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〘 2 〙今に見てろよ-1
初めて死の姿を見たのは、十二年前。エルが五歳の時のことだ。
その頃、エルには母がいて、父がいて、一族がいた。故郷があった。
エルの一族──レヴィ族の住み処は、砂漠。信仰するのは、大いなる蛇の神ラマシュだ。
この地に在る神々は、いずれも光と闇、両方の性質を持っている。光の性質が強いものは善神と呼ばれ、大いなる闇を抱えた神は邪神と呼ばれる。
かつて強大な力を誇り、信仰を集めた邪神。だが、長い歴史の中で、邪神たちは信徒共々討ち滅ぼされてしまった。人間に毒の使い方を教えたラマシュもまた、〈夜の神殿〉と呼ばれる場所に封じられた。
どれほど強力な神でも、その存在を人びとに忘れ去られれば力を失う。だがラマシュは、レヴィ族からの信奉によって存 えた。
ラマシュは見返りとして、レヴィ族に力を授けた。蛇の魔力を、歌と踊りによって顕現する力だ。こうして、レヴィ族は歌や踊りを生業にしながら、ラマシュが座す〈夜の神殿〉の守り手を務めた。
今でこそ、『レヴィ族は邪神信仰の異端者だった』とか、『邪な業を駆使する毒使いの群れだった』などと言われている。けれど、幼いエルにとっては、彼らは大事な家族だった。
日々の暮らしは平和で、安らぎと笑いに満ちていた。
あの男が、ラマシュの怒りに触れるまでは。
あの日……エルは初めて死の姿を見た。全てを呑み込み、迫り来る黒い澱 み。圧倒的な恐怖を伴い、エルから全てを奪った、呪いの奔流。
あの日の出来事を、エルははっきりと覚えている。丘の上に姿を現した、真っ黒な海のことを。
「母さん! あれは何?」
それは、呪いだった。ラマシュの聖域が侵され、神の怒りが呼び覚まされた証しだ。五歳のエルにも、それが怖ろしく禍々しいものだということは理解できた。
「逃げるのよ、エル! 母さんにしっかり掴まって!」
母はエルを抱いたまま、一目散に砂漠を走った。エルは母の肩越しに、背後で何が起こっていたのかを全て見ていた。
最初、黒い海の侵攻はゆっくりに見えた。だがそれは思い過ごしで、海は瞬く間に砂漠を覆い尽くした。一族のテントや、逃げ惑う人びとを次々と呑み込んでいった。
黒い水面からは無数の腕が突き出していて、それが四方八方に伸びては、ゆくてにあるものを貪欲に掴み、濁流に引きずり込んだ。
幼いエルには、そうした光景が現実とは思えなかった。あまりのことに、感情が麻痺 してしまっていたのだ。
母は灌 木 に繋 がれていた駱 駝 の背にエルを乗せると、エルの手と手綱とを紐で縛り付けた。
この時になってようやく、エルは終わりが近づいているのを察した。
「いやだ! やだよ、母さん」
「生き延びるのよ、エルヴァン」
迫り来る呪いの気配に、駱駝は落ち着かなげに足を踏みならす。その背にしがみつきながら、エルは母にも手を伸ばそうとした。
「母さんも一緒がいい! 一緒に来て──!」
母がエルの手を取ることはなかった。代わりに、母は駱駝を繋いでいた戒めを解き、尻に鞭 を入れた。駱駝は悲鳴を上げて、一目散に駆けだした。
「母さん!!」
「生きて、エルヴァン! わたしの──」
その後、彼女が何を言おうとしたのかはわからない。エルが見ている前で、彼女もまた、呪いに呑まれてしまったから。
「お母さん……!!」
疾駆する駱駝の背の上で、エルは自分の故郷が失われてゆく光景から、一瞬たりとも目を離さなかった。
そして昨夜、エルは十二年ぶりに死を見た。あの日と同じ、黒い海の姿をして、命を呑み込もうと襲いかかってきた。目を灼 く稲光と容赦ない風、天地もわからなくなるほどの荒波に揉 まれて……いつの間にか気を失っていた。
~ ・‖・ ~
あれから、どのくらい時間が経っただろうか。
眩 しい朝日に照らされて、エルは意識を取り戻した。
最初に気付いたのは、腹の下にある砂浜と、背中にのし掛かっている何かの存在だった。
「ん……」
嵐にもみくちゃにされて痛む身体を、どうにか動かして寝返りを打つ。すると、重たい何かがずるりと滑り落ちた。頭を巡らすと、目の前にあの護衛の顔があった。どうやら気を失っているらしい。
力の抜けた肉体の重みを感じつつ、エルは恐る恐る、男の頬 に触れてみた。砂にまみれてはいたけれど、ちゃんと温かいし、呼吸もしている。
