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〘 1 〙踊り子と用心棒-2

 皇女の船は、エルが乗っていたのとはまったくの別ものだった。大きく、豪華で、美しい。至る所に鮮やかな装飾が施されていて、まさに王族のための船だった。暮れかかる西空を背景にすると、一層荘厳に見える。  船の甲板は、宴の会場に作り替えられていた。  宙に浮かぶ色とりどりのランプに、猫の形をした歩き回る香炉。甲板に並べられた(つぼ)からはアーモンドの木が枝を伸ばし、季節外れの白い花弁をハラハラと散らしている。()(さき)には楽器を手にした自動人形が勢揃いして、陽気な音楽を奏でていた。  目に入るこうした魔法は全て、王室のお抱え魔術師の手によるものだろう。  オリマールは魔法の国だ。その技術力の高さには、他のどの国も敵わない。そんなオリマールで生まれ育ったエルでさえ、これほど見事な魔法の技を一度に目にするのは初めてだ。  宴の様子は、まさに豪華絢爛(けんらん)だった。  広々とした甲板の中央には分厚い絨毯(じゅうたん)が敷かれていた。そこかしこにご()(そう)が並べられ、香辛料入りの紅茶が湯気を立てている。ここでは生臭い潮風のかわりに、宮廷の晩餐(ばんさん)顔負けのいい香りが漂っていた。  踊り子たちの登場に、クッションにもたれて座っている女官や家来たちが(はや)し声を上げている。そんな(にぎ)やかな宴席の上座に、皇女がいた。  皇女サフィエは、オリマール帝国皇帝、トゥルハンの一人娘である。  類い希な美貌の持ち主だが、気難しく秘密主義で、苛烈な性格だという。数多の縁談を突っぱね、遊学と称して皇帝領のあちこちを回っている。それは、女であるが故に王位を継げない憂さを晴らすためだろう、と(うわさ)されている。 「待ちかねたぞ! 踊り子たちよ、こちらへ!」  皇女の声に、機械人形の楽団が賑やかな曲を奏で始めた。  皇女は、ほとんど白に近い金髪を太い三つ編みにして背中に垂らしていた。王家の特徴である、淡い灰色の瞳には、期待するような強い眼差しが宿っている。  皇女の存在感──王族だけが持つ威圧感を、エルは痛いほど感じた。  演目は、もう始まっている。  何としても、皇女に認めてもらわなければ。そして王の御前で、あの舞を披露するのだ。  慣れない趣向に固まっている他の踊り子たちを優雅に押しのけ、エルが前に出た。宴席の中央は、踊り子たちのために開けてある。流れるような動きで、皇女の真ん前に位置取り、お辞儀をした。  その場にいる全員の視線が、全身に突き刺さるのを感じる。  ──絶対に、しくじるな。  自分自身に言い聞かせたあとは、聞こえてくるリズムにだけ集中した。  琵琶(ウード)太鼓(ダラブッカ)の音に合わせて、両手を広げ、身をくねらせる。オリマールの舞踊は、躍動的な下半身の動きと、(たお)やかな上半身の動きを組み合わせた妖艶なものだ。  だがこの国では、手足を動かすだけでは『踊り』とは言えない。  エルが力強い二拍子(マルフーフ)に乗って腰をくいっと突き出すと、巻いたコインスカーフがしゃらんと楽しげな音を響かせた。同時に、エルの身体の周りに光の粒が弾ける。  光は楽しげに瞬いたまま、蛍のようにエルを取り巻いて浮遊する。音楽に合わせて手を打ち鳴らすと、光は色とりどりの小さな花火となって炸裂(さくれつ)した。  見物人が、口々に「おお」と声をあげる。  これが、踊り子の魔法だ。  文法や幾何学模様を組み合わせる魔術師の技は物に宿る。神の(おきて)に則った呪文を刻み込んで作られる魔導具や魔法陣は、〈秩序の魔法〉と呼ばれる。  一方、踊り子や歌人、詩人といった芸人(キヤーナ)たちが使うのは、神ならざる精霊(ジン)の力を借りて行う〈無秩序の魔法〉だ。