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春爛漫(5)

 自分にこれほどの理解を示し、共感と言う名のぬくもりをくれること、自分が殺そうとした相手が、このように深い思いで自分の心を解きほぐしてくれるということに、易永は信じがたい思いと、同時に味わったことのない不可思議な安堵感を感じた。  この二人ともっと早く出会っていたのなら、自分はまた違う道を探すことができたかもしれない。  犀星は、揺れる易永の心と、何かを求める期待を敏感に感じ取った。声を抑え、ささやくように、犀星は言った。 「これからどうしたい? 都を出て、すべてと縁を切って、どこか行くあてがあるのか?」  易永は目元を歪めた。傷の痛みのせいではなかった。ただ、かれが望む未来の困難さが、残酷なまでに想像された。  叶わない。それは何より、易永自身がわかっていることだった。  そして、それを受け入れるしかない覚悟もまた、すでに決まっていた。  それでも、自分を想ってくれた二人に、真実を話す気には到底なれなかった。  易永は声を震わせた。 「一目、見たい場所がある。私の母が生まれ育った町。都から東へ五十里......」 「易永様」  玲陽が、静かに、しかし、強い気配で遮った。 「私に、嘘は通じません」  あからさまに動揺して、易永は玲陽を見つめた。金色の瞳は、決して自分を責めてはいなかったが、偽りで乗り切れる局面ではないことを、彼に覚悟させた。  玲陽が見ている世界は、易永の知覚する世界とはあまりに違う。 「易永様、あなたの背負うものは、普通ではない。私にだって、それくらいはわかるんです」  玲陽は責めるでもなく、戸惑う易永の背中を押した。 「話を聞いても、私たちには何もできないかもしれない。けれど、話してくれるなら、こちらも最善を尽くす覚悟があります  犀星が静かにうなずく。  易永は交互にふたりを見た。  その姿は、凡人の域を逸している。  美貌だけの飾り物ではない。このふたりからは、人間を超越した神聖さがあった。まるで、生き物ですらないかのような、卓越した存在。  命のやりとりをしてきた易永には、それが余計に如実に感じられるのだ。  彼は、観念した。 「俺は……疲れた。命じられるままに殺めた。相手など構わなかった」  易永は一度、声を飲み、それから一息に、 「慕った人を殺せと言われた時も逆らうことができなかった。その人を手にかけ、その人は私を恐怖の目で見つめたままこの世を去った」  易永の見えないところで、犀星と玲陽の指が強く絡んだ。 「その人は……俺の本心を知ることもなく、いや、誰に殺されたすら、知ることなく」  犀星がちらりと玲陽を盗み見る。思った通り、玲陽は易永を見ているようで、見てはいなかった。玲陽の目は、易永の後ろの壁に注がれている。  犀星はその視線を目で追った。  黒い靄が、明らかに易永の傷口に揺らめいていた。  嘆きが高まった。 「もうたくさんだ! 繰り返している意味がわからない。今更、愚かだと悟っても遅すぎる。俺が命を奪った者たちには、大切な相手がいた」  玲陽はじっと傀儡を見つめ、犀星はその手を力づけるように握りしめた。  易永だけは、この世の道理の中で、自分の心を精一杯に訴えた。 「何を言っても言い訳で、生きていることも苦しい。でもせめて……せめて、その人の弔いだけはしたい。彼女の墓前に手を合わせたい」  傀儡が蛇となり、易永の首に絡みつく。だが、必死な形相で訴える易永が、その異変に気付くことはない。 「その人は、どこに葬られた?」  犀星は、静かに言った。  易永の背中の布に、血がにじんだ。 「墓はない」  易永は視線を落とした。 「……彼女の遺体を切り刻んで、池に捨てたのは俺だ」  ハッとして、犀星が立ち上がった。同時に、玲陽も体を緊張させる。  