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〘 1 〙踊り子と用心棒-1

 船が内海に入ると、これまでの激しい揺れは(うそ)のように収まった。  ──だとすると、王都まではあと三日の船旅か。  エルヴァン・バイラムは、船室の窓から外を(うかが)った。黄昏(たそがれ)時の海面に、他の船団の灯りが並んでいるのが見える。 「まもなく親船から迎えが来るぞ! 踊り子はさっさと仕度を済ませろ!」  船室の外側から、口うるさい宦官(かんがん)の怒鳴り声が聞こえてくる。エルヴァン──エルはやれやれとため息をついて、船室の壁に設えられた鏡に我が身を映した。  まず目をひくのは、世にも珍しい紫の瞳。宝石のような双眸(そうぼう)を飾る台座にふさわしい、長い睫毛(まつげ)に縁取られた目元。  褐色の肌は、大理石から掘り出したように滑らかで、傷一つない。すらりと通った鼻筋を下へ辿(たど)れば、形のいい唇がある。()(わく)的な笑みを(たた)えた柔らかな唇には、控えめな紅を差してある。  癖の強い黒の短髪は、頭のぐるりを飾る、金のヘッドドレスの輝きを際立たせている。頭を動かすたびに鎖がシャラシャラと音を立て、先端にぶら下がる宝石をきらめかせた。  この宴のために、衣装はとっておきのものを選んだ。ぴったりと肌に張り付く七分袖の黒い裾の短いシャツ(チョリ)は、踊り子の第二の顔とも言える腹部と、細身だが肉感的な体の線を露わにしている。  開いた胸元には、濃紺のラピスラズリをあしらった蛇の首飾りと、(そろ)いの耳飾り。腕には鈴付きの腕輪を()め、腰回りには異国の帯と、無数の金貨を縫い付けたスカーフを巻いた。  ふくらはぎまでのゆったりとした下穿き(シャルワール)は生成り色だ。光にあたれば透けそうなほど薄いが、無遠慮な視線を(くぎ)付けにしつつ、落胆させる程度の慎みは保てる。裾を縛る(ひも)にも鈴がついていて、動くたびに澄んだ音色を響かせる。  エルは鏡の中の自分を、できる限り厳しい目で吟味した。  ──この格好で、皇女の御前に出て恥ずかしくはないだろうか?  ──いつも通り、最高の踊りを披露することができるだろうか? 「……当然」  鏡に向かって微笑んだその時、またしても声が響いた。 「時間がないぞ、小鳥ども! さっさと甲板に集合しろ!」  すると、無数の船室のドアがバタバタと開く音がした。踊り子たちの緊張した声が、廊下にドッと(あふ)れる。  エルは少し遅れて船室を出た。この船に乗る踊り子の中で、唯一個室を与えられたエルのことを、他の踊り子たちが好奇の眼差しで一瞥(いちべつ)してくる。男の踊り子は珍しいから、彼女たちの気持ちもわからないでもないが、珍品扱いされるのは御免だ。  エルはくいっと顎を上げて彼女たちを見かえした。お前たちが小鳥なら、俺は豪華な羽を持つ雄孔雀(くじゃく)だと言わんばかりの、余裕の笑みを浮かべて。好奇の視線はたちまち散った。  甲板に登ると、船団の様子がよく見えた。  最新鋭の帆船五隻からなる船団は、二つの大陸に挟まれたシヴァス海を悠々と進んでいた。中でも一際立派な親船がオリマール帝国皇帝(スルタン)の娘、皇女サフィエを乗せた船だ。  四年に及ぶ外遊から帰国する皇女サフィエは、五隻の船に異国の手土産を満載した。帝国西方領(メナン)各地の工芸品や金銀財宝、様々な民族の奴隷や戦士、エルをはじめとする踊り子たちだ。  今夜、皇女からのお召しがあったのは、王都に着く前に、最も価値の高い踊り子を選ぶためだ。その一人だけが、皇女の帰還祝いの宴席に招かれる。そして、王の御前で踊ることを許されるのだ。  ──俺は何としても、そこに辿り着かないといけない。  エルの身体を、武者震いが駆け抜けた。  やがて、武者震いが二度、三度と続いてようやく、エルは自分が寒さで震えているのに気付いた。エルの乗る船が親船に横付けするのを待っている間に、身体が冷えてしまったらしい。  エルは甲板を見回して、ある人影を探した。そして、馴染(なじ)みの顔を見つけると、右手をあげて呼びつけた。 「おーい!」  呼ばれた男は甲板の隅にいた。舷縁に手をかけ、夜の海を見張っていたらしい。彼は、やれやれと言いたげな表情を隠しもせずにやって来た。 「……何か用か?」 「寒いんだ。何か羽織るものをくれない?」  エルよりも頭一つ分背の高いその男は、踊り子の警護担当として雇われた兵士の一人だ。歳は、十七のエルより一回りほど上だろうか。革の軽装(よろい)に身を包み、腰には西方(メナン)風のまっすぐな剣を()いている。  風にはらりと揺れる茶色の髪に、日に焼けた肌。オリマールの砂漠地方出身のエルとそう変わらない顔立ちに見えるが、造作の端々に、どこか異国の雰囲気が漂っている。  目鼻立ちは、文句なしに整っている。涼しい目元も豊かな唇も、エルの好みに限りなく近い。けれど、いつも顔に張り付いている真面目くさった表情のせいで、魅力は惜しくも半減している。  ただ、その目の印象だけは、何をもってしても損なえない。彼の深い緑色の瞳は、太陽の下でも月の下でも、息を()むほど美しかった。  もしも彼が笑ったり、泣いたり、怒ったり、欲望に我を忘れる様を目の当たりにしたら、印象がガラリと変わりそうな気がする。  それを見てみたい……と思ったわけではないが、エルは航海中なにかにつけて彼を呼び出し、こき使い、わがままを押しつけた。  この男にこだわる理由は、自分でもよくわからない。単純に、見た目が好みだから──それと、いちいちうんざりとしてみせながらも、望みを(かな)えてくれるところが気に入ったからかもしれない。  今もまた、男は大きなため息をつきつつ、首に巻いていた飾り気のない襟巻き(ヤズマ)を解き、エルの肩にかけてくれた。 「これで我慢しろ」  エルはわざとらしく襟巻き(ヤズマ)の端をつまんで、クンクンと匂いを嗅いでみせた。砂埃と潮風、そして汗の匂いが染みこんでいる。 「男くさ……」  そう(つぶや)くと、彼はムッとして言った。 「香を()きしめる余裕がなくて悪かったな。誰かさんが始終呼びつけてくるおかげで忙しかったんだ」 「(けな)したわけじゃないよ。事実を言っただけ」  実際、男くさいのは確かだけれど、悪い匂いではなかった。  まだ不服そうな男に向かって、エルはクスクスと笑った。 「ま、寒さはマシになったよ」  そうこうしているうちに、親船への横付けが完了し、船縁に橋代わりの板が差し掛けられた。 「ちょうど、こんな色の襟巻き(ヤズマ)が欲しかったんだ」  エルはそう言って、即席の橋にひらりと飛び乗った。 「おい! 貸してやるだけだぞ!」  エルはあははと笑って、皇女が待ち受ける船に乗り込んだ。

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