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春爛漫(4)
蓮章は見送りもないまま、屋敷の門を出た。見上げれば、先ほどよりわずかに西に傾いた月。思わず、全身からどっと汗が噴き出した。今になって、身体が震えてくる。
何もかも、玲陽の言う通りだった。だが、自分にはその道を選ぶことしかできない。現実の激しい矛盾と向き合うしかない。
本当に、勘弁してくれ……
吐き気と眩暈を感じて、蓮章は門の柱に沿って、ずるずるとしゃがみ込んだ。
心臓が破れるように脈を打つのに、身体中が冷たい。
罪人ならばすべてを裁く。
それが、昔の蓮章だった。
冷徹になりきれなくなったのは、あの時からだ。
三年前、千義との戦で前線に出た。
初めて、戦場の凄惨さを目の当たりにした時、確かに、蓮章は心が裏返ったのだ。
それは、正義を見失った瞬間でもあった。命を慈しんだ瞬間でもあった。
暁隊と右近衛の権威をまとい、その懐の中で刺し殺す覚悟が決まらない。
呼吸を整え、蓮章はゆっくりと立ち上がった。
と、突然に、痺れた肩に、暖かなものが触れた。
背後に立たれた?
蓮章は振り返りもせずに、自嘲した。
これで、暁将軍の片腕とは、あまりに不甲斐ない。
「蓮章様」
その声に、蓮章の身体がさらに強張った。
「……陽?」
掠れた声で、蓮章は呼び、振り返った。
白い顔で、月の下に玲陽は立っていた。その目は見るべき場所を失ったように揺れていた。
「すみません。先ほどは、言い過ぎました……」
玲陽の声からは、怒りが過ぎ去理、深い悲しみが満ちていた。
「私は……未熟です。自分の辛さを、あなたにぶつけてしまいました」
「……どういう意味だ?」
「私も、同じ夢を見せられていたから……」
玲陽は、堪えきれない、というように、月を見上げた。
「でもね、蓮章様。私に希望をくれた人は、私を助けてくれたんです。本当に、助けに来てくれた……」
「…………」
「だから、お願いです。易永様を、どうか、救って下さい。裏切りしか知らないままにしないでください……そんな魂はもう、増やしたくない」
「……約束はできない」
苦しくとも正直な蓮章の声が、しっとりと夜風に溶け、玲陽の心に届いた。
「俺には、親王のような覚悟はない」
玲陽は、わずかに微笑んだらしかった。
「当然です。兄様には誰もかなわない。けれど、せめて精一杯のことを。それが、一度でも助けようとした相手に対する誠意です」
「……わかった」
蓮章もまた、薄氷の笑みを浮かべた。
「すまなかった」
「いえ……」
玲陽は、一度、瞼を伏せ、それから改めて蓮章を見つめた。
「ありがとうございました」
蓮章は首を傾げた。玲陽の、気まずそうな顔が、月明かりに美しかった。
「大切な気持ちを、思い出させてくれました。ですから……ありがとうございました」
視線が合う。玲陽の目は、先ほどまでとは、別人のように穏やかだ。
蓮章は皮肉めいた笑みを浮かべることもなく、ただ、真剣な目で玲陽を見返した。 命の重み、救うことの責任。見せてしまった希望。
自分のしたことの重さを、改めて、玲陽の目に教えられた気がした。
信じること、信じられることを知った玲陽の心の深淵。自分などには想像もつかないほど、深く澄んだその場所に踏み込むことが許されるのは、犀星だけだ。
自分は、力を尽くすのみである。せめて、玲陽が、友と認めてくれるほどに。
「二日後、迎えにくる」
「はい」
蓮章は、自分の動揺を封印するかのように、玲陽に背中を向けた。
すぐに闇に溶けて、その姿は見えなくなった。玲陽は苦しそうに胸を抑えた。
今、この瞬間は、決して容易く手に入れたものではない。
一瞬でも、あなたのそばで……
玲陽は何かに急かされたように、屋敷へと駆け戻った。
これを災難と呼ぶか、幸いと呼ぶか、それは人それぞれだった。
