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桃源郷(1)
明るい時間は刀に槍、弓に馬術に体術の鍛錬。日が落ちれば月明かりで書を読むが、内容は布陣や計略、哲学や歴史、政治に君子論の類。合間合間に成人男子二人分の飯を平らげ、散歩と称して暁隊を茶化して歩く。
服飾、芸事に関心はなく、菓子より肉を好み、口を開けば美男子の噂より剣術流派の技術の論議。
これが、十六になる娘の暮らしぶりとは思われないが、事実、玲凛の日常だった。
艶やかな娘の多い都の中でも、玲凛の美しさは評判を呼んだ。
親王のいとこ、悌君の妹。歌仙旧家・玲家の息女。そして、暁将軍・涼景も認める勇の者。市場を歩けば、すれ違う男たちが思わず目で追うほどに美しい。男ばかりか、その凛々しい姿と物怖じしない筋のとおった性格に、女からの羨望も厚かった。玲凛見たさに、歌仙親王の屋敷を覗く者も多い。
本人の意思とは無関係に、玲凛の存在は若い男たちの悩みの種になっていた。年頃の興味盛んな若者からすれば、少女はあまりに口惜しく歯痒い相手だった。
声をかけようにも隙がない。血筋の良さ、後ろ盾の強さは難攻不落である。
玲凛に堂々と近づける唯一の手段は、腕試し、だった。
刀でも弓でも槍でも良い。それまで武術に触れたことのない者までが、邪な理由で武器を手にし、屋敷を訪れた。当然、玲凛の相手になるはずもなく、たちどころに叩きのめされる。それでも、男たちはどこか満足そうに笑って帰っていった。
あまりに滑稽なその情景を、屋敷警備の暁隊は笑いながら眺めていた。玲凛の実力とその性格を、誰よりもわかっているのは彼らだった。
武神のごとき玲凛である。
その彼女に、浮いた話が出ない裏には、もう一つ、無視できない理由があった。
玲陽という、厳しい小舅の存在である。
心配性の玲陽が妹の独り歩きを喜ぶはずもなく、暇ができると兄妹そろって市場に出た。
「陽兄様、もう、道は覚えましたから、私一人で十分です」
玲凛が都へ来て一ヶ月、彼女の言葉に嘘はない。飲み込みの速さ、記憶力の良さは周囲が舌を巻く。
だが、玲陽はこれだけは譲らなかった。
「凛どの」
玲陽は、寂しそうに妹を見て、
「私はもっと、あなたと一緒にいたいのです。歌仙では、それも叶いませんでした。せめて、あなたが伴侶を迎えるまでは、兄として、共に過ごす時間をください」
「そんなの、口実じゃありませんか」
玲陽の純情を、玲凛はバッサリと切り捨てた。
「私が喧嘩っ早くて揉め事を起こすとでも、思っているんでしょう? 信用してないってことですよね?」
玲陽は、やれやれ、と首を振った。確かに、それも理由のうちに入ってはいたが、ごく些細な割合である。たとえ、玲凛の気性が災いして諍いになったとしても、この妹が誰かに負けるとは思えなかった。
玲陽が玲凛を一人にしたくないのは、もっと単純な思いからだ。
世の中の通例、よくある偏り。単純に、可愛い妹が他の男の目に触れるのが嫌なのだ。
玲凛は、幼い頃は人見知りが激しく、玲家でも居場所を失っていた。いつも玲陽の後ろについて、人とすれ違う時には決まって背中に隠れたものだった。
時を経て、その剣術の腕は天井を知らず、度胸も気性も頼もしく成長したことは、玲陽も認めている。そうであっても、あの頃の記憶が玲陽をどこまでも過保護にさせた。
妹に言い寄る男は、自分が見定める。
玲陽の本心を、玲凛は知らない。もっとも、玲陽自身、自分の嫉妬に気づいたのはごく最近のことだった。
先日、玲凛が庭で弓の手入れをしていたとき、裏口からこっそりとそれを覗く男を、玲陽は回廊の曲がり角で偶然、見つけてしまった。
勘のいい玲凛がすぐに脅して追い出したが、玲陽はその時の青年の眼差しに覚えがあった。
好意を寄せる瞳。
妹に興味を持つ存在は、玲陽にとって面白いはずがなかった。
「凛どのは、私の大切な妹です」
玲陽には珍しく、少々ぶっきらぼうに、
「一人にして、もし、何か良くない者でも近づいてきたら……」
「もしかして、嫉妬ですか?」
玲陽の声がぷつりと切れた。色をなくした玲陽の顔を、玲凛は仰ぎ見た。思わず、玲陽は顔を背けた。
毅然と振る舞ってきたつもりだったが、結局のところ、玲凛が可愛くてたまらないのだ。犀星や東雨に対する思いとは別に、玲凛は特別だ。兄として、と言う口実をどれだけ使っても、許されるうちはそばにいたい。
「私はあくまでも兄として、ですね……」
