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〘 2 〙今に見てろよ-3

 夕方になると、旅を再開した。  木陰から木陰へ、緑から緑へと辿り、目標を見失ったら高い場所に登り、次の目的地を決める。そんな風に歩くうちに、昼間の灼熱(しゃくねつ)が嘘のように、空気が冷え込み始めた。 「あの木の下で野営する」  アスランが野営地に定めたのは、(なつめ)椰子(やし)の木陰だった。オアシスと言うには物足りないけれど、野営地としては充分だ。  エルが砂の上に腰を下ろして痛む脚をさすっている間に、アスランは寝床をこしらえ、散らばっていた椰子の皮で火を(おこ)し、木になっていたデーツを手に入れていた。 「まだ熟れてないが、栄養補給にはもってこいだ」  アスランは、実が十個ほどついている房をエルに手渡した。エルはそれを受け取って、一つもいでみた。  親指の先ほどの実は緑色で、皮には細かな(しわ)がある。熟れたデーツの砂糖漬けはエルの大好物だ。  一日中歩き回って、空腹が限界を迎えそうになっていたエルは、ありがたくその実に(かじ)り付いた。そして、あまりの苦みに顔を顰めた。 「んう!」  エルの様子に、アスランはニヤリと笑った。 「まだ熟れてないと言っただろ」  そう言って、自分の分の実を口に放り込んだ。 「美味くないからって吐き出すなよ。ここでは、手に入る栄養源は一つも無駄にできないからな」  負けず嫌いな性格が幸い──いや、災いか? ──して、エルは涙目になりながらも、どうにか実を飲み込んだ。アスランは賞賛するように小さく眉を上げた。 「お見事。まあ、熟れてないデーツなんかまだマシな方だ」 「これよりもっとマズいのがあるの?」  まあな、とアスランは言ったが、教えてくれる気はないようだった。 「心配するな。味がマシなものはお前に回すよ……なるべくはな」 「ハ、ハ。ありがたくて涙が出る」  エルは肩をすくめ、残りのデーツに取りかかることにした。  野営の準備を始めた時には西空に残っていた黄昏の炎もいつの間にか絶え、砂漠は夜の闇に包まれていた。辺りが暗くなり、冷え込みが強くなるにつれて、パチパチと音を立てて燃える火明かりと、その熱が存在感を増してゆく。  ここまで歩いてきた疲れもあって、二人の口数は減っていった。舌を喜ばすのではなく、栄養を得るためだけにする味気ない食事を黙々とこなしてゆく。  だが、どういうわけか、沈黙が少しも苦にならなかった。  エルは、静けさというものにあまり馴染みがなかった。街での暮らしは賑やかだったし、踊り子として、宴席や(ねや)でのひとときを盛り上げる話術は必須だ。だから、沈黙をいいものだと思ったことは一度もなかった。  けれど今、名前しか知らないような男とマズい夕飯を共にしつつ、()き火を囲んで黙り込んでいるこの状況が……嫌ではなかった。  刻一刻と濃さを増してゆく夜の闇。暖かな火明かりが、アスランの謎めいた顔を浮かび上がらせている。彼は焚き火を見つめたまま、何かを考え込んでいるようだった。明日の行程か、それとも遠い過去に思いを()せているのか。  厳しさと優しさ、生真面目さと諧謔(ユーモア)とが不思議と入り交じった表情に、エルはしばらく見入っていた。  不意に、今までさして興味がなかった、アスラン自身のことを知りたくなった。 「砂漠の旅に慣れてるみたいだけど、船に乗り込む前は何をしてた?」  アスランは顔を上げた。彼はエルを見つめたまま、またしても考え込むような沈黙を挟んでから、こう言った。 「……いろいろなことをした」  エルは不満を思いきり顔に出してしまった。 「なんではぐらかすんだよ。せめて、どうして砂漠に詳しいのか教えてくれたっていいだろ?」  すると、アスランは初めて、警戒するような眼差しをエルに向けた。 「知ってどうする。散々ちょっかいをかけておいて、俺に興味など抱いていなかっただろう」 「それは……まあ」  図星を突かれて、思わず言いよどむ。 「王都までの付き合いだと思ってたからさ。船旅ならあっという間に着いてただろうし。でも、今はこうして文字通り命を預けてるんだ」  アスランは、一理あると言いたげな顔をした。