東雨にとっては前者であり、犀星と玲陽にとっては後者とも言えた。
易永の身を引き受けた犀星と玲陽は、東雨とともに介抱に全力を注いだ。体の傷だけではない。その打ちのめされた心を少しでも慰めようと、彼らはわずかな配慮も怠らなかった。
蓮章が迎えに来るまでの二日間。それはもしかすると、易永にとって人生の最後の時間になるかもしれない。
たとえどれほど蓮章が力を尽くしたところで、足抜けは決して簡単なことではない。客観的に見て、それがどれほど困難であるか、絶望的であるか、その証拠ばかりが目についてしまう。
「易永様、傷の具合はいかがですか?」
玲陽は、易永にあてがった部屋にそっと足を踏み入れた。
その手には暖かな薬湯を入れた椀と、粥を乗せた盆が大切そうに捧げられている。
「私たちの故郷に伝わる、この季節の山菜を使った粥なんです。お口に合うか分かりませんが……」
玲陽は笑みを浮かべ、そっと怪我人の枕元の台に盆を乗せた。牀にうつ伏せ、起き上がることができないまま、彼はうずく痛みに目元を曇らせながら、それでもじっと玲陽の顔を見つめ続けた。
玲陽のほうは、反対に彼の顔をまともに見られない。
当然の防衛とはいえ、自分が傷つけた事実。後悔は無いが、胸は痛んだ。
易永の置かれた状況を知れば、そこにはおのずと、心を寄せる余地があった。玲陽は自分から易永の世話を買って出た。
玲陽はそっと、彼の枕元に交椅を寄せて座った。
背中の傷を庇ってうつ伏せる易永は、玲陽には、自分の姿とも重なって思えた。一匙、粥を丁寧に掬い、口元に近づける。
恐る恐る、易永は口を開いた。
顎を動かすだけで、背中の傷は痛むに違いなかった。玲陽は焦らず、易永の嚥下に合わせた。続けて、冷ました薬湯も、舌を湿らせるように与えた。苦味を消す小さな砂糖菓子を、最後に添えた。
その様子は、幼子を介抱する親のようである。
「易永様、申し訳ありませんでした」
玲陽は、何度目かの詫びを入れた。易永は、決して玲陽を責める事はしなかった。易永なりに、玲陽の思いがいかばかりかを、ちゃんと理解していた。
「あなたは悪くない」
易永はか細い声で言った。
「粥、美味しかった」
易永は涙ぐみながら、
「お国は南陵郡だとか?」
「はい。兄様……歌仙様も、私も、歌仙です」
玲陽は、透き通るように微笑んだ。それから、どきりとして、
「……私、名を名乗っていませんでした……犀光理と申します」
易永は、静かに、
「存じている。承親悌と」
はにかんだ玲陽は、自分を斬った人間とはまるで別人だ。
易永は完全に、玲陽に惹きつけられていた。自覚はないが、それは玲陽の隠しようのない生まれ持った資質だった。
「易永様。もしよかったら話を聞かせてもらえませんか?」
玲陽は決して、興味本位で言ったのではなかった。
力になりたかった。
と、部屋の扉が軽く叩かれた。
易永を放っておけないのか、それとも玲陽と離れていられないのか、犀星が顔を覗かせた。犀星を素直に迎え入れて、玲陽はもう一つ、交椅を引き寄せた。
宮中の権力者にとって、犀星は確固たる後ろ盾もない親王である。血統こそ上であっても、財力も発言力も自分たちの方が勝っていると言う自負がある。
身の危険を脅かしてまで、あえて非力な親王に危害を加えようという者は少ない。
だが、一方では、犀星の都の人々に対する影響が侮れないこともまた、間違いなかった。民にとっての死活問題を、犀星はいくつも解決に導いてきた結果は、人々の信頼を勝ち得るに値した。
都中の治水工事がその代表的なものであるが、今年はそれに加え、都の外の田畑の灌水にも着手している。敏感な民たちは、犀星の働きに大きな期待を寄せていた。犀星の背後には、間違いなく都の人々の信頼があった。それは宮中の誰もが持ちえないものだ。
民意。