「あれ、何でしょうか?」
言い訳をしようと口を開いた玲陽を遮って、玲凛は行手を指差した。木板の看板が、多くの客に囲まれてちらりと見えた。
「旅商人の屋台ですね。暖かくなってきたので、そういう人たちの出入りも増えると聞きました」
玲凛は人の間から、改めて看板を見た。
「『桃花源記』?」
「物語の題名ですね」
玲陽は、少し前に秘府で見つけた竹簡を思い出した。人気のある物語、と聞いて試しに目を通してみたのだが、玲陽の好みとは少々ずれていたのを覚えている。
「書を売っているにしては、随分、人が多いですね。芝居小屋……でもないようですけど……」
玲凛が首を傾げた。
武術と食べ物以外に、玲凛が興味を持つなど珍しい。
好奇心旺盛なのは結構だが、玲陽は素直に喜べなかった。くだんの物語は、色欲を扱った淫書の類である。とてもではないが、玲凛にふさわしいとは思われなかった。
「兄様、行ってみましょうか?」
「あっ……」
素早く駆け出した玲凛の手を、反射的に玲陽は掴み止めた。
「兄様?」
「あっ……」
振り返った玲凛から目をそらしつつ、玲陽は手だけは離さなかった。
「あの……やめた、方が……」
「どうしてですか?」
玲陽は動揺した。
「ひ、人が多いですから、はぐれたら困りますし……」
「子どもじゃありませんってば。それに、心配なら、手をつないでいてください」
玲陽は一瞬無表情になり、それから丁寧に玲凛の手を握りなおした。ほとんど、無意識だった。
「では、行きましょう」
玲凛の勢いに引きずられて、玲陽はもつれた足で駆け出した。
どうしても厳しくなりきれない。可愛い妹は、やはり、可愛い。
絶対に、ロクでもない男になど、触らせてなるものか。
普段は犀星のことしか頭にない玲陽も、こういう場面では玲凛のことでいっぱいだった。
玲陽は周囲に警戒しながら、ぐっと玲凛の手を強く握った。
嫌がるか、と思ったが、逆に指を絡めるように握り直してくる玲凛に、玲陽の方が驚かされる。
凛どのは、どこまで私の気持ちを見抜いているのか。
おそらく、ほぼ全てだろう。
そう考えると、玲陽は頬が、紅潮してくる気がした。
店先の人だかりを覗き込むと、看板の裏に卓を置き、何やら小さな包みを売っている男が目に入った。
「お薬、ですね? 兄様の傷に効くといいのですが……」
玲陽の痛々しい体を気遣って、玲凛はじっと店主の話に耳を傾けている。
始めは注意深く聞き入っていた玲陽だったが、その薬の正体に気づいた瞬間、血の気が引いた。
媚薬だ。
つまりは、この薬を使えば、性感が高まり、理性も薄れ、桃源郷にいるかのごとき快楽悦楽に溺れてゆく、しかも、男女問わずに効果があり、まぐわえば三日は夢心地……
下賎な言葉を選んでの口上だったため、玲凛は理解していないらしい。それでも、おおよそのことは察しがついたのか、玲凛は急に大声で、
「兄様、桃源郷へ行けるお薬、って……」
周囲が振り向き、くすくすと笑うのが聞こえた。中には当然、玲陽と玲凛を見知っている者もいる。
気恥ずかしさに真っ赤になった顔を伏せたまま、玲陽は玲凛を人だかりから引っ張り出すと、逃げるように屋敷への道を急いだ。
「ちょ、ちょっと、買い物、まだですよ!」
「食事は有りもので済ませます!」
「急に、どうしたんです、兄様?」
顔を上げることも、振り返ることもなく、黙って玲陽に引きずられながら、玲凛は混乱していた。
「あ、危ない!」
玲凛の声と、玲陽が前からきた人物にぶつかるのは同時だった。
「す、すみません」
玲陽はようやく立ち止まって顔を上げた。
そして、激しく後悔した。
自分を見下ろしていたのは、よりによって遜蓮章である。暁隊の仕事中らしく、後ろには二人の隊士が笑って立っていた。
知り合いに、赤らめた顔を見られるのは、何より嫌だった。
「どうした? 色々、珍しいな」
蓮章はいつもの調子でニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべた。
「いい年した兄妹が手を繋いで急ぎ足、しかも兄の方は顔を赤らめて気まずそうだ。まさか、人目を避けてこのまま連れ込み宿にでも……!」
ぱん! と乾いた音がして、玲陽は空いていた手で蓮章の頬を引っ叩いた。
叩かれた蓮章も、目撃した玲凛も隊士も驚いたが、玲陽本人が誰よりもうろたえ、どうしたら良いかと声も出ない。
「全く……」
蓮章は困惑に泣きそうな玲陽を見て、逆に声を上げて笑った。
「どれだけ手が早いんだ、おまえは」