勢いを得て、エルは誘いかけるように微笑みつつ、とっておきの低い声で言った。 「なら、お互いに知り合ったって損はない……だろ?」  誘惑は、またしても功を奏さなかった。これが都会の気取った金持ち連中なら、今の言葉だけでこっちの(もも)に手を這わせてくるだろうに。  エルの誘いに乗る代わりに、アスランは子供のわがままを聞き入れる大人のようなため息を一つついて、「そうだな」と呟いた。 「以前は、砂漠で隊商(キャラバン)の護衛や旅行者の道案内をしていた」 「……それだけ?」  上目遣いで尋ねるも、アスランは「今夜のところはな」と答えただけだった。代わりに、彼はほんの少し身を乗り出して、エルに顔を近づけた。 「お前はどうなんだ。ヤルマーで評判の踊り子だったとは聞いたが」 「評判だなんて言葉じゃ生ぬるいね」  故郷を失って各地を彷徨(さまよ)った後、街の踊り子一座に加わったのが七つの時だった。そこで踊りの技を磨き、少しずつ名を売った。一座を離れて独り立ちする頃には、あらゆる宴に呼ばれるほどの人気を得ていた。 「西方領(メナン)の総督や高官(パシャ)たちの屋敷に、毎日のように招かれたんだ」  輝かしい経歴の裏に隠した、もう一つの仕事については黙っておくことにした。  踊り子と言ってもいろいろな種類がいるけれど、ヤルマーの芸人一座(コル)に属する踊り子(キヨチェク)と言えば、歌も踊りもこなす男娼(だんしょう)と同義だ。エルは踊り子として表舞台で名声を高めながら、権力者の膝の上では別の踊りを踊った。  そして、エルは有力者たちの閨に出入りする特権を余すことなく利用した。  ベッドの上で天国を味わわせてやった相手を油断させるのは造作もないことだ。エルは邪神仕込みの魔法で相手を眠らせ、金と引き換えに手紙を盗み、情報を横流しし、宝石をくすね、毒を盛った。  そのせいで街の権力構造が入れ替わったことも一度や二度ではなかったが、結果を気に病んだことはない。『邪な業を駆使する』レヴィ族の最後の一人として、その名に恥じない生き方をしてきただけだ。  けれど、そんなことをアスランに話して聞かせる必要はない。エルは小さく微笑んで、自慢げに言った。 「西方領(メナン)の総督に、妾にならないかって誘われたこともあったんだ。断ったけど」  エルの言葉に、アスランはふむ、と呟いた。 「あんな技を持ちながら、地方で(くすぶ)っていたとは信じがたい」  思わぬ言葉に、エルの背筋がピンと伸びた。 「それってつまり、俺の踊りがもの凄く良かったってこと?」 「まあな」  そんな風にまっすぐに賞賛されたのは初めてだった。飽きるほど聞かされてきた回りくどい美辞麗句とは違った味わいがある。  エルは、踊り出したくなるような脚のムズムズを押しとどめ、矜持(きょうじ)を込めてこう言った。 「だろ? 焦がれても、決して手に入らないという傷心を与えるほど素晴らしい──それが、俺の踊り」  エルの踊りを、最初にそう評したのは誰だったか。忘れてしまったけれど、今ではそれが、エルの信条でもあった。誰の力も借りずに生き延びるには、舞台の上でも裏でも、常に相手を利用し、奪うことを考えていればいい。 「傷心か──確かにな」  アスランは小さく微笑んだ。 「多少のことでは動じない自信があった俺でも、思わず見蕩れたよ。せっかく貸してやった襟巻き(ヤズマ)を燃やされたのは、まさに『傷心』だった」  それで思い出した。寒いからと言ってアスランに借りた襟巻き(ヤズマ)を、踊りの最中に惜しげもなく燃やしてしまったことを。 「あー……」 「思い出したか?」  アスランの声には皮肉が混じっていたけれど、彼がエルを見つめる眼差しに怒りはなかった。 「悪かったよ。つい興が乗ってさ」  エルははにかむような笑みを浮かべつつ、焚き火を回り込んでアスランの隣に座った。首を傾げて、すらりとした首筋を見せつける。 「街についたら、ちゃんと弁償させて。今度は俺の香りをつけて返すから」  アスランは小さく片眉をあげたが、身をひこうとはしない。  ──いいぞ。あと、もう一押し。 「それとも……今ここで償うのはどう?」  今度は、アスランの両眉があがった。 「償う? つまり、お前の身体で、と言いたいのか?」 「そうはっきり口に出されると、せっかくの雰囲気が台無しだけど……まあ、そういうこと」  エルは誘いかけるように微笑んだ。