その重さが、かつては都に目を向けることもなかった貴人たちには、驚異となりつつあった。
易永に命じた者も、十分にそれを心得ていたはずだった。
易永はじっと親王の顔を見つめた。無礼とされる行為だが、今更そのようなことを恐れても仕方がなく思われた。昨夜からの様子を見る限り、犀星は他の宮廷人とは明らかに一線を画していた。
身分も立場も国の上層にあり、武術も自分が叶うべくもない。だが、決しておごることなく、また玲陽や東雨に対しても、家族のように親しく接している姿を、易永は驚きと共に見守っていた。
易永決しては愚かではない。犀星の人となりが、噂以上に秀でて特殊であることは、すでに確信に至っていた。
犀星はさらに交椅を玲陽に寄せ、その膝の上で玲陽の手を握った。それは犀星にとっては当たり前の行動であったが、易永は思わず目を疑った。
主従であり、従兄弟であることは、十分に心得ていた。玲陽の犀星に対する献身も、疑うべくはなかった。だが、実際には、その枠に収まらないことを、さらりと示されてしまった。
「なるほど……かなわないわけだ」
易永はため息交じりに言った。そして、自嘲したような笑みを浮かべた。
「あなたたちの絆を刀で裂く事は不可能。国一番の剣豪であろうとも」
易永の寂しげな声を、玲陽は目を細めて聞いていた。
「誰に命じられた?」
犀星は静かに、問いかけた。
「知らない」
易永はすぐに答えた。
「今更、隠すつもりはない。だが、俺は本当に何も知らされていない。俺に命じたのは、同胞だ。雇い主が誰かなど、聞かされてはない」
その言葉に嘘がないことは、よどみない口調と静かな目を見れば明らかだった。
「では、どうしてあなたは、このような立場に?」
玲陽は、寄り添うように尋ねた。
易永はしばらく物思いにふけりながら何を話して良いものか、迷っている様子だった。
やがて、易永は、ゆっくりと話し始めた。
「私はもともと貴家の出身だ。ただ、表舞台にはいられない。事情は様々だが、私と同じ境遇の者は多い」
「貴家の?」
玲陽が繰り返す。
「それはどういう経緯です?」
易永は遠くを見て、
「俺たちの先祖は、かつて帝のそばに仕えていた。しかし、度重なる跡継ぎ争いの中で敗れ、ときには一族が皆殺しに合う憂き目も見てきた。それでも、私たちは生き残った。汚れ役を買い、血をつないだ。権力者の道具として」
「人は、道具ではない」
犀星はつぶやいた。
短く、重たい犀星の言葉に、玲陽は頷いた。
「兄様のおっしゃる通りです。人の心は、簡単に割り切れるものではない。矛盾の中で生きること。それは私たちも味わってきました。あなたは、人です」
易永は目を見開き、かすかに涙ぐんだ。
玲陽はわずかに目を伏せ、
「私たちには選択肢が残されていた。自分を貫く力と機会が。ですが、易永様にはそれすらなかったのですね」
犀星は耳元に玲陽の声を聞きながら、強く、その手を握った。
握り返し、玲陽は易永を見つめた。
「生まれた場所で咲きなさい」
玲陽の言葉は、犀星の記憶にもあるものだった。
玲陽の語り口は穏やかで、遠い昔の物語のようであった。
「私の母は自分の境遇を嘆いた私に、よく言いました。私もその言葉を信じ、必死に生きようとしました。けれど、それは一つの諦めなのだと、最近思うようになったのです。確かに草木は生まれた場所で一生終えるしかないかもしれない。けれど、私たちは草花ではありません」
「…………」
「あなたが、宿命の中に生まれたとしても、その場にとどまることが、あなたの意思でないのなら、自由のために、あなたがとった行動は、誰にも責められるものではありません」
犀星は、いつしかしっとりとした笑みすら浮かべて、頷いた。
易永の胸に満ちていく思いが、暖かく、傷の痛みすら遠ざけた。
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