「あ……あの………も、申し訳ありません!」
玲陽は耳まで赤くして、どこを見て良いかもわからず、仕方なく、下を向いた。
思わず手が出るこの性格は、玲陽自身も反省しつつ、直る気配がない。蓮章はすでに気にもせず、呆れて肩をすくめただけである。
「引っ叩かれるのは慣れてるが、まさか、白昼堂々往来で、とは光栄だ」
「あの……本当にごめんなさい。お詫びを……」
どうしたものか、困り果てていた玲陽のあご先に、すらりとした蓮章の指が絡んだ。下を向いたままの玲陽を上向かせると、蓮章はためらいなく唇の横に、際どく口付けた。
「ちょっと!」
黙って成り行きを見守っていた玲凛が、二人の間に強引に割って入る。
「兄様になんてことするのよ!」
蓮章はため息をついた。
「なんてこと、って……殴られたのは俺なんだが……」
「あんたが失礼なこと、言うからでしょ! 謝りなさいよ!」
「り……凛どの……」
目を釣り上げて本気で怒る玲凛を、蓮章は呆けたように見つめ返した。
「兄様はね! 私の大事な大事な兄様なの! それに、星兄様の大切な人なの! あんたなんかが触っていい相手じゃないのよ!」
「お、おい、凛、そんなムキにならなくても……」
「謝れ! 今、ここで!」
「凛どの、蓮章様はそんな悪気があってしたわけでは……」
玲凛の剣幕に驚いたのは、蓮章よりも、むしろ玲陽の方である。行き交うの者たちも、彼らのやりとりを面白がって足を止め、人山ができ始めている。
「凛どの……こんな道の真ん中で、これ以上、蓮章さまに恥をかかせてはいけ……」
「兄様は黙っていて下さい!」
「で、ですが……」
「いや、全く、凛の言う通りだな」
怒るか、と思った蓮章が、困ったように頭をかいた。
「悪かった。今夜、詫びを持って改めて訪ねるから、ここは納めてくれ」
「星兄様にも、東雨にも、全部話しますからね! 遺書を書いておく事です!」
「俺、そこまで悪いことしたのか?」
助けを求めるような蓮章の目に、玲陽の方もどうしようもない、とすまなそうに首を振った。
「さぁ、行きますよ、兄様! やっぱり、兄様を一人で都を歩かせるのは駄目です。悪い虫がつきます!」
それは、こちらの台詞だったのだけれど……
あきれれつつ見送る蓮章を、玲陽は何度も振り返りながら、今度は玲凛に引っ張られて屋敷へと戻った。
備蓄していた食材でありあわせの夕餉の支度をし、玲陽は庭に面した部屋の回廊から晩春の景色を眺め、頬杖をついて夕刻を過ごしていた。
犀星と東雨が五亨庵から戻るのも、間も無くだろう。
「あの……」
と、気配がして、先ほど、蓮章を怒鳴りつけた勢いはどこへやら、玲凛がうつむき加減にこちらを見ていた。
手招きして、隣に座らせると、玲陽はまた、庭の草花に目を転じた。
「怒っています……よね?」
「何がです?」
玲陽の声色からは、感情が読み取れない。こういう時の玲陽は、本当に何を考えているか玲凛にすらわからなかった。
「その……蓮章様に失礼なことを言いました」
玲陽はぴくりとも動かない。
「私、本当に頭にきちゃって…… いつも、喧嘩っ早いから気をつけなさい、って言われているのに……よりによって、人前で恥をかかせるようなことを……」
「蓮章様を殴ったのは私ですよ」
そう言った玲陽の声はまだ、感情を欠いている。
「それはそうですけど……私が出る幕ではなかったと……いうか……言いすぎた……というか……」
玲凛も、自分の言動が良くなかったことはわかっているのだが、腑に落ちないらしい。
「正直、悪いことをした、とは思ってないです。市場だろうと暁演武だろうとどこだろうと、私、同じことをしたと思いますし、蓮章様だって軽率にあんなことするから……」
「…………」
「偉い人なのかもしれませんけど、身分がどうあれ、許せないものは許せないし、見過ごせなくて……」
玲陽は長く息を吐き出した。
「凛どの」
「はい!」
「あなたは言ってくれましたね。私のことを……大切な兄だと。星の大切な人だと。……触れるな、と」
「……はい」
「私はね」
「…………」
「同じ気持ちだったんですよ」
「……え?」
「あなたを、誰の目にも触れさせたくなかった。あなたにつく『悪い虫』から守りたかった」
「陽兄様?」
玲陽は、玲凛の耳元に口を寄せた。
「私はどうやら、厄介で面倒で、物分かりの悪い兄のようです」
「え?」
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