妖艶ながら、どこかあどけない表情でアスランを見つめる。  砂漠の歩き方も、火の熾し方も知らないが、男を骨抜きにする方法は心得ている。 『お前の望みなどお見通しだ』と言わんばかりの笑みは、大抵の男をその気にさせる。相手は、そんなエルの思い込みをぶち壊すつもりでのし掛かってくる。エルは自分にぶつけられる情熱の力強さに驚き、圧倒され、「こんな風に抱かれたのは初めて」と降伏してみせる。  これで、一丁上がり。男は、自分こそが一番の情夫だと思い込む。そして、エルのためならどんな願いも聞き入れてくれるようになる。  エルは人差し指で、躊躇いがちにアスランの手の甲を撫でた。 「どうして俺があんたにちょっかいを出してたか……まだわからない?」  エルは睫毛を震わせながら、アスランの瞳を見つめた。  ほのめかしよりも濃厚な誘惑の雰囲気が、霧のように周囲に漂っている。ほんの少しでも身じろぎをすれば、それは受容の合図。唇と唇が重なれば、後は──落ちるところまで落ちてゆくだけだ。  火明かりを受けたアスランの瞳は美しかった。エメラルドのような緑色に赤い炎の欠片が踊っている。ほんの一瞬、策略も計算も忘れて、エルはアスランの瞳に見入った。  とその時、アスランの目が笑いに(ゆが)んだ。口元が震えて、堪えきれないというように噴き出す。そして、彼は大声で笑った。 「もうわかった! 冗談はそこまでだ、黒猫(カラ・ケディ)」  誘惑が失敗したことを知って、エルの頬にカッと熱が昇る。 「冗談なんかじゃ──」  言いかけたエルの頭を、アスランはガシガシと撫でた。 「ちょっと、やめろって!」  その手を払いのけて後ずさる。  アスランはまだ肩を震わせて笑っていたが、ようやく一息つくと、こう言った。 「お前が、布きれ一枚弁償するために身体を売るようなタマじゃないことくらい、俺にもわかる」  エルは一瞬だけ言葉に詰まったものの、なんとか返事をした。 「ま、まあね……」  当たり障りのない返事をしながらも、つい口をついて出かける。  ──俺がどんなにちっぽけなもののために身体を売ってきたか、知りもしないくせに。  だが、飲み込んだ。アスランは知らなくていいことだし、なぜだか、知られたくなかった。 「いいか、エル。お前はもう皇帝陛下のものなんだからな。そういう冗談はほどほどにしておけよ」  アスランはエルの頭をポンポンと叩いて、砂の上に拡げた椰子の葉に寝転んだ。 「明日は夜明け前に発つ。さっさと寝るぞ」 「……はぁい」  力なくそう返事をして、エルは自分の寝床を探した。だが、どこにもない。アスランは自分の分だけ用意したのかと思っていると、アスランが言った。 「何をキョロキョロしてる? お前の寝床はここだ」 「ここって……あんたの隣? それこそ冗談だろ」 「冗談じゃない。さっき、夜は俺の隣で寝ろと言っただろう」  そんなことを、いつの間に言われていただろうか。多分、エルが脚の痛みに気を取られていた時だ。  エルは、風向きが変わったことに気をよくしてにんまりと微笑んだ。 「なんだかんだ言って、あんたも結局──」 「そうじゃない」  アスランは半身を起こして、エルを見た。その目は真剣だった。 「砂漠の夜は寒いんだ。このだだっ広い荒野じゃ、風を遮るものがないからな。油断してると凍え死ぬ──試してみたいのか?」  エルは躊躇った。  たった今、自分の誘いを笑い飛ばしたばかりのこの男の隣で、身体の熱を分け合って眠る? そんなことは矜持が許さない。  けれどエルは、刻一刻と冷え込んでゆく夜の空気に危機感を覚えずにいられるほど、鈍くもなかった。 「……わかったよ」  ()ねた子供のような声が出てしまったけれど、撤回する術もない。  しおらしく、アスランの隣に横になる。 「身体を横に向けろ……そう。俺の腕を枕にしていい」  言われるがままにすると、いつの間にか、アスランの大きな身体に背中からすっぽりと抱かれていた。 「今度は、男くさいとか文句を言うなよ」 「言わないよ、そんなこと!」  男くさいアスランの匂いに包まれて、一瞬だけ、頭がボーッとしてしまっていたエルは、少しやり過ぎなくらい強く言い返した。心臓の鼓動が早まったことに気付かれていませんように、と内心で祈った。 