易永の言葉に、明らかに傀儡が反応を示した。  二人の目の前で、傀儡が易永の口中に飛び込んだ。  反射的に飛び出した玲陽を、犀星が後ろから抱きとめた。玲陽は一瞬もがき、しかし、その力に逆らわなかった。  傀儡喰らいを、あえて、ふたりは踏みとどまった。  支配された易永には、傀儡の記憶が一瞬で共有される。突然、思考に流れ込む、自らが殺めた人の想い。  動揺する易永を、犀星はまっすぐに見据えた。 「どうする? 今なら、その女だけを消すことができる。おまえは助かる」  易永の血走った目が、犀星を見つめ、玲陽を見つめた。 「このまま、共に行くというのなら、それも叶えることができます」  玲陽は、敢えて感情を抑えて、易永に問いかけた。犀星が最後を通告した。 「選べ。おまえの生き方を。おまえは、自由だ」  易永の顔が、苦しみの表情から、解き放たれるように、清々しく澄んでいく。  まるで、固く閉じていたつぼみが、春の日差しに花弁を開くかのようだった。  その頃、玲陽から厳しい課題を突きつけられた蓮章は、朱雀門のそばにある自分の屋敷の庭先で、憂鬱な心を抱えたまま、ぼんやりと突っ立っていた。  鎧を脱ぎ、着慣れた緩い着物を身にまとったことすら、ほとんど記憶にないほど、心ここに在らず、夢現つで会った。  助けるのならば最後まで責任を持つべきこと。  犀星が玲陽を助けたように。  それは、蓮章にも痛いほどにわかっていた。  しかし、犀星と玲陽は、あらゆる側面で普通ではない。彼らの関係は一般論では語れない。とは言え、人の命がかかっていることに変わりは無い。  蓮章はふわりと裾を揺らして、柱にもたれた。月を見て、日を数える。  あと、二日。  暁隊が都の夜番になれば、蓮章の一存で鑑札を渡し、逃がしてやることは可能だった。当然、それは違法行為に他ならないが、蓮章にとっては法より人の道であった。  しかし、都を出た後の事までは、現実的に、彼にもどうしようもないことなのだ。  うまく逃げ伸びる者がいるのも事実である。だが、それはごくわずかの話だった。易永が必ず助かると言う保証はどこにもなく、そのために自分がしてやれる事は、何もない。  どうしたら、彼を自由にできるのか。  蓮章は蓮章なりに、それを考えていたつもりだった。  普段は浮ついた彼であるが、実のところ、誰よりも思慮深い一面を持っている。だからこそ、涼景の信頼を得て、多少ならざる横暴にも目をつむって任せてもらっている。涼景だけではない。他の部下たちも一目を置く。ただし、その品行についてはまた、別の話である。  蓮章が月の光に照らされて溶けてしまいそうなほど、白く儚く庭にいるのを、ふらりと涼景が見つけて近づいてきた。  物思いにふける時、親友がどこにいるかくらい、今までの経験から涼景には容易に想像がつく。彼との付き合いは甘いものではなく、また、浅いものでもなかった。 「東雨が知らせに来た」  涼景は蓮章の後ろから声をかけた。 「背中が、がら空きだぞ」 「おまえ相手に警戒する必要はないだろ」  蓮章は投げやりな調子で答えた。言葉こそそっけないが、そこには涼景に対する深い信頼と、言わずとも通じる心の距離がある。 「何があった?」  涼景の短い問いに、蓮章はぽつりぽつりと、そして結局、すべてを語った。  蓮章の心の乱れが、涼景にも我がこととして伝わっていく。 「まったく、冷徹なんだか、甘ったるいんだか、おまえは本当に面白い」  にこりともせず、涼景は言った。蓮章は黙り込んだ。  事実、蓮章という男はそういう人物であった。  他者のために動く。そのためならば、ときには大胆なことも平気でやってのける。涼景はそんな蓮章の気概が好きだった。だからこそ、彼とは気が合うのだ。だが、同時に自分を傷つけても厭わないその気性は、涼景を悩ませもした。