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〘 3 〙約束
ラマシュの魔法には、代償が伴う。その一つが、一時的に生気を失うこと。もう一つが、ラマシュ自身の闇に囚われることだ。
古き神々は、いずれも光と闇の性質を併せ持っている。
人びとの信仰心を拠り所に存える神々は、その存在を忘れられるほどに力を失ってゆく。そうして零落した神はもはや『神』ではなくなる。
あるものは闇の性質に呑まれて『悪い魔神』や『悪い精霊 』となり、またあるものは『良い魔神』『良い精霊 』として人間を助けた。
光と闇の間 を漂いながら、神と魔神の境界に身を置く存在もいる。それが蛇の女神、ラマシュだ。
ラマシュの存在を理解するのは難しい。快く力を貸してくれたかと思えば、引き換えに悪夢を見せたりもする。いかにも、光と闇の性質を併せ持つ神のやりそうなことだ。
ラマシュが見せる悪夢には、いつでも『過去』が含まれていた。
決して取り戻せない過去。責任を果たすべき過去。心に恐怖を刻みつけた過去。それ以上にエルを苦しめるものはなかった。
その夜エルの眠りを訪れたのも、そうした過去の一幕だった。
それは、エルが犯した最初の過ちにまつわる記憶だ。
まだ、エルの目が常人と同じ茶色の瞳をしていた頃、大人たちから『絶対に近づいてはいけない』と言われていた聖域〈夜の神殿〉に忍び込んだ日の記憶だった。
その日、エルは親友のセリムと一緒に神殿へ向かった。
大人たちから散々聞かされてきた神殿にまつわる怖ろしい話──それが本当かどうか、確かめずにはいられなくなったのだ。
大人たちの目を盗んで、神殿へと続く道を二人で歩く。その道すがら、エルはセリムに尋ねた。
「ラマシュはもともと天の国にいたんだけど、ある日追い出されて落っこちて、そのままここの地面に埋まったんだって。本当かな」
「そんなの、おとぎ話に決まってるだろ」
「じゃあ地面の底で、自分を追い出した神様にずっと怒ってるって話は? だから、長老じゃないひとが近づくと呪われるんだって、みんな言ってるよ」
「みんなが言ってるからって、本当とは限らないじゃないか」
だから確かめに行くんだろ? とセリムは言った。
「うん!」
ワクワクしながら、エルは元気よく頷いた。
今思えば、とんでもなく無謀で、不遜で、罰当たりな思いつきだった。けれど子供の頭には、それが名案に思えたのだった。
エルより三つ年上のセリムは、踊りは不得手な代わりに、よく本を読む子供だった。少し気取ったところがあって、腕力にものを言わせる子供たちからは馬鹿にされていた。だからこそこうして、自分の度胸を試すような冒険に挑もうとしたのかもしれない。
けれどエルは、セリムを頭でっかち呼ばわりする他の子供とは違っていた。エルはセリムの物知りなところや、他の子供たちとは違う考え方をするところを尊敬していたのだ。だからこそ、二人は親友になれたのだった。
〈夜の神殿〉は小高い丘に築かれていた。石造りの東屋のような、特に目立ったところもない建物だ。だが、それは地上に見えている部分に限った話。
神殿の本体は地下にあった。
東屋の中央に設えられた台を動かすと、地下深くへと続く階段が姿を現す。扉の開け方は大人たちだけの秘密だったけれど、セリムが偶然その手順を見て、覚えてしまったのだ。
エルとセリムは、歯車とレバーからなる鍵を解除して扉を開けた。そして、現れた地下への入り口に立ち尽くした。
地下から吹いてくる冷たい風に身を震わせつつ、エルが言った。
松明を手に、階段を半分ほど降りたところで、エルは内心、後悔し始めていた。
この地下の空間はとんでもなく寒いし、嫌な空気に満ちている。息をするだけで、口の中に苦い味が広がるような感じだ。それに、金気臭い匂いをずっと嗅いでいるせいか頭が痛くなってきた。
けれど、セリムはエルほど苦しんではいないようだった。
「もうすぐだ、エル。頑張れ」
「うん……」
二人は壁に手を這わせながら、段差の大きな階段を少しずつ下りていった。
とうとう、階段の終わりが見えてくる頃には、エルの呼吸は乱れ、今にも吐きそうな気分だった。
「さあ、いよいよラマシュとご対面だ」
そうおどけてみせるセリムは、そこにラマシュがいるとは信じていないような口ぶりで言った。
けれどエルは、そこに確かに、怖ろしい何かの気配を感じていた。
階段の最下段に待ち受ける、小さなアーチ状の入り口をくぐると、目の前に広大な地下空間が開けていた。
それはずっとずっと大昔の、エルの頭では想像もつかないほど太古の昔に生み出された洞窟だった。
松明のちっぽけな光では照らしきれないほど高い天井に、澱んだ空気。聳 え立つ乳白色の鍾乳石 は、火明かりを受けて妖しげに光っている。
「なんだ、ただの洞窟じゃないか」
セリムがつまらなそうに言う。だがエルは、それに答えるどころではなかった。
