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桃源郷(3)

「……星」  玲陽は寝返りをうち、犀星の胸に顔を擦り寄せた。 「寂しいことでも考えていたのか?」  犀星は玲陽を抱き返し、優しく背を叩いた。 「あの……手紙……」 「手紙?」 「蓮章様の」 「ああ、『遺書』か」  こくん、と玲陽は頷いた。 「渡せませんでした……」 「俺にも見せずに焼いたくらいだからな」  犀星の声はわずかに笑いを含んでいた。だが、玲陽の表情は強張って、指はぎゅっと襟を掴んだ。 「星……」  強く犀星を引き寄せながら、玲陽は肩を震わせた。 「あれ、確かに遺書だと思います」 「…………」 「蓮章様の、涼景様に宛てた……遺書……」 「……内容は想像がつく」 「私は、あんな風になりたくない……」 「させるものか」  犀星の心臓が跳ね、咄嗟に玲陽をかき抱いた。 「蓮章に訊かれた。もし、桃源郷に連れて行けるとしたら、誰を伴うか、と」 「私、ではないでしょう?」 「なぜ?」  丁寧に、犀星は玲陽を抱きしめ直した。 「あなたは、昔から、本心を簡単には言わないから……蓮章様には強がって、行かない、とでも答えたんじゃないですか?」 「お見通しか」  犀星は幸せそうに微笑み、玲陽の額や髪をついばんだ。その甘い感触に、玲陽の体から少しずつ緊張が抜けていく。 「陽、おまえなら、何と答える?」 「何だと、思いますか?」  犀星は、夕刻からずっと考えていたことを口にした。 「世界の全ての人」 「当たりです」  玲陽はやっと息ができる、というように笑った。 「そして、あなたと私だけが、この世界に残るんです」 「一緒に行かないのか?」 「それじゃ、二人きりになれないじゃないですか」  犀星は腕を緩めると、玲陽を見た。上目遣いの金色の眼差しが、悪戯めいて犀星を見返した。 「桃源郷なんて、どんな場所かわからない。そんな不確かなところに、あなたを連れて行くことなんてできません」 「……だが、おまえ、他の者たちはみんなそこにやる、と」 「厄介払いです」  玲陽は、犀星の胸に顔を押し付けた。 「私は、優しさで皆を送るんじゃない。邪魔だから、消えてもらうんです」  玲陽のは鎖のように、犀星に絡んだ。その重みは安心にも似ていた。倒錯する想い。  ぞくり、と犀星の全身が総毛立つ。  玲陽はそれを察して、小さく声を立てて笑った。  玲陽の心が、犀星を抱いて闇の底から浮かび上がる。  玲陽の呼吸に合わせ、犀星の心は白んでいく。  互いに幸せで包み、包まれている。  これ以上、幸福な場所など、あるはずがない。  二人の思いは、一つだった。  有事に備え、涼景は都に複数の屋敷を構えていた。犀星が住み着いている東の邸宅のほか、暁演武に近い南、朱雀門に近い北にも、身分に不相応な簡素な屋敷がよう庵されている。その日、どこに宿を決めるかは、時々の仕事の事情だった。  中でも、北の屋敷は犀星の邸宅に近く、緊急時にも動きやすい点から贔屓にしていた。  今夜も、暁番屋でのあれこれを片付け、日の落ちた頃に門を潜った。  くつろげる自室の几案の前で、涼景は胡座をかいて小筆を弄びながら、竹簡の白い筋をぼんやりと見つめていた。  広げた竹簡の隣には、燕家の家紋が小さく染められた布が畳まれていた。 『花景』  竹簡の冒頭に書かれた名の隅は、とうに乾いている。  だが、続く内容は、空白のままである。  涼景の妹、燕春・|字《あざな》を花景。文字通り、涼景の名から一字をとった字は、彼女の兄に対する想いを、なによりも物語っていた。  涼景が妹に最後に会ったのは、玲陽を迎えに歌仙に戻った時だった。  燕家の屋敷には、最初の一晩しか滞在していない。玲陽の治療に追われたことも要因だが、涼景自身が意図的に避けていた、という方が真実に近い。  涼景は何度も、あの夜のわずかなやり取りを思い出していた。  自分に飛びついてきた妹の香り。初めて見た、紅を引いた化粧顔。そして、自分へ向けられた笑みと、声。 『逃げられはしない』  燕春が放った言葉に、涼景は震えていた。  妹に女を見てから、涼景は家に戻ることが恐ろしくなった。  それが、妹の一方的な想いであるならば、家長として堂々と正し、説教でもするところであるが、悲しいかな、自分もまた、情を捨て去ることができずにいる。  不安定な心で燕春に会えば、何が起きるかわからない。  