エルは、知らないうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐いた。
男は、エルの背中に腕を投げ出した体勢のまま気を失っていた。砂浜に流れ着くまでずっと、エルを抱いていたのだろうか。
『俺は、お前だけでも守れるならと──』
昨夜、彼は確かにそう言っていた。
皇帝とその一家に忠誠を誓った近衛兵とは違って、彼は金で雇われた用心棒だ。土壇場になって海賊側に寝返っても不思議はないのに、あくまでエルを守ろうとした。赤の他人であるにも関わらず、命を危険に晒 してまで。
呆 れたらいいのか、感謝したらいいのか決めかねたまま、エルは男の顔をじっと見つめた。
──こいつ、頭が悪いのかな。でなきゃよっぽどのお人好しだ。
そう思いつつも、不快ではなかった。一人で生きるようになってから、誰かに守られたのは初めてだった。
「おかしな奴……」
その声に反応したのか、男の瞼 がぴくりと動いた。
「ん……目が覚めたか」
「ああ、うん」
返事をすると、彼は呻きながら身を起こした。背中に感じる重さと温もりがなくなってしまったのを、心のどこかで惜しみながら、エルも砂浜に座った。
男は頭を掻いて、髪についた砂を払った。
「ここに泳ぎ着くまでは起きていられたんだが、その後で気を失ってしまった。お前、怪我はないか?」
「怪我はしてない。けど……」
改めて自分の姿を見ると、ひどい有様だった。首飾りと耳飾りだけは手元に残ったものの、踊り子の衣装はところどころ裂け、海水と砂にまみれてボロボロだ。
「この服、高かったのに」
「服の心配か? 命があるだけでありがたいと思え」
彼はそう言うと、水を吸って重くなった革鎧を脱いだ。濡 れたシャツが肌に張り付いて、見事な肉体美をほとんど露わにしている。逞 しい筋肉と、そこに走るいくつもの傷まで見えた。彫り物の類いもない、飾り気のない体だ。けれど、胸元には馬の頭骨を模した小さなペンダントが揺れていた。
無骨な男が、そんな装身具を身につけているのがなんだか意外で、エルはつい見 蕩 れた。そのせいで、当の本人に話しかけられていることに気付けなかった。
「おい、聞いているのか」
「えっ、なに?」
男はため息をついて、繰りかえした。
「この時期の海流から考えると、俺たちが流れ着いたのはディルハル砂漠の端だと思う」
そう言われても、エルにはピンとこない。西方領 での生活が長いせいで、東側の地理には疎かった。
「……つまり?」
「つまり、最も近い集落まで三、四日かかる」
エルの心を落胆が満たした。あのまま船に乗っていれば、三日後には王都に着いていたはずなのに。
「ここで船を待ってるんじゃ駄目なの?」
そこまで言ってからようやく、皇女の乗っていた船の安否に思い至った。
「もし、あの船が無事だったらの話だけど……」
同じ船に乗り込んでいた、同じ一座の踊り子たちのことを思う。馴れ合うような仲ではなかったけれど、仲間は仲間だ。海賊に攫われたり、嵐で全滅したとは思いたくない。
それに、あの船には皇女が乗っていたのだ。エルを王宮へと導く後ろ盾なのだから、生きていてもらわなければ困る。
「その、きっと無事だよね?」
希望を込めて尋ねると、男は生真面目な顔で考え込んだ。
「おそらくはな」
答えはそれだけだった。エルを安心させるような言葉を付け足してくれるつもりはないらしい。
「もし船が無事なら、この海域でぐずぐずするようなまねはしないはずだ。おそらく、一目散に王都へ向かう」
「そう……」
半分だけホッとしつつ、エルは言った。
「とにかく、ここには留まれない。俺たちを襲った連中はしばらく追ってこられないだろうが、別の海賊に見つかったら今度こそ捕まる。ここは連中の縄張りだからな」
エルはゴクリと生唾を飲んだ。
「なら、皇女様たちに合流するには、俺たちも王都を目指すしかないってことか……」
「そうだな。だが──」
彼は内陸へと鋭い目を向けた。エルも同じ方向を見てみたけれど、どこまでも続く砂地以外に見えるものはない。
「ここから王宮まではひと月ほどかかる」
「ひと月も!?」
エルは思わず立ち上がりかけて、目眩 を起こしてまた座り込んだ。
男は考え深げにため息をついた。
「この期に乗じて逃げようとしても無駄だぞ。この砂漠を、お前のような素人がひとりで渡るのは無理だからな」