自然の化身である精霊(ジン)は、人間のあるがままの衝動や無秩序を好む。  古来、詩人や踊り子、歌い手たちはさまざまな場所で活躍してきた。  軍属歌手は戦場で味方を鼓舞し、敵の士気を奪い、民を惑わせ、酔わせもする。農耕詩人が畑に歌いかければ、苗はすくすくと育ち、豊作が約束される。  彼らは魂の奥底からこみ上げるものを表現することで、目には見えない精霊(ジン)の力を引き出す。それは時に唯一無二の技と賞賛され、時に手懐けられない魔法として恐れられてきた。  彼らは時に畏怖と軽蔑を込めて『精霊に憑かれたもの(マジユヌーン)』とも呼ばれる。 「いいぞ!」  観客の口から、次々にかけ声があがる。  踊りの動きが激しくなるほどに、エルの周囲に弾ける光も大きくなってゆく。お祭り騒ぎを好む、炎の精霊(ジン)の力の見せ所だ。  魔法の火の粉は甲板の至る所に漂っては、音楽に合わせて弾け、鮮やかな光の粒となって見物人の頭上に降り注ぐ。  エルは甲板の上を動き回り、見物人ひとりひとりに視線を投げた。眼差しは賞賛の輝きを(まと)い、エルへの無言の賛辞となってかえってくる。  出遅れた他の踊り子たちもようやく踊りに加わったが、この場の空気を支配しているのはエルだった。船上の全ての視線はエルに釘付けだ。皇女もまた、口元に微笑を浮かべてエルを見つめていた。  ──出だしは上出来。  とはいえ、小さな花火を出すくらいの芸当は、場末の酒場の踊り子だってやってのける。炎の精霊(ジン)は人間が好きだから、火の魔法は誰でも最初に使えるようになるものなのだ。  ──お楽しみは、これからだよ。  エルは()き出しの腹を艶めかしく波打たせながら、両手はあくまで嫋やかに揺らめかせた。蛇を思わせる滑らかな動きを、指先から肘、そして肩へと伝えてゆく。  感情を込め、扇情的に身をくねらせ、身を反らす。まるで、献身的な愛人に前戯を施されている最中のように。  陽気な音楽とは裏腹に、自分に絡みつく無数の視線が湿り気を帯びたのを、エルは感じた。  ──そうだ。もっと俺に夢中になればいい。  エルは首に巻いていた借り物の襟巻き(ヤズマ)を外して、ベールのようにはためかせた。しなやかな布地はエルの手を離れ、まるで生きているかのように空中を泳ぎ始めた。  (しとね)の上で、心を許した相手にだけ見せるような悩ましい眼差しで辺りを見渡す。すると、エルに魅せられたいくつもの顔の向こう──甲板の端に、襟巻き(ヤズマ)の本来の持ち主がいた。  相変わらずの仏頂面で、こちらを見ている。  不意に悪戯心が湧いたエルは、彼から借りた襟巻き(ヤズマ)が恋人であるかのように触れ、戯れながら、時に(あい)()に感じ入るみたいに、腰を細かく震わせた。  視界の隅で、彼がやれやれと首を振ったのが見えた。  その反応に、わけもなく楽しくなる。エルは(たかぶ)る感情のままに、声をあげて笑った。  踊りが熱を帯びてゆくにつれ、リズムは四拍子(マクスーム)から二拍子(アユーブ)へと変わってゆく。高鳴る鼓動を思わせる太鼓(ダラブッカ)の響きに身を委ねると、自分を取り巻く空気に宿る、精霊(ジン)の気配が大きくなった。  客が囃し、手拍子をする。盛り上がりは最高潮だ。  エルは激しく腰を揺らし、円を描きながらステップを踏んだ。他の踊り子など押しのける勢いで、身体を回転させ、帯をはためかせ、髪を振り乱す。  音楽にあわせて、光は雨さながらに降り注ぎ、甲板の上で赤く弾ける。まるで、雨期にだけ砂漠に現れる薔薇(ばら)の花畑だ。爛漫(らんまん)の輝きの中で、エルは軽やかに舞い続けた。  やがて、満開の花火が静まると、船上で光に照らされているのはエルひとりだけになる。  ──さあ、仕上げだ。  