「ねえ、ここまでくっつく必要ある?」  尋ねると、アスランはフンと鼻を鳴らした。 「明日の朝になっても同じことが言えるようなら、お前の不満に耳を傾けてやる。だが、今は文句を言わずに寝ろ」 「はいはい、わかりましたよ」  アスランの腕の中は、気詰まりで、気まずくて……もの凄く温かい。 「あんたって、お腹の辺りに暖炉でも設えてるわけ?」 「よく口が回る奴だな、お前は」  アスランがフッと笑うと、その吐息が耳を(くすぐ)った。 「──っ」 「おい、モゾモゾするな」 「あんたのせいだろ……!」  低い声で耳元に囁かれて、余計におかしな反応が出そうになる。と、その時、尻の辺りに何かを感じた。ずっしりとした存在感。指で触れなくてもわかる。 「なあ、アスラン。これって──」 「言うな」  さっきまでの笑い混じりの声とは打って変わって、わずかに脅すような声色になる。 「生理現象だ。無視しておとなしく寝ろ」  エルの心に、悪戯心が湧き上がる。 「俺はいいけど、あんたは無視できる? すっきりさせて欲しいなら……」 「黙らないと、殴って気を失わせる」 「……はぁい」  アスランの本気を疑う理由もなかったので、エルはおとなしく口をつぐんだ。  背中に感じるアスランの拍動が、ゆっくりと落ち着いてゆく。程なくして、寝息が聞こえてきた。  ──この状況で、よく眠れるよな。  エルがどれだけ誘惑しても簡単には(なび)かないはずだ。どうやら、アスランの心は鋼か何かでできているらしい。  夜が更けるほどに、指先に触れる砂はますます冷たくなっていった。けれど、身体を包み込む温もりのおかげで寒さは感じなかった。彼の言うとおり、こうして身を寄せ合って眠らなければ凍えていただろう。  今のところ、アスランの言葉はおおよそ全てにおいて正しい。だからといって、彼の言葉が何もかも正しいとは思いたくなかった。  ──だって、あれは……冗談なんかじゃなかった。  まあ、計算ずくで仕掛けた誘惑なのだから、本気でもなかったけれど。  それなのに、アスランに笑い飛ばされた時、横っ面を叩かれたような、打ちのめされたような気分になった。  彼を誘惑したのは、自分を護る手駒を手に入れるためだ。とはいえ……認めよう。アスランの身体に興味がなかったと言えば嘘になる。  そう、狼狽(うろた)えたのはそのせいだ。  あわよくば、この温かく力強い手に、我が物顔で身体中を触れられてみたい。洗練など知らない無骨な口づけを受けて、彼の味を思い知らされてみたい。  抑制が似合うアスランが、我を失うところが見たい。獣欲に駆られた表情で、食らいつくような眼差しで、自分を見て欲しい。  そして、その低く豊かな声で名前を呼ばれてみたい。冗談めかした愛称ではなく、本当の名前を呼ばせたい。感極まった声で、何度も、何度も、何度も。 「……くだらない」  ──この俺が、堕とすと決めた標的に振り回されてたまるか。  エルは悄然(しょうぜん)としかけた心を(しか)りつけ、名状しがたい失望を、アスランへの苛立ちに転換した。 「今に見てろよ、朴念仁め」  きっとアスランは、人生の楽しみ方を知らないのだ。だから、こんなに美味そうな(わな)にも引っかからないのだろう。  だったら味見させて、教えてやればいい。そうして、沼に沈めるようにじっくりと、俺に夢中にさせてやる。  ──さっきの身体の反応を見るに、望みがないわけじゃなさそうだし。  街に定住する人びとの間では、同性を愛するのは普通のことだ。一方、遊牧民はそうしたものを嫌うと聞いていた。もしかしたらアスランもその手合いかと思ったけれど……尻に感じたアスランの熱は、思い出してもゾクッとするほどだ。  エルは一人でほくそ笑んだ。  色仕掛けは遅効性の毒のようなもの。焦ってはいけない。これからまだ、いくらでも機会はあるはずだ。  ちゃんとやれる。大丈夫だ。  ──俺ならやり遂げられる。そうでなくちゃいけないんだ。ラマシュが俺を選んだんだから……。  申し開きのように、あるいは連祷(れんとう)のように繰り返しながら、エルはぎゅっと目をつむって、眠りが訪れるのを待った。

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