涼景にとって、蓮章とは、研ぎ澄まされた刃に映った、もう一人の自分だった。 「涼、どうしたらいいと思う?」  蓮章は一言、呟いた。  涼景は蓮章と並んで、殺風景な庭を眺めながら、唇を緩ませた。 「珍しく、簡単なことで悩んでいるんだな」 「馬鹿を言え。簡単ならば悩まない。少なくとも俺にとっては難題だ」 「そうか?」  涼景は、勝手に厨房から持ってきた盃を出すと、ぶら下げていた酒を注いで、蓮章に手渡した。  蓮章は浮かない顔で、 「せっかくの一献がもったいないだろう? 俺は酔えないんだから」 「知っている」  涼景はさっさと自分の杯を空にすると、次の酒を注ぎながら、 「それでも、飲め」  蓮章はそれ以上、口答えすることもなく、おとなしく杯の酒を煽った。  酒も薬も効かない蓮章を、涼景はそれでも変わらずに扱った。交わしたければ盃を差し出し、怪我をすれば薬を塗り、体調を崩せば薬湯を煎じた。  無駄なこと、と思いながら、なぜか蓮章には、そんな涼景が嬉しくもあった。 「簡単なことだと言うなら、お前は、どう答えを出す?」  蓮章は、酒を揺らして、涼景を盗み見た。 「そいつが足抜けしたいと言った理由、聞いたのか?」 「いや……」  蓮章は首を振った 「ただ、あいつは今まで相当なことをさせられてきている……あいつからは拭いきれない血の匂いがする」 「心の限界、か」  涼景は小さく、 「蓮、おまえは、自分の感情に素直すぎる。いらぬ想いを引き受けるな」 「放っておけ、というのか?」 「見くびるな。そんなこと、おまえができないことくらい、わかっている」  蓮章は得も言われぬ複雑な表情を浮かべた。  涼景は満足そうにそれを眺めた。 「蓮、おまえはとっくに、やるべきことはすべてやっているさ」 「……俺は、何も……」  涼景はまるで、酒のせいだ、と言わんばかりに、蓮章の方を抱き寄せた。 「おまえが賢かったのは、易永をあのふたりに預けたことだ。あいつらは、俺たちが何をするより、易永を救う」 「…………」 「二日後、迎えに行く必要は無い」 「どうして?」 「俺を信じろ。迎えには行かなくていい」  蓮章はじっと、涼景を見つめた。いつでも自信に溢れ、何がその身を傷つけようとも、決して屈することのない親友は、自分よりもはるかに強い。  蓮章は、見つめていた酒を一気に干した。 「わかった。もしあいつらが文句を言いに来たら、涼が止めた、と言うぞ」 「構わない」  涼景は、蓮章の杯に半分、酒を満たしながら、 「酔えなくても、味わうことくらいできるだろう。それでいい」  おまえはおまえのままでいい。  言外の意味を解して、蓮章は目を閉じた。  陽、すまない。俺はどこまでも中途半端だ……  勝手な情け心で助けようとした易永を守り切ることができず、その上、弱った心を友人に委ねてしまう。何一つ、自分で満足にやり遂げることはできない。 「蓮」  息を止めるように、涙をこらえている友人を横目で見て、涼景は静かに言った。 「この庭には、春の花がないんだな。今度、俺の庭から持ってきてやる」 血刃染朱殷 一身尽成穢 花散由我罪 君命去天涯 |血刃《けつじん》|朱殷《しゅあん》に染まり |一身《いっしん》尽く|穢《けが》れと成る 花散るは我が罪に由り 君の命 |天涯《てんがい》に去る  春爛漫の朝焼けの朝。  東雨が部屋を訪れたとき、犀星と玲陽は互いに背を持たせかけて、床に座り込んでいた。  犀星は握りしめた玲陽の手を、玲陽は誰もいない牀を、それぞれに見つめたまま。  易永の答えこそ、彼を救う唯一の道だったのか。  闇の中に生まれ落ちた彼が、唯一選ぶことのできたものは、果たして、幸福と呼べたのか。  犀星と玲陽の胸には、同じ、春の嵐が吹き荒れていた。 「春爛漫」完

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