皆の視線を一身に受けたエルは、恋人の抱擁を受けるように身体に巻き付けた襟巻き(ヤズマ)を、愛おしげに撫でた。その場でくるりと身を翻すと、薄布ははらりと解ける。襟巻き(ヤズマ)が地面に落ちる直前、エルは手を振り上げ、ふわりと頭上に放った。  風の精霊(ジン)がそれを(さら)い、炎の精霊(ジン)が捕らえる。光を纏った襟巻き(ヤズマ)は、エルの周りを上へ下へとクルクルと舞った。  そして音楽の高まりと共に、パッと炎を上げて燃え上がった。  次の瞬間、色とりどりの火花がそこら中で弾けた。水の精霊(ジン)が船の両舷から()(まつ)を飛ばし、輝く(しずく)が観衆の上に降り注いだ。  祝いの紙吹雪のように舞い散る、光と水の粒。その中で、エルは襟巻き(ヤズマ)の燃えかすから落ちてきた一輪の薔薇を、くるりと回転しながら口でキャッチした。そして音楽が鳴り止むと同時に、決めのポーズでピタリと動きを止めた。  船上は、一瞬静まり返った。まるで、自分たちが今何を見たのか理解できないみたいに。それはそうだろう。風に、炎に、水。三つの精霊(ジン)を自在に従わせられるほどの踊り子は、国中を探してもそう簡単には見つからない。  エルがにこりと微笑むと、金縛りから解けたみたいに、船上にドッと歓声が溢れた。競争相手だったはずの他の踊り子たちさえ、目を丸くしてエルを見つめ、立ち尽くしている。圧倒、という言葉がふさわしい。  ──まあ、当然だね。  エルは薔薇を(くわ)えた口で微笑み、三方に深々とお辞儀をした。そして、皇女の前に進み出て(ひざまず)き、薔薇の花を差し出した。 「皇女様。お気に召していただけたでしょうか?」  皇女は面白がるように眉を上げ、薔薇を受け取った。 「存分に楽しませてもらったよ、エルヴァン・バイラム」  ──皇女は俺の名前を覚えてる!  エルはにんまりと微笑みつつ頭を下げた。 「ありがたき幸せにございます」  恐縮し、感激している風を装いながらも、心の中では、皇女に向かってこう叫んでいた。  ──言え。『皇帝の御前で踊ることを許す』と言え! 「そなたの実力は噂に聞いたとおりだったな。エルヴァン、面を上げよ」  皇女は、淡い灰色の目でエルを見つめて、次の言葉を口にした。 「なれば、そなたに──」  エルは、十二年間抱き続けた悲願を叶えるための言葉を、息を殺して待った。  だがその時、船尾から鋭い声が上がった。 「何事だ!?」  振り向いた者たちが見たのは、腹から三日月刀(シミター)の切っ先を生やした護衛兵士の姿だった。兵士は自分の身に何が起こったのか理解できない様子で、声にならない声をあげている。  彼の背後には、黒々とした(ひげ)の男。頭には真っ赤なターバンを巻き、首筋には(どく)()の刺青が刻まれている。  男は飢えた目つきで船上を見回すと、ニヤリと笑みを浮かべた。足蹴にした兵士の身体から剣を引き抜くと、事切れた死体はドサリと落ちた。  誰かが、うわずった声で叫んだ。 「海賊(コルサン)だ!!」  その言葉を待っていたかのように、彼らの背後に漆黒の船が姿を現した。夜襲のために船体を黒く塗った海賊船だ。こちらが呆然と立ち尽くしている間にも、似たような格好の男たちが次々と船に乗り込んでくる。  不意に誰かが悲鳴を上げ、そこから船上は騒然となった。 「クソッ! 冗談じゃない。なんでこんな時に……!」  エルは思いきり悪態をついた。  シヴァス海の海賊は有名だ。島影に潜み、夜になると音もなく近づいてきて、あっという間に何もかも攫ってゆく。  財宝はもちろん、着飾った女官や見目麗しい踊り子を満載した船は、海賊にとって宝船だろう。ものだけでなく人もまた、奴隷として売り飛ばせるからだ。 「なぜこうも易々と侵入を許したのだ──他の船はどうした!?」  