暁将軍として、隣国にもその名と共に脅威と恐れられる涼景が、十六に満たない実の妹に怯えているなど、誰が想像するだろうか。  涼景の胸の内を知っているのは、犀星と、蓮章だけである。  一年ほど前、犀星は玲陽の行方を探すよう、涼景に頼み込んだ。涼景が歌仙に戻りたがらない気配を感じた犀星が、無理を言った、と詫びたことが発端だった。犀星に非がないことを伝える弾みで、思わず、本音が転がり出た。幸い、犀星がこの話題を蒸し返すことはない。  蓮章はもっと簡単だった。  幼馴染の蓮章には、妹を意識し始めた頃から、容易く見抜かれていた。 『最近、誰かに惚れただろう?』  そう、蓮章に問われた時には、涼景は思わず態度で肯定してしまった。それらしい嘘でかわすことも考えた。だが、たとえその場は乗り切っても、蓮章を長く騙し続けることは無理な話だった。蓮章は、涼景のこととなるとやたらと神経質である。何より、涼景は秘密を望まなかった。  白い竹簡は、いつまで経っても白いままだった。  何を書いたら良いのか。  それは、一軍を動かすよりも難題であった。  ふと、涼景は、入り口からの足音に、耳をそばだてた。 「……蓮」 「今日はここだと、聞いてきた。昨日から、相談があるから来いと言っていただろ?」  いつ訪れても、蓮章が家の者に追い返されることはない。あっさりと居室まで通され、夜中であれば、寝室まで平気でやってくる。涼景の家人は、蓮章にはあまりに寛容だった。 「だが、今日は暁隊の巡視だろう?」  涼景は上擦った声で言った。とても職務中とは思えない艶かしさで、蓮章は笑った。 「親王のところに寄ったついでだ。早い方がいいと思ってな」  蓮章の風体を咎めるでもなく、涼景は息を長く吐き、左右異色の瞳を見つめた。どこかで安堵している自分に戸惑いながら、それでも、目が離せなかった。 「どうした、見惚れたか?」  蓮章は、にやりとして、涼景の横に膝をつくと、息がかかるほどに顔を近づけた。 「俺が恋しかったのか?」 「いや、俺はいつか、おまえに寝首をかかれるか、毒を盛られるかするんだろうな、と」 「なんだよ、それ?」  蓮章は鼻で笑った。 「夜這いをかけられる、くらい、色気のあること言ってみろ」 「おまえに色気は求めていない」  もう、十分だ。  諦めたように、涼景は竹簡に目を戻した。  蓮章もつられてそちらを見る。 「……花景?」 「春へ……」 「一文字も書けていないじゃないか?」 「昨日から書いている」 「宛名だけだろ」 「本文が思いつかなくてな……」  蓮章は、情けない涼景の呟きに、目元を引き攣らせた。 「まさか、おまえ、相談ってのは……」 「ああ。何を書いたらいいか、と……」 「帰る」 「おい!」  涼景が、逃すものか、と蓮章の着物の裾を捕まえた。 「一人にしないでくれ」 「はぁ?」 「本当に困っているんだ!」 「知るか」 「頼む!」 「勝手に書けばいいだろ」 「書けないから、おまえを呼んだんだろうが」 「お断りだ」 「蓮!」 「なんで俺が、恋敵への文を手伝わなきゃならないんだよ」 「おまえのそういう、軽い性格が頼りなんだ」 「軽いって……」  蓮章はため息をついた。 「涼、おまえ、いい加減にしろよ」  蓮章に睨まれて、涼景は手を離した。 「いいか?」  蓮章はその場に足を組んで座ると、涼景を真っ直ぐに見た。 「文なんて、もともと、伝えたいことがあって、書くものだろ?」 「それは、そうだが」  蓮章が逃げない、とわかって、涼景は声を落ち着けた。 「だったら、伝えたいことがなければ、書かなきゃいいだけだ」 「そうなんだが……」  涼景の返答は、どうにも、歯切れが悪い。  蓮章は、胃の腑を吐くように息をついた。今までに何度も同じ理由で呼びつけられては、同じやりとりを繰り返していた。  何事も一人で先へ進む涼景だったが、唯一苦手とするものが、燕春への手紙なのだ。 「せめて、月に一度くらいは書いてやらないと、寂しがるから……」  恨み言のように、涼景はつぶやいた。 「はっきり言うがな、涼」  蓮章は涼景の困り果てた顔を、まじまじと見ながら、 「もし、俺だったら、おまえがそんな気持ちで、無理やり書いた文なんか受け取っても、嬉しくないぞ」  蓮章の言いたいことは、涼景にもわかっている。だからこそ、罪悪感を感じ続けてもいる。 「そろそろ、やめていいんじゃないか?」  蓮章は小声で言った。 