暗闇に屹立 する牙のような、ほの白い岩の列。その向こうに、何かがいる。
言語を絶するほど強烈な怒り。幾星霜にわたって練り上げられてきた憎しみを抱えた何かが、闇の中にいるのだ。
「あ、……っ」
セリムに警告したかったけれど、恐怖のあまり声が出ない。
その時、闇の奥で、それが蠢 いた
それはエルに気付き、存在を認知した。エルにはそれがわかった。禍々しい闇の目が、自分をひたと見つめているのがわかった。
自分とは比べものにならないほどの力を持つ存在が、エルを値踏みしていた。注視する視線は、牙のようにエルに食い込む。
「……っ!」
逃げられない、とエルは思った。
肌が総毛立ち、内臓が渦巻き、頭の中身がグズグズに溶けてしまったような気がした。
次の瞬間、目の前が暗転して、エルは暗闇に取り残された。セリムが持っていた松明が消えたのかと思ったけれど、そうではなかった。
後でセリムから聞いた話によれば──その時、エルは小さな悲鳴を上げて、倒れ込んでしまったのだという。白目を剥き、手足をびくつかせて震えるばかりで、呼びかけても返事はなかったらしい。
だが、エルには確かに意識があった。何者かがエルの頭の中に入り込み、会話をしようとしていたのだ。
会話の相手は、言葉を使わなかった。姿も見えず、声も聞こえなかったけれど、それまでに習ったことがないような動きと歩法が、エルの脳裏に刻み込まれた。
まるで、食い込んだ牙から毒を注入されるみたいだった。焦がすような感触を伴って、怖ろしい量の知識がエルの頭に焼き付いてゆく。
エルにはわかった。それは贈り物なのだと。
痛みに耐えながら、真っ暗な意識の中でエルが視ていたのは、屹立する鍾乳洞の奥で絡み合う、巨大な二匹の蛇──光と闇の色をした大蛇が、互いの尾に噛みついたまま蠢く姿だった。
ぬらぬらと不思議な輝きを放つ鱗を軋 ませながら、爛々 と輝く二対の双眸はエルにひたと据えられている。その目には、子供には受け止めきれないほど重く、退けることさえ許されない期待が宿っていた。
ラマシュからの贈り物を、エルは受け取ってしまった。
「あ……あ……!」
エルが意識の深層で藻掻き、暗闇を抜け出そうとしている間、セリムは暴れるエルをどうにか背負い、長い階段を一人で上がって地上に戻った。
後に意識を取り戻したエルは、集落の長老全員に囲まれた。
エルの瞳は、茶色から紫色に変わっていた。ラマシュから超常を視る目──魔眼を授けられたのだ。
ラマシュがエルに授けたのはそれだけではない。
地下で何が起こったのかを話すと、踊りの師である最長老が、エルの背中に筋張った掌を置いた。
「ラマシュはお前に、さまざまな歌と踊りをお教えになったのだね。かつて我らの始祖が、ラマシュから教えを授かった時のように」
エルは頷いた。頭の中には、今も無数の振りと旋律と言葉とが、ぐるぐる渦を捲 いている。
「お前の頭には、わたしらが大事に教え伝えてきた技もあれば、とうの昔に失われてしまったものもあるようだ」
長老は、そこで表情を強ばらせた。
「中でも〈抱擁する者 の舞〉と呼ばれる舞は……ラマシュに選ばれた者にしか舞うことを許されない、秘伝の中の秘伝なのだよ」
〈抱擁する者 の舞〉と聞いただけで、エルにはそれがどの踊りを指すのか理解できた。わからないのは、どんな魔法の力を持つか、だ。
「あれは……どういう踊りなの?」
「それはな、エルヴァンよ──我らの敵の前で踊るべき、唯一の踊りだ」
長老は重々しい言葉で、包み隠さずに教えてくれた。そしてエルは、自分が怖ろしい力を得てしまったことを知った。
ラマシュの寵児 ──長老たちは、エルをそう呼んだ。
自分自身が怖くて、ラマシュが怖くて、しばらくは夜も眠れなかったのを覚えている。
けれど……それは、遠い昔の話。
~ ・‖・ ~
「おい、エル。起きろ」
夜明け前、エルはアスランに身体を揺さぶられて目覚めた。
夢の余韻は、最悪の後味のようにエルの中に居座っていた。こめかみを鉄釘で貫かれるようなひどい頭痛と、倦怠感 もある。
子供の頃、ラマシュの魔法を訓練する時にも味わっていた、懐かしくもありがたくない感覚だ。あの時は大人たちが側で世話してくれていたけれど、今は一人で対処しなければならない。
ラマシュの魔法を使えば使うほど、悪夢に蝕 まれ、自分自身も闇に染まってゆく。だから、軽々しくラマシュの力を借りてはいけないのだ。
ここから先は、ラマシュの魔法に頼らずに済めばいいけれど。
エルはゆっくりと身体を起こして、深呼吸をした。
痛む背中を伸ばし、眠い目を擦りながら、頭に浮かんだままの疑問を口にする。
「……王宮まで、あとどれくらい?」
「教えたらがっかりする程度には長い」
アスランはそう答えながら、身支度を進めていた。