予想外の言葉に、エルは首を傾げた。
「逃げるって、なんで」
男はエルの質問に耳を貸さず、話し続けた。
「いいか、俺にはお前を王宮まで送り届ける義務が──何?」
怪 訝 そうにこちらを見る彼に、エルは改めて質問をし直した。
「だから、どうして逃げなきゃいけないんだよ。俺は王宮に行きたいんだ」
男は、今度は虚を突かれたような顔をした。
「……お前、本気か?」
「そうだけど」
男の表情がますます怪訝になる。
「だってお前、男だろう。王宮の、それも後宮 に仕えるとなったら──」
「ああ……なるほど」
彼の言いたいことはわかる。
王都に着いたあかつきには、エルたち踊り子は皇帝の後宮 に仕え、四〇〇人を超す妾 の目と耳を楽しませることになる。妾たちと同じ奴隷 として、時に皇帝や、その配下の者たちに召されることもあるという。
それだけではない。後宮 に出入りする男は、例外なく去勢されるのだ。
だがエルには、何を犠牲にしてもやり遂げなければならない使命があった。
それが叶うのなら、身体の一部を失うなど、なんてことはない。長い間計画を立て、技を磨き、ようやく手に入れた好機だ。海賊に邪魔されたからといって、諦めるわけにはいかない。
だが、その決意を彼に明かすつもりはなかった。
「一生食うに困らない、贅沢 な生活ができるんだ。ナニを切られたってどうってことないよ」
堂々と言ってのけると、男は呆れたように鼻を鳴らした。
「お前な……」
「俺を取り逃がしたら困るのはあんたの方なんだから、もっと喜べば?」
「ああ、まあ、そうだな」
男は、まだ呆気にとられたような顔でそう言ってから、フッと微笑んだ。
「殺されかけて、遭難して……それでもそんな大口が叩 けるんだから、たいした奴だよ、お前は」
彼の笑顔を見たのは、これが初めてだった。なぜか、エルの首筋から頬にかけて、火がついたようにカッと熱くなる。
「まあ、ね」
モゴモゴと、そんな返事しかできなかった。
いつも仏頂面のこの男が笑ったら、印象がガラリと変わるはずだと思っていたが、本当にそのとおりだ。今まで冷たく固い石ころだと思っていたものに触れたら、思いがけず温かく、柔らかな質感の何かだったと気付いたみたいな。
──この男、旅の道連れにするにはそう悪くないかもしれない。
そしてすぐさま、計算高くこんなことを考えた。
有能だし、仕事を全うする覚悟もある。彼がいれば、きっと王都まで辿り着ける。
彼を自分の味方につけて、これからも俺の用心棒でいてもらわないと。
「あんた、名前は?」
男はエルを見て言った。
「アスランだ」
「アスラン……いい名前だね。俺は──」
「エルヴァン・バイラム、だろ」
名前を覚えられていたことが意外で、エルは目をぱちくりとさせた。アスランは少しだけ躊躇 った後、なぜか決まり悪そうに付け加えた。
「皇女様がお前の名を呼んでいたから、覚えただけだ」
「嬉 しいよ、覚えてくれて」
魚が釣り針をつついたときのような、微かな手応えを感じる。内心の計算高さを隠しつつ、エルは微笑んだ。
「俺のことはエルって呼んでくれればいいから」
そしてエルは、自分がほとんど裸に近い姿であることを意識しながら、アスランにしなだれかかった。
「俺、一緒に遭難したのが、あんたで良かったな……」
甘い声でそう囁 くと、大抵の男は警戒を緩める。今までにもこうして、何人もの男を操り、裏を掻いて、自分の望むものを手に入れてきた。そうして、ここまで這 い上がってきたのだ。エルは色仕掛けの手腕にはかなりの自信を抱いていた。
それなのに、アスランはあっけらかんとこう言っただけだった。
「そうか」
──『そうか』?
落胆を隠しながらも続く言葉を待っていると、アスランは何かを思いついたようにくつくつと笑った。エルは堪えきれずに尋ねた。
「何が可笑しいんだよ」
すると、アスランはこう言った。
「いつまでそんなことを言っていられるかと思ってな」
「どういう意味?」
「俺は砂漠には慣れてるが、お前みたいな小動物の扱いは慣れてない。手加減はしてやれないからな」
アスランは立ち上がり、エルの頭をくしゃっと撫でた。
「つまり、砂漠を横断するのは生半可じゃないってことだ。さあ、準備を始めるぞ」
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