1 / 16

第1話

四月十六日午後三時四十分。俺は千室市天文台にいた。 「ノゾムくーん、こっちもおねがーい」 「はい!いま行きます」 俺は近くにある石杜大学、原野谷キャンパスの大学二年生。専攻は理学部宇宙物理学科。この天文台でアルバイト兼ボランティアの解説員をしている。今は事務室で職員の江古田さんに頼まれた星空観測会で配布するプリントを準備していた。だがその作業が終わったと思ったら今度は吉田さんに呼ばれた。 「ねぇノゾム君、ここなんだけど入力がおかしくなっちゃたのよー」 吉田さんはパソコン作業をしていてワードの入力画面を開いていた。 「ああ、ここですね。これはこのキーを押すだけで直りますよ」 俺はキーボードのインサートキーを押した。 「あ、ほんとだ。ありがとう。やっぱりあなた頼りになるわぁ」 「いえいえそんなこと。お役に立ててよかったです」 吉田さんの優しい微笑みに思わず心がほっこりする。吉田さんはこの職場での癒し系天使だ。 「こーらー、ノゾム君!頼んだものは?」 江古田さんがこちらへやって来た。江古田さんはこの職場のリーダーでちょっと偉い人である。 「できてます!」 俺は江古田さんの机の上に置いていた印刷が終わったプリントの束を指さした。 「オッケー。そしたらそれを会議室に運んどいて。そのあと展示室で四時から五時の間、閉館まで立ってて」 「わかりました。行ってきます」 俺はプリントの束を持って会議室へと向かう。 「もう少しで終わるから頑張れよー」 江古田さんが笑顔で軽く手を振っていた。 俺は二階の会議室に書類を置いたあと一階の展示室に降りた。ここで閉館時間まで解説スタッフとして仕事をする。この天文台は数年前にリニューアルしたのだがここの展示は俺も面白いと思う。天文台の展示だから星や星座、宇宙についての展示なのだが文字や写真だけでなく、縮尺された星の動く模型や自分が展示の中に入り地球の目線になって月の満ち欠けを見るなど体験型の展示が多い。そのため小学生でも興味を持てるようなわかりやすい説明である。休日は特にプラネタリウム目当ての親子やカップルが多い。俺は大学一年の秋からここでアルバイトを始めたから半年以上は経っていることになる。自分でもまだ年は若いと思うが時が過ぎるのは早いなぁ…。これから年齢を重ねればもっと早くなるのだろうか。結婚…とか?子供ができたらさらに早くなりそう。まぁまだそんな浮ついた話はないし彼女すらいないのだが。ずっと同じところに立っているのも暇なので展示室の中を巡回する。銀河系、太陽、月、地球…など様々な解説がある。今日は日曜日だからかお客さんはもう少なくピークは確か二時ごろだった。今現在館内のお客さんはまばらで老夫婦、母親と娘の親子、男女のカップル、男性一人客、女性の二人客のみである。 ふとその中の男性一人客が季節の星座の展示の前でじっくりとパネルの文字を読んでいる姿が目についた。彼は星座に興味があるのだろうか。この天文台では『悩める人には解説を』というモットーがある。意味は展示内容が難しそうにしている来館者には積極的に声をかけて解説しようという考えである。俺は展示について説明しようと彼に近づいた。そのときだった。彼は胸を押さえてその場にうずくまった。それと同時になぜか俺も息が苦しくなった。理由はわからなかったがまずは客である彼に声をかけるべきである。 「あ、あの…大丈夫ですか」 声をかけた彼からは不思議と甘い香りがした。 「え…えっと」 しゃがみこんでいる彼はこちらへ顔を向けた。彼の目には涙が浮かんでおり頬は赤く染まっていた。 「苦しくは、ありませんか」 「ちょっと…さっきから、おかしくて」 彼はずっと息が苦しそうで、かくいう俺も彼につられてなのだろうか、少し動悸がした。わずかに息が乱れる。甘い匂い、この匂いは何なのだろう。