皇女が叫んだが、その答えは海上を見回せば明らかだった。こちらの船団を上回る数の海賊船が周囲を取り巻き、他の船を次々と手中に収めているところだった。  ぞろぞろと乗り込んでくる海賊たちに慌てふためく家来たちとは対照的に、皇女は少しも尻込みをしなかった。 「この、無礼者どもが……!」  皇女は応戦しようと三日月刀(シミター)を抜いたが、数人の近衛兵によって制止された。 「姫様!! 無茶はおやめください! こちらへ!!」 「放せ! わたしも戦える──!」  皇女はそれでも戦おうとしていたが、ついには船室へと退避させられた。  船室の鍵がかけられる音が無慈悲に響く中、甲板には水夫と皇女の家来たち、踊り子とその護衛がとり残された。  近衛兵が守るのは皇女の命だけだ。あとの者たちは自分で生き延びなければならない。 「戦えない者は下の甲板へ! 後の者は俺に続け!」  エルのお気に入り──襟巻き(ヤズマ)を貸してくれたあの護衛が声をあげ、真っ先に敵の矢面に立つ。残りの護衛たちも、剣を抜いて敵に向かっていった。  だが、多勢に無勢だから、いつまで持ちこたえられるかはわからない。戦う術を持たない踊り子や女官たちは、甲板から船の下層へと続く(はし)()を我先に下りていった。今ごろは、船艙の隅に縮こまって震えていることだろう。  エルは、彼らとは別の場所にいた。船首近くの物陰に身を潜めて様子を窺っていたのだ。  下甲板には出口がない。どん詰まりの暗がりで群れになっているなんて、敵にまとめて攫ってくださいと言っているようなものだ。  海賊に見つかる可能性が高いとしても、逃げる好機を逃すくらいなら、こちらにいる方がまだマシだ。  ──こんなところで、海賊なんかに計画を邪魔されるわけにはいかない。  あと少しで、皇女から皇帝に謁見する許しを得ることができたのに。そうすれば、長年抱き続けてきた悲願が叶ったはずだった。  この状況を脱することができるなら、精霊(ジン)悪魔(シャイタン)の助けだって借りたい。  だが、エルが助けを請う相手は一つ──一族を守る魔神、ラマシュだけだった。エルの一族は、世に歴史書が生まれるよりもずっと古い時代から、歌と踊りによって神と心を通わせてきたのだ。  ──でも……。  エルの頭の中に、力を使うことの代償や、そもそもうまくやり遂げられるのかどうか、といった懸念が次々と浮かんでは消える。  その時、船のどこかから鋭い悲鳴が上がった。死の間際の断末魔──それが、エルの背中を押した。  ──迷ってる場合じゃない。今すぐやるか、ここで死ぬかだ。  エルはすぐ傍で倒れている兵士の手から三日月刀(シミター)を拾い上げると、小声で歌いながら素早く剣舞を(ささ)げた。大声を上げる必要も、派手な身振りをしてみせる必要もない。魔神はいつも、エルの側で見守っているのだから。  おどろおどろしく不穏な旋律に乗せて、エルは闇夜に剣を揺らめかせた。 『愛しき主 大いなる蛇の女神(ラマシユ)よ  我は海原を砕く嵐を乞う……  毒なる雨と牙なる雷で 我が敵を波間に沈め  冥海の底で果てさせたまえ 大いなる(くちなわ)の女王よ!』  最後に、エルは供物として剣を海に放った。  願いが聞き届けられる瞬間を待って、身を強ばらせて息を詰めていると、承認を示すような悪寒が背筋を駆け上がっていった。 「……っ」  ──うまく、いった。  魔神への願い事には、常に代償が伴う。今の願いを叶えるために、かなりの生気をラマシュに捧げた。今のエルには、敵と相対しても抵抗する力は残されていない。  危険な賭けだ。けれど、ただ縮こまっているよりはマシだ。 「早く助けてくれよ、女神様……」  悲鳴と怒号と騒音の混じり合う甲板の上は、ますます混沌(こんとん)として、ひどい有様だった。