「別に、嫉妬してる訳じゃないが……いや、否定はしない。ただ、おまえがそんな風に狼狽えているのを見るのは、辛い」 「蓮……」 「涼、どうするかはおまえが決めることだ。だが、俺は…… もう、楽になっていいと思う」  涼景は、じっと手元を見つめて、長く沈黙した。  その横顔が、薄暗い灯籠の灯で照らされるのを、蓮章は上目遣いに見つめていた。  涼景には、燕春に伝えたいことが、山のようにあるのだ。  犀星が、玲陽に向けて毎日手紙を書き続けていたように。  だが、犀星と涼景には、決定的な違いがある。  燕春は、涼景を一人の男として愛している。燕春はその想いを、一度として隠したことはない。  始めは、兄を慕う妹としての言葉だった。涼景も、幼い少女らしい夢だと、浅く考えていた。  しかし、月日が過ぎても、燕春の態度は変わらず、逆にその想いは強くなる一方だった。気づいた時には引き返せない所まで踏み込んでいた。それは、涼景も同じだった。 『最近、誰かに惚れただろう?』  蓮章の言葉が、涼景にそれを突きつけた。  妹の話ばかりする涼景を、蓮章は怪しんだ。  たった一人の身内であり、身体が弱く、自分を頼りにしている妹とはいえ、涼景の肩入れは度を超えていた。蓮章は、幼い頃から涼景をよく知っている。だからこそ、本人さえ意識していなかった危うい感情に、いち早く気づいた。  何かの間違いであって欲しい。  蓮章も、涼景も、そう願ったが、現実は明白であり、残酷だった。  涼景にできた、たった一つのことは、自分の気持ちを決して妹には明かさないことだった。  黙り込んでいた涼景が、辛そうに目を閉じた。  この顔に、蓮章は弱いのだ。 「わかったよ!」  蓮章は観念した。  結局、いつも自分は涼景を甘やかしてしまう。それが良くない、とは思いながらも、蓮章の気質は変わらなかった。  済まなそうに、涼景が蓮章を見た。目が合う。 「ああ! わかったから、そんな顔するんじゃねぇ!」  蓮章はごろり、とその場に寝転んで、頭の後ろで手を組んだ。 「話題、出してやるから、それについて書け」 「助かる……」  涼景は、ほっとしたように息を吐いた。  全く、呆れるお人好しだ。  蓮章は複雑な心を隠して、考えを巡らせた。 「今日、ちょっとした災難があってな」  蓮章は、昼間の出来事を思い返した。 「涼、おまえ、桃源郷って知っているだろ?」 「桃源郷? あの、物語の話か?」 「ああ。本当にあるなら、行きたいか?」 「そうだな…… 話に出てくるような場所ならな」 「ふぅん」 「でも……」  と、涼景は一拍置いて、 「誰かが用意した世界など、つまらない」 「うん?」 「どうせなら、自分で作ってみたいものだな、理想の世界を。その方が、面白い」 「実に、おまえらしい答えだよ」  蓮章は、口元に笑みをたたえて、 「それ、書けよ」  涼景は首を傾げた。蓮章は優しく笑った。 「おまえは、この世界を変えるんだ。自分の理想を書けばいい。どんな世界を作りたいのか、できるだけ詳しく、だ。そうすれば、文のひとつくらいにはなるだろう?」 「……そう、だな」  涼景は少し考えてから、大きく頷いた。 「そうする。ありがとうな、蓮」  涼景は、あてができたのか、迷わず筆を走らせ始めた。  その姿を、蓮章はどこか寂しげに眺めた。 若有夢華境 寧甘閉目遊 開眸成真界 願君共此看 |若《も》し夢のごとき華の境有らば、 |寧《いずく》んぞ目を閉じて遊ぶを|甘《よし》とせん。 |眸《ひとみ》を開きて|真《まこと》の|界《せかい》を成し、 願わくは君と|此《こ》の|景《けい》を共に|看《み》ん。 (仙水)  結局、おまえの目には、俺は映らないんだよな。  蓮章は、横向きに体勢を変えると、目を閉じた。  涼景には、燕春や、この世界の未来は見えても、隣りにいる自分は見えていない。  ここにいることが当たり前すぎて、意識すらされない。  それは、並んで歩くと決めた時から、蓮章も覚悟していたことのはずだった。  それでも、やはり、辛い。  この想いは、届かない。  桃源郷があったなら、行きたいか?  蓮章は、自分自身に、その問を投げかけてみた。  そして、一蹴した。  そんな世界は、どこにもない。  夢幻。  まるで、自分の恋心のように、想うだけ虚しい、幻にすぎなく思われた。 「桃源郷」完

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