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桃源郷(2)
「あなたが輿入れするのは、難儀ですよ」
玲凛は、きょとん、とした丸い目で玲陽の顔を間近に見つめた。そして、唇を緩めた。
「私もそう思います」
決して、玲陽を拒んでいる訳ではない。むしろ、逆の気持ちの方が、ありありと表情に表れている。
「兄様のような素敵な人を知っていますから、それ以上の人を探すのは、至難の業です」
玲陽は素直に照れた笑顔を見せた。嬉しそうにそれを見つめてから、玲凛は、そっと視線を庭に移した。
「子供の頃、春ちゃんとよく、話をしたんです」
「春どのと?」
「はい。大人になったら、春ちゃんは涼景様、私は陽兄様のお嫁さんになるんだ、って」
「そんなことを……」
意外そうに、玲陽は驚いたが、どこか嬉しげである。
「でも、本当は、少し寂しかった」
「え……なぜ?」
「だって、わかっていましたから。兄様が、星兄様を好きだってこと」
「!」
「星兄様も、知ってたと思います。だって、陽兄様は、気持ちを隠すのが下手ですから」
急に頬が熱くなるのを感じて、玲陽は手で顔を覆った。それを見て、玲凛が笑う。
「ほら、すぐに顔に出る」
恨めしげに、玲凛を見た玲陽は、観念して首を振った。
寸心滿君意
星月為輕遮
情深終不匿
藏芳香自嗟
|寸《すん》心は 君の|意《おも》いに満ち、
星と月とをもって |軽《かろ》くこれを|遮《さえぎ》る。
情深くして ついに|匿《かく》さず、
|芳《かおり》を|蔵《かく》せど 香り自《おの》ずから|嗟《なげ》ず。
(光理)
「でも……ね。私は、それでよかったって思うんです」
「…………」
「もし、星兄様がいなかったら、辛かっただろうなって」
玲凛は、不意に憂鬱そうな表情を浮かべた。
「春ちゃんね……本気なんです……だから……なんだか、怖い」
「凛どの」
「私は……兄妹の間に生まれました。でも、父上はああいう人だったから、葛藤なんてなかった。だけど、春ちゃんと、涼景様は違う。罪悪感や背徳感……二人が苦しむのは、いやです……」
玲陽はそっと、玲凛の肩を抱き寄せた。
女としての自分を忘れるように生きている彼女の胸中には、禁忌への恐怖があるのかもしれない。
優しく撫でながら、玲陽はそっと目を閉じた。
「何があろうと、あなたは私の大切な妹です。私は兄として、あなたを守ります」
兄と妹の間に生まれる情は、時に複雑に歪むことがある。特に、互いに強く依存して育てば尚更だった。
玲陽は玲凛を愛し、玲凛もまた、玲陽を愛している。
だが、それは男女の情愛ではない。
その別だけは、玲陽にも、玲凛にもわかっていた。それを悲しいとは思わない。
いつか、玲凛が幸せに生きる道を見つけ、笑顔で手を振って、自分も見送ることができたなら、何も思い残すことはない。
玲陽の玲凛への思いは、熱く、深く、甘い。
自分は犀星と共にいられることで、最上の喜びを手に入れた。
玲凛にも、同じ輝きを見せてやりたい。
夕闇の濃くなる中、二人は身を寄せてひととき、静かな時間を過ごしていた。
その影絵こそがまるで、桃源郷の光景であるかのようだった。
「経緯はわかった……」
犀星は、玲陽の手料理を幸せそうに、一口一口、運びながら、
「つまり、この後、蓮章が訪ねてくる、と?」
「遺書を持って」
玲凛は、さらりと言って退けた。
玲陽が苦笑いをし、東雨は大袈裟にため息をつく。
この家では、基本的に全員が揃って食事をする。
本来なら、家長である犀星が済ませたあと、他の三人の番となる上、玲凛の立場ならば厨房脇の小部屋で一人で済ませるのが普通だ。
だが、犀星はそれを好まない。
身分も慣例もことごとく通用しない。
東雨は備蓄していた食材を思い出しながら、
「何か用意しておいた方がいいかな……あ、でも、蓮章様ってお酒はあまり意味がないのか……」
「そんなの、いらないわよ。客じゃないんだから」
玲凛は、そっけなく答えた。
「兄様のお顔を立てて、あの場は収めたけど、私、怒ってるんだから」
「うーん……」
東雨がどうにも、腑に落ちないという顔で、
「蓮章様はああいう性格だから、陽様をからかうのはわかるけど……陽様が誰かを殴るなんて、やっぱり想像つかないなぁ」
「だってあいつ、兄様に失礼なこと、言ったんだから!」
玲凛が怒りを思い出したのか、眉を吊り上げる。