果敢にも海賊に挑んでいった護衛たちは次々と数を減らしている。襟巻き(ヤズマ)を貸してくれた、あの男の姿も見えない──まさか、死んでしまったのだろうか。  名前も知らない護衛が何人死んでも動揺しない、けれど、彼が死んだのかもしれないと思うと、言い知れない焦りが沸き起こる。  ──ここにいたら駄目だ。もっとマシな隠れ場所を探さないと。  目を留めた先に、果物が入っていたらしい大きな(たる)が転がっていた。その中に潜り込んで、隙を見て樽ごと海に飛び込めば、逃げおおせるのではないだろうか?  思いつきに背中を押され、ふらつく脚で物陰から駆け出す──と、いきなり腕を(つか)まれた。 「おっと! どこへ行くつもりだ?」  息を呑んで振り向いた先にいたのは、さっき兵士を刺し殺していた、あの海賊だった。 「は、放せ!」  エルは腕を振りほどこうと()()いたけれど、男の腕は()(かせ)のようにがっちりと掴んでいて、びくともしない。  ──くそ、力が入らない……!  魔神に生気を捧げたせいだ。エルの抵抗が弱々しいのをいいことに、男はエルの首にロープをかけようとしていた。家畜のように攫っていこうというのだ。エルはさらに激しく抵抗した。 「へへへ、そう暴れるな!」  海賊はいやらしげに笑うと、頭の先から爪先まで、値踏みするように視線を走らせ……エルの顔を見つめて、ハッとした。 「何だお前、男か!」  恐怖よりも、今は無鉄砲な怒りの力が必要だったから、その言い草はかえって好都合だった。 「男で悪いか!」  エルは海賊の顔面に向かって、思いきり頭突きをした。頭頂部の辺りに、海賊の鼻が潰れる嫌な感触があった。 「ぐああ、ちくしょう!」  エルは自分を捕らえる手の力が緩んだ隙に逃れた。くらくらする頭を振ってから、男を見る。血走った目には、案の定、怒りの炎が燃えていた。  男はロープを投げ捨てると、腰に帯びていた三日月刀(シミター)を抜いた。 「いつもなら生け捕りにするところだが、お前は別だ……!」  海賊の殺意にあてられて、一瞬頭が真っ白になる。けれど、気を取り直した。 「まだ、死ぬわけにはいかない……!」  エルは辺りを見回して、武器にできるものがないか探そうとした。だが、周囲には踏み荒らされたご馳走だとか、千切れた服の一部しか見当たらない。辛うじて銀の大皿を手に取ったエルは、それを盾のように掲げてみせた。  手に力が入らないけれど、抵抗する意志だけでも示したい。 「それで身を守ろうってのか? 馬鹿め……」  海賊はざらついた声であざ笑い、三日月刀(シミター)を構える。そして大きく振りかぶり、エルに向かって大きな一歩を踏み出した。  目を閉じ、身を縮め、糖蜜まみれの盾を掲げて一撃を受け止めようとしたその時──真横から、何か重たいものにぶつかられた。 「うわっ!?」  体が、ふわっと宙に浮くのを感じた。そして目を開けた瞬間、真っ黒な海が目の前に迫っていた。 「──っ!」  水面にぶつかる前に、エルは本能的に深く息を吸い込んだ。次の瞬間には衝撃が来て、海に沈んだ。  何が何やらわからず、真っ黒の海の中で闇雲に藻掻いた。すると、誰かがエルの腰を抱いて、海面へと導いてくれた。 「ぷはっ!」  やっとの思いで水面に顔を出すと、目映い月明かりのおかげで救世主の顔を見ることができた。  そこにいたのは、エルのお気に入りの、あの護衛だった。 「何で……」 「この馬鹿たれ(アプタル)!」  大きく(あえ)ぎながら、男は言った。 「丸腰で海賊に立ち向かうなんて、何を考えていたんだ!」 「だって──」  言い訳をしかけて、思い直す。 「そっちこそ、護衛のくせに何してたんだよ!」 「お前たちを守ろうとしていた」  そう言った男の声には悔しさが(にじ)んでいた。 