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四年前 08 疑問
約束の日。
リュンクスは、塔の前でノクトと待ち合わせし、彼の研究室に案内された。
前回は強引に連れ込まれたが、今回は自分の足で階段を登る。
「そんなところに突っ立ってないで、入って」
「……お邪魔します」
ノクトの研究室の前に立つと、前回さらわれた記憶がよみがえる。
思わず躊躇するリュンクスだが、ノクトは何の悪気もない表情で扉を開き、近所の子供でも誘うような調子で、中へいざなった。
恐る恐る足を踏み入れたリュンクスは、おっかなびっくり狭い部屋の内部を見回す。
「魔術を教えてほしいんだったね。でも、その前に」
ノクトは悪戯っぽい笑みを浮かべ、リュンクスの頭の上に本を置いた。
どうして変なことするかな。
リュンクスは手をあげて、置かれた書物をつかみ、自分の目の前にかざす。それは無題の紙の束だった。ページをめくると、余白が見えないほど、びっしり書き込みがある。
「! これは」
今やってる授業の内容と、言葉の意味が書き込まれた、メモだ。
リュンクスは思わず釘付けになった。
こういうのが欲しかったんだよ!
「お気に召したかい?」
「……ありがとうございます」
「初級の魔術文字と、詠唱の辞書もあるよ。私の手作りだ。欲しいかい?」
「欲しいです」
まるで人参を目の前にぶら下げられた馬みたいだった。
リュンクスは誘われるまま長椅子に腰をおろし、渡された書物を無心で読む。その長椅子は、この前体を拓かれた寝台なのだが、うっかり本に夢中になって気付かなかった。
そんなリュンクスを眺めながら、ノクトは静かに隣に腰をおろす。
「……こんな見えそうな場所に契約印を刻むなんてね」
「ひゃっ!」
急に、首筋を撫でられて、リュンクスは飛び上がった。
間近に先輩の綺麗な顔がある。
澄んだアイスブルーの瞳が、こちらを見ていた。
「執着の証だよ。このままだと、君は苦労するよ」
「へ?」
「分かってないね」
悠然とした態度で足を組むノクト。
我に返ると、自分が狼の巣の中にいるのだと自覚した。
「すみません、用事を思い出したので帰ります!」
「どうぞ。その書物はあげるよ。もう私には必要ないからね」
ノクトは逃げ帰ろうとするリュンクスを止めなかった。
戦利品を胸に抱えて、研究室を飛び出すリュンクスを見送る。
廊下に出て、階段を降りる頃には、リュンクスも冷静になっていた。
前回はひどいことをされたとはいえ、今回はもらうだけもらって、ろくに礼も言わず、飛び出してきたのだ。少し罪悪感を覚える。
「そういえば……」
リュンクスは、腕に抱えた書物を見下ろした。
先輩は天才という噂なのに……なぜ、こんな細かく書き込みされたメモを持っているのだろう。手作りだと言っていた。
その理由を深く考えると切なくなりそうで、リュンクスは頭を振り、書物を抱え直した。
「リュンクス」
「……カノン」
塔を出ると、寮の建物の前で、カノンが待っていた。
「乱暴なことは、されなかったか?」
心配してくれている。
リュンクスは胸がじんとして、先ほど浮かんだノクトに関する疑問を忘れた。
「大丈夫」
「ならいい……先輩との契約は、どうするつもりだ?」
隣に並んだカノンが、手をにぎってくる。
手のひらから彼の熱い魔力が伝わってきて、リュンクスはどきどきした。
「先輩から本を借りたんだ。返さないと」
ノクトは「あげる」と言っていたが、真面目なリュンクスは只で受け取るつもりはなかった。きちんと返すか、あるいはもらうなら代わりになるものを渡すつもりだ。
カノンが不満そうに言う。
「無理やりおそわれたのに、先輩との契約を受け入れるのか」
そう言われてみると、そうなのだった。
不思議な感じだ。
「リュンクス。マスター属性の魔術師は、あの手この手で、サーヴァントを誘惑する。ちょっと優しくされたからといって、ほだされては駄目だ」
「でも、俺に優しくして、ノクト先輩になんのメリットがあるんだ?」
言いながら、リュンクスは疑問を抱いた。
そうだ。俺は、先輩に興味を覚えている。
この関係を続ける理由があるとしたら、それだけだ。
「ほら見て、この本。カノンにも見せてあげようか」
ノクトに借りた本を見せびらかすと、カノンの目線が泳いだ。
「……君が読み終わったら、貸してくれ。おかしな魔術が仕掛けられていないか、点検する」
それ口実だろ。
借りた本を返すという名目で、リュンクスはノクトと再び会い、彼に継続して魔術を教えてもらうことになった。
そのままずるずると、定期的にノクトと会うようになってから、空の月が二度目の猫目月に変化している。
「塔に入ってから、月が二巡りしたね。最近、調子はどうだい?」
問いかけているのは、教師のトルクだ。
放課後、教室に残るよう言われ、向かい合って話している。
「君は、入学試験の成績がとても悪かったからね。塔の授業に付いていけるか、心配していたんだよ」
やっぱり成績悪かったんだ。
分かっていても、改めて言われると、ショックである。
しかし、ありがたいことに、ノクトのくれた書物や、カノンの助言、オナーの応援のおかげで、最近やっと授業が分かるようになっている。
「……どうして、俺を合格にしたんですか」
「君の潜在能力の高さを評価したんだよ。君のお母さんの件もある」
「!」
母親のことを聞かされ、リュンクスの心臓は早鐘のように高鳴った。
正直、ちゃらんぽらんな父親の言葉は、信じていなかったのだ。
自分の母親が、有名な魔女だなんて……。
「母さんは、今どこに」
「僕の階級じゃ、そこまでの情報を語れないな。君のお母さんの話は、トップシークレットだ」
え。母さん何者なの?
驚くリュンクスに、トルクは続けて言う。
「君が貴石級を取得するような高位魔術師になったら、お母さんの居場所を知ることができるかもしれないね」
「!」
「その前に、来月の教室選びが肝心な訳だが」
教室選び? きょとんとするリュンクスに、トルクは教師らしく丁寧な説明をしてくれた。
今はトルクがリュンクスたち新入生の面倒を見ているが、これから先、師事する教師を自分で選び、その教師の教室に所属することになるらしい。
誰に師事するかで、将来の出世にも関わってくるとか。
「何を学びたいか、誰に学びたいか、ゆっくり考えなさい」
トルクとの面談が終わり、塔の階段を降りながら、リュンクスは不安と期待を胸に抱いていた。
田舎育ちで成績も底辺な自分が、はたして高位魔術師を目指せるのだろうか。
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