まるでこの匂いに思考をかき乱されるような…。 「…どこかに一人で、休めるところは、ありませんか」 うつむく彼にそう聞かれ 「あ、そ、そうですね。一旦休みましょう。今二階の会議室が開いていたはずです。そこでもいいでしょうか」 「……はい」 では、と俺は彼と肩を組み二階へと向かった。確か会議室は今の時間誰も使っていない。あとで江古田さんに何か言われたら緊急事態だったということにしておこう。実際そうだし。彼のほうを見るとさっきよりもさらに息が苦しそうだった。 「も、もしかして救急車呼んだほうがいいですか」 彼に尋ねると、彼は首を横に振った。 「…いらないです。薬飲んで、落ち着いたら、大丈夫です」 「そうですか。あ、着きましたよ。会議室」 やっと二階の会議室に到着し俺は扉を開いた。二人で中に入り彼を椅子に座らせた。 「あ、そうだ。俺、事務所に報告してきます」 そう言ってその場をいったん離れようとすると服の袖を彼に引っ張られた。 「いかないで」 俺は振り返り首をかしげる。彼は続けて 「…なんでかわからないけど、あなたにここにいてほしいんです」 といった。俺はぽかんとしていたが彼が先ほど薬について話していたことを思い出し 「そうだ。薬飲まなきゃ」 「そうですね、薬。あの、内容みても、何も言わないでください」 「ん?えぇ…」 彼はバッグから薬を取り出した。白い薬袋にかかれていたのは『オメガ 抑制剤』の文字だった。 「あっ」 俺はその文字につい反応してしまった。しかし彼は気にもとめずプチプチと錠剤を取り出しペットボトルの水で薬を飲んだ。ごくり、と喉仏が動いたのを見て俺も唾を飲む。その姿がとても煽情的に見えた。 「ぷはぁ」 彼が息を吐く。その唇は赤く、小さく、すこし乾き気味で、思わず手を伸ばしたくなるような唇だった。俺は右手の親指を彼の唇にそっと触れさせた。 「えっ…」 彼は声を漏らし眉をひそめた。彼の声は少し熱を帯びていた。 「…もしかして発情期、ってやつですか?」 俺は気になって正直に聞いてみた。変わらず甘い匂いは部屋中を包みこんでいる。もしかしてこの匂いは彼のフェロモンの匂いなのだろうか。 「……時期的に、たぶんそうです。薬はちゃんと飲んでいたんですが、なぜか」 「それ、もしかして…」 俺は自身の変化に気づき、恥ずかしくなり自分の股間を両手でおさえた。 「俺のせい…かも」 俺の股間は熱く固くなっていた。それに気づいた彼は 「わっ」 と驚き、しばらく俺の股間を見つめた後、そこへ手を伸ばしてきた。彼の指先がそこに触れた瞬間、俺はさらに股間が膨らんだ気がした。 「や、やめてください」 俺はやばい、と感じ彼の手をおさえる。お客さんといやらしいことをするなんて、と思い彼の手を止めたがなんとも返しにくい返事がきた。 「……やめるけど、いいの?」 彼は俺の顔を覗き込み上目遣いで聞いてきた。 「いいっていうか…その…」 「あなたはアルファ?」 うるんだ瞳が問いかけてくる。 「…はい。アルファ…です」 「アルファなのになぜ襲ってこないの?」 彼がそう思うのも当然だろう。発情期のオメガが放つフェロモンに耐えられるアルファはほとんどいない。かくゆう俺もこの甘い匂いに誘惑されているが彼を無理やり押し倒すまでには至っていない。これにはちょっとした理由がある。 「……恥ずかしいんですが、俺、極度のヘタレで…」 「…ん?」 彼は俺に疑問の目を向けている。確かにこれでは説明になっていないだろう。 「その……とても興奮しているのですが、例えばあなたを押し倒したとしてその後どうしたらいいかわからなくなるんです」 「…へぇ。つまり、本当にすごいヘタレなんですね」 「あはは……。なんかすみません」 「じゃあ、俺が誘導してあげるとしたら?」 「…えっ?あっ…」

ともだちにシェアしよう!