「だが、俺以外の護衛は皆、敵に寝返るか、殺された。俺は、お前だけでも守れるならと──」  その時、二人の背後から声が上がった。 「二人逃げたぞ! あそこだ!」  海賊たちが放つ矢がいくつか近くに落ちる。男は舌打ちをして、エルを抱いたまま泳ぎ始めた。  女神に願ったはずの嵐は、まだやってこない。ならば、自力で逃げおおせるしかない。  エルは、恐れが声に出ないように気をつけつつ尋ねた。 「逃げ切れると思う?」 「逃げ切れなかったら、死ぬ」  その返事を聞いて、エルはこれ以上質問するのはやめようと思った。  彼がなんと言おうと、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。自分には、果たすべき使命があるのだから。  矢の届かない範囲までなんとか泳いで逃げられたものの、海賊たちは諦めなかった。連中は小舟に乗り込み、こちらに向かってこようとしている。 「クソ……やけにしつこいな。お前、奴らを怒らせるようなことでもしたのか?」 「そんなわけないだろ!」  エルは怒鳴ったが、彼は納得していない様子だった。 「どうだかな」 「そんなことより、もっと速く泳がなきゃ!」  エルも必死に足をばたつかせてみたが、今まで一度も泳いだ経験がないからちっとも勝手がわからない。  そのうちに、海賊の小舟はどんどん接近してきた。 「追いつかれる!」 「いいから足を動かすんだ!」  満月の明かりに顔がはっきり見えるくらいまで、海賊たちが近づいてきた。小舟の上では「灯りをよこせ!」「俺がやる!」といった声が聞こえてきている。  ──もう駄目かもしれない。こんなところで、死ぬはずじゃなかったのに。  エルが絶望に心を絡め取られそうになった時──大きな雷鳴が(とどろ)いた。  どこからともなく湧いてきた黒雲が月を隠し、辺りが不気味な闇に包まれる。生ぬるい風が吹き始めると、はっきりと、雨の匂いを嗅ぎ取れた。 「……嵐だ」  その時、雲間に現れたものを見ることができたのは、超常を視る紫の瞳を持つ、エルだけだっただろう。  明滅する雷雲の切れ目を、黒々とした(うろこ)の、大蛇の尾がのたくる。それは嵐を(はら)んだ雲を掻き混ぜ、旋風を巻き起こした。海が泡立ち、(うめ)きながら波が高まる。  エルの呼びかけに応えて、大いなる蛇の女神が顕現したのだ。  エルは、思わず呟いていた。 「ああ、ラマシュよ……!」  さっきまで()いでいた海が嘘のように表情を変え、波が大きくうねり始める。小舟に乗った海賊たちは、慌てて帆船へと方向転換した。  だが、彼らが船に辿り着くことはなかった。天から降ってきた目映い閃光(せんこう)が小舟を直撃したのだ。燃え上がる小舟の上で、雷に打たれた海賊たちは耳を(つんざ)くような悲鳴を上げた。  その様子を見て、エルは有頂天で歌った。 「『我が敵を波間に沈め、冥海の底で果てさせたまえ!』 ざまあみろ海賊ども! わははは!」  大きく盛り上がった波に乗ったエルは、眼下で狼狽(ろうばい)している海賊たちを見下ろして高笑いした。 「この嵐はお前の仕業なのか!?」  男が、なぜか怒ったような声で言った。 「ああ! これであいつらは追ってこられない!」  すると彼は、深く大きなため息をついた。 「それで、嵐の中、海を漂っている俺たちはどうなると思うんだ?」  得意な気分が、パチンと爆ぜた。 「……あー……」  そのことは、これっぽっちも考えていなかった。  エルが取り繕うような何かを口にしかけた時、大きな波が二人を飲み込んだ。  そこから先は、ただただ怖ろしいまでの混沌が、二人を待ち受けていた。

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