それでも、東雨には、普段から穏やかな玲陽が、誰かに手をあげるという状況が信じられないらしい。
黙って聞いてた犀星が、思わず、忍笑いを漏らした。
「若様?」
「いや……」
犀星は漬けた大根を齧った。
「陽はよく手が出る。昔からだ」
「冗談でしょう?」
「俺も何度も殴られた」
玲陽は飲み込みかけた粥に咳き込んだ。
「そんなこと、ばらさないでください」
「事実だ。元気になった証拠だ。安心する」
犀星に他意はないのだが、玲陽は押し黙ってしまった。
「大体、どうしてそんなに急いでいたんですか?」
東雨は、直接、玲陽に向かって尋ねた。玲凛も首を傾げた。
「確かに、随分、慌ててましたよね? 買い物もやめて帰る、って……」
「り、凛どのは知らなくていいことです!」
思わず声を高めた玲陽の顔は、隠しようもなく赤らんでいる。
まさか、媚薬を売っていた、などと、妹に言えるほどの神経を、玲陽は持ち合わせていない。第一、玲凛が薬を知らなかったとしたら、どう説明すれば良いのだろう。
「凛」
犀星は、玲陽の慌てぶりから察して声をかけた。
「陽は、おまえを守ったんだ。凛は大切にされている、ということだ」
「……星兄様が、そうおっしゃるなら」
玲凛は頷いた。
「私はまだ、世間知らずってことですよね。もっともっと、勉強しなくちゃ!」
「いや、だから……」
三人の男の声が、期せずして重なった。
勉強されたら困るんだ……いろいろ。
悪質な話に騙されないよう知識は伝えねばならないが、揃いも揃って、女の扱いには慣れていない。その上、玲凛は床入り前の生娘である。枕絵一枚、見たことのない箱入り娘だ。玲陽があの砦でどのような扱いを受けていたかは知っているはずであるから、知識が皆無ということはない。だが、それを本人に確かめる勇気はない。こういう時、むしろ蓮章こそが適任とさえ思われた。
三人が肩を落とし、気持ちが重くなっているところへ、玲凛の溌剌とした声が飛んできた。
「気をつけますね。騙されて、媚薬でも掴まされたら、たまったもんじゃないから」
自分の空いた食器をさっさと片付け、厨房に去っていく彼女の後ろ姿を、彼らは揃って呆気に取られた顔で見送った。
東雨が顔の片側を引きつらせて、
「凛のやつ、気づいてたのかな?」
玲陽は真顔のまま、首を横に振った。
「偶然だと思いたいです……」
「面倒……」
東雨は頭を抱えた。
その時、玄関先で蓮章の声が聞こえた。東雨は急いで部屋を出た。
犀星は玲陽に目配せした。
犀星は蓮章を守りに玄関へ、玲陽は玲凛を引き止めるために厨房へ。
今、二人を会わせるわけにはいかない。
玲凛の性格は、犀星も玲陽もよく理解している。何かと巻き込まれる蓮章が不憫に思えるほどである。
「悪いな、この時分に」
犀星を見つけて、蓮章は唇の端で笑った。出迎えていた東雨は、いつも以上に妖艶な着物すがたの蓮章を前に、目のやり場に苦慮していた。
淡雪の薄衣に、濃灰の中衣が透け、帯は若葉に柿色を重ねた細い紐で編まれていた。長く垂らした紐には、亜麻色の扇子が挟まれ、裳は二重に重ねた白と紺で、はだけさせた脇からはすらりとした素肌が覗いていた。珍しく、犀星がつぶやいた。
「相変わらず、武人とは思えないな」
「麻をまとった親王に言われてもなぁ」
「お二人とも、似たようなものです」
東雨はあっさりと二人を否定した。
「蓮章様、凛から聞きました。陽様に失礼なこと、したそうですね」
思わず大声を出しそうになる東雨の口元を、犀星がそっと袖で押さえた。
「静かに。気づかれたら厄介だ」
「何だ、あいつはまだ、怒っているのか?」
蓮章はやれやれと、
「意外と根に持つな……」
「陽様に関することですからね。殺されますよ」
東雨は冗談とも思えない調子で言った。
「むしろ、若様が見逃してくれているのが不思議なくらいです」
「先ほど、俺のところに面倒な仕事が回されてきた」
東雨はすかさず犀星を振り返り、犀星は天井を見上げた。
「東雨、おまえの主人はしたたかだぞ」
「それくらいで済めば、可愛い方です」
東雨は、じっとりと目を細めた。
「とにかく、今、凛には近づかない方がいいですよ。俺が言うのもなんですけど、蓮章様じゃ勝ち目、ないですから」
「わかってる。あの程度で大騒ぎする子どもに興味はないし」
「だったら陽様にも関わらないでください」
東雨は、厨房の気配を気にしながら、
「とにかく、今回のことは、陽様をからかった蓮章様が悪いです」
