。
犀星は帝の血を引いている。
不用意に落胤を残さないよう、女と交わることは禁じられていた。そのため、性処理については男性相手か、自分で始末するしかない。そのために東雨も性技を仕込まれていた。
あの時は、さすがに参ったな。
涼景は記憶をたどり、苦笑いした。
実のところ、涼景とて人並みに処理する程度のことは自然とあった。
だが、その度に深い自己嫌悪に苛まれた。
思わず、口から出るのは、妹の名。目を閉じて想像するのは、その体。あられも無い姿で自分にすがる燕春を想像して、涼景は達した。自らが汚した手を見たとき、彼は泣くより他に、何もできなかった。
この手で、再び妹に触れることなどできない。
潔癖なまでに、涼景は数日、自分を責め続け、激しい後悔で狂いかけた。
涼景のそばにいた犀星と蓮章が、彼の様子がおかしいことに気づいた。二人に問い詰められ、涼景は観念して妹への想いを明かしたのだ。あの時の光景を、今でもはっきりと覚えている。
犀星は清めるように、そっと手を握ってくれた。
蓮章は背後から暖かく、抱きしめてくれた。
胸のつかえが消え、呼吸が楽になり、ようやくまとわりついていた霧が晴れた。
妹を思ったのは、あの時、一度きりだ。それに懲りて、たまらなくなる時は花街に逃げる。
もう二度と、考えたくない。
そういう意味では、燕春を想像する余裕もない宝順との閨は、涼景にとってはまだ気が楽なのかもしれない。
犀星も蓮章も、あれ以来、燕春のことを口に出すことはなかった。今までと変わらずに、自分を信じ、支え、苦楽を共にしてくれている。
犀星の母は、犀遠との仲を引き裂かれ、先帝に手篭めにされて犀星を身ごもった。犀星は、女であることを望まれていながら、男として生まれてきた。そして、自分が生まれることで、母を苦しめ、死に追いやった。
蓮章の出生は、本人も語らないが、複雑な事情があるらしい。ここまで腹を割って話せる仲でありながら、その一点だけは、彼から聞かされたことはない。涼景もまた、無理に問い詰めるつもりもない。
「人の心とは、ままならない」
誰が聞くわけでもない。足を止め、涼景は行手の木の枝を見上げた。その視線がひとところに止まる。
じっと立ったまま、静かに呟いた。
「望む人と結ばれることは、冬山に梅を見つけるより難しい」
彼の視線の先には、薄紅色をした、小さな梅の花がひとつ、誇らしげに開いていた。
病弱ゆえ、外出もままならない燕春は、こんな景色を見ることはない。
それどころか、いつまで、命があるか、それさえわからない。
生まれ変わるなら、梅の木になれ。紅でも白でも構わない。おまえの花を、誰よりも早く、俺が見つけてやる。
熱い涙が、涼景の頬を伝って、残雪の上に落ちた。
燕春がこの世を去ったのは、この年の暮れであった。
だがそれを、涼景が知ることは永遠になかった。
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