エルは、昨晩食べ残したデーツを無理やり口に入れて、意志の力だけで飲み込んだ。水筒の中の水は、辛うじて口を潤せる量しか残っていない。摂取できる水分や栄養は、どんなものであろうとありがたく思わなければ。
その時、アスランが持ち上げた鞄 の下から、小さな影が走り出てきたのが見えた。エルはハッと息を呑んでから、慌てて指さした。
「アスラン! そこ! 蠍 だ!」
砂色の蠍は、エルの掌ほどの大きさがある。寝床にしていた鞄を奪われて怒っているのか、毒針の付いた尾を高く掲げている。
だが、アスランはまったく動じた様子もない。
「ああ、ちょうどよかった」
「──ちょうどよかった?」
混乱するエルを尻目に、アスランは落ちていた木の棒を手に取り、蠍に向かって差し出した。蠍がすかさず木の棒に毒針を刺すと、アスランはそのまま蠍を押さえつけ、ナイフで尾を、次に頭を切り落とした。
何をするつもりなのかと様子を窺っていたエルの脳裏に、嫌な予感が閃 く。
「まさか、嘘だろ……」
アスランはエルをジロリと見て、「嫌なら目をつぶっておけ」と言った。そして、蠍の尾をつまんで持ち上げ、口を大きく開き……。
「やだやだやだ、やめろよそんな──」
まだピクピク動いている蠍が、アスランの口の中に消えていった。
「うわ、うわぁぁ……」
ボリボリという音が、静まり返った砂漠に響いた。
摂取できる水分や栄養は、どんなものであろうとありがたく思わなければと決意したばかりだったが、蠍を生で食べる覚悟なんてできていなかった。
アスラン自身も、これを楽しんでいる様子はない。必要に駆られて……というのはよくわかるが、それでもエルは、顔に浮かぶ嫌悪の表情を隠せなかった。
アスランはそんなエルを横目でチラリと見てから、口に残った殻を砂の上に吐き出し、警告するように言った。
「味のことは聞くなよ」
「わかった」
エルは神妙に頷いてから、尋ねた。
「で、どんな味?」
アスランは顔を顰めつつ、渋々答えた。
「砂混じりの腐った海老の味だ。次に見つけたらお前に食わせてやるよ」
「遠慮しとく……」
あの虫の後味が消えるまでは、彼の唇を奪うことを考えるのをやめておこう、とエルは思った。
「おい、こっちを向け」
「なに──」
振り向くと、アスランに顎を掴まれた。
キスのことを考えていたせいで、心臓が跳ね上がる。その瞬間、アスランの舌にまだ残っているはずの蠍の後味のことは完全に忘れていた。
「……っ」
目の前に迫る彼の顔にドギマギしている隙に、アスランの親指が、エルの下まぶたの辺りに伸びる。
「ちょ、何──?」
身構えたが、どうやらキスするつもりではないらしい。アスランはエルの両目の下に、得体の知れない黒い粉をたっぷりとなすりつけていた。
「これ、何」
「焚き火に残っていた炭だ。目の下に塗ると照り返しを防いでくれる」
「ああ、そう……」
気遣いはありがたいけれど、自分が今、どんな格好をしているのかを見るのがますます怖い。おんぼろの服を着なきゃいけないばかりか、目の下に炭まで塗るはめになるとは。
鏡が欲しくてしかたがなかった。小さな手鏡でもあれば、少しくらいは身繕いができるだろうに。
そういえば、もう三日も風呂屋 に行けてない。自分の身体からどんな匂いがしているかと思うと、ゾッとした。
とはいえ、ほとんど同じ格好をしているはずのアスランは、相変わらず見目麗しく見えた。
間に合わせのターバンを巻き、シャツもズボンもボロボロで、肌は砂と埃 にまみれている。それなのに見 窄 らしくない。目の下に無造作に塗った炭さえ、彼の荒々しい魅力を引き立てている。
それはきっと、彼がこの過酷な環境を楽しんでいるからだ。
以前は、砂漠で隊商 の護衛や旅行者の道案内をしていたと言っていた。きっと、それが彼の天性なのだろう。
「おい」
考え事に沈み込んでいたから、アスランにいきなり肩を掴まれた時、エルは思わず変な声をあげた。
「えっ!?」
アスランはエルに身を寄せると、エルの頭を横に向けさせた。
「あれが見えるか?」
「あれって何──うわ」
視界の先にあるものを見て、エルはアスランが何を言おうとしているのかを理解した。
砂漠での暮らしから遠ざかり、過酷な旅暮らしを知らない身でも、説明してもらう必要もないほど明らかな兆候──聳え立つ煙の壁が、視界いっぱいに広がっていた。
「砂嵐……」
「まだ遠いが、こちらに向かってきている。いくらもしないうちに、ここも呑まれる」
アスランは強ばった声で言った。
不意に、エルの耳にも、びゅうびゅうと吹きすさぶ風の音が聞こえはじめる。どれだけ急いで走っても、逃げ切れずに呑まれてしまうだろう。
その恐怖に、エルの心臓が痛いほど激しく鼓動した。
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試し読みはここまでになります。
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