犀星は首を振って、
「短気を起こした陽も反省している。すまないが今日のところは、痛み分けということで」
「わかっている。俺も何かと忙しい」
蓮章の笑みはじっとりと心に触れてくる。東雨は傷跡に強い痛みを感じた。
「また、花街ですか?」
東雨が辟易して言った
「ま、逢瀬には違いはない」
蓮章は、笹の包みと布でくるんだ木簡を東雨に差し出した。
「今日の詫びに、茉莉花茶の稀少な葉を手に入れてきた。陽が好きだっただろ? それから、こちらは俺の遺書だ。凛に渡してくれ」
東雨は驚いて木簡の包みを見た。
「本当に書いたんですか?」
「まぁ、中身は恋文だがな」
「はぁ?」
東雨がまた、声を上げそうになる。
「蓮章様、悪戯も大概にしないと、本当に命を縮めますよ」
「まずは陽に読んでもらってくれ。凛に見せて、俺の命に響く問題があれば焼き捨てて構わん」
東雨は包みと手紙を受け取り、がっくりと肩を落とした。
「じゃぁな」
背を向けた蓮章を、犀星は門まで送った。
「すまなかった」
見送りがてら、犀星が言った。
「おまえにはとんだ災難だっただろう?」
「親王が気にすることはない。色々あった方が、人生は面白いんでね」
ふっと蓮章は真面目になった。
「もし、本当に桃源郷のような世界があるとしたら、誰を連れていく?」
唐突な問いに、犀星は少し考えてから、
「俺は行かない」
「どうして?」
「そんな世界より、きっと、この世界の方が美しいから」
「こんな世界が?」
「だからこそ、咲く花は、美しい」
荒原花獨開
怒濤礁上栽
不比庭中艶
清華自高臺
|荒原《こうげん》に 花ひとり開き、
|怒濤《どとう》の|礁《いそ》に|上《のぼ》りて|栽《う》う。
|庭中《ていちゅう》の|艶《えん》に比《くら》べず、
|清華《せいか》 |自《おの》ずから|高臺《こうだい》にあり。
(伯華)
呆れた、と蓮章は首を振った。
「それ、陽のことか?」
「…………」
「親王がそんな風に笑うのは、あいつのことを考えている時だけだからな」
自分は無意識に笑っていただろうか?
犀星は表情を固めた。
「そういうおまえこそ、涼景に会いに行くんだろう?」
仕返しのように犀星は言い返した。
「隠す気もないんだが」
ふざけて笑う蓮章に、一瞬、悲しげな雰囲気が見えた。
「蓮章……おまえ」
「心配するな。そういうもんなんだよ、俺たちは」
犀星は口を閉じて、低く唸った。
舐めるような蓮章の視線が犀星を辿る。
「俺が言えた義理じゃないが……」
蓮章は、ふい、と目をそらした。
「甘えすぎるな。取り返しがつかなくなる」
「おまえ……」
「おっと、約束に遅れる。待たせたくないからな」
軽やかに馬の鞍に上がると、いつもの不敵な笑みを残して、蓮章は颯爽と駆けていった。
犀星はしばらく、その後ろ姿を見つめてから、空を見上げた。夕焼けの鮮やかな色と、東の空の一番星が、騒々しかった一日の終わりを告げていた。
「桃源郷、か……」
ふと、蓮章に言われたことを思い出す。
連れて行けるものなら、俺はあいつと二人がいい……
蓮章には強がったものの、犀星はふっと息を吐いた。
あいつなら、なんと答えるだろう。
俺を、選んでくれるだろうか……
それとも、優しいあいつのことだ。この世の全員を連れていくと言うだろうか。
犀星はどこか切ない思いに駆られて、足早に屋敷へと戻った。
夜半。
どうしても眠りが浅く、玲陽は寝返りを繰り返した。
広く幅をとってあつらえている寝台とはいえ、隣で何度も動かれては、犀星も目が覚める。
「陽?」
目を閉じたまま、完全に隙だらけで、犀星は囁いた。
「すみません……」
玲陽が上ずった声で答える。いつもとは違う響きに、犀星は目を開くと、黙って枕元の油灯に火を入れた。
ぼんやりと牀の周りが明るくなる。
「傷が痛むか? 今日は色々あったから、気持ちも疲れただろう?」
こちらに背を向けたまま、玲陽は体を縮めて全身で呼吸しているように見える。
犀星は、そっと玲陽の肩に手をかけた。
一瞬、潤んだ玲陽の目が見えたが、すぐに顔を背けられてしまった。
「何でも、ありません……」
玲陽の息遣いから、痛みや苦しみではないことを察して、犀星は少し、落ち着きを取り戻した。
「陽が一人で抱えて、悩むことなんて何もない。遠慮されると悲しくなる」
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