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シャルルの追憶

研究院に入って二年目。 どの学科に進むか、どの研究室に所属するか──年度が変わる前に決めなければならない。 シャルルは、それまでに院内のほぼすべての研究室を訪れていた。努力家であり、慎重だったからだ。自分が一生背負う“研究の方向”を、間違えたくなかった。 そして今日が、残る最後の研究室。 魔法物理学部・熱力学科 Dr. バイル バイルの噂は嫌というほど聞いていた。 “稀代の天才” “次代の魔導物理を担う男” “学会がひれ伏す計算力”。 期待しかなかった。 廊下の奥、名札のついた扉の前に立つ。 (どんな切れ者が出てくるんだろう……) 軽くノックして、扉を開ける。 「失礼しま──」 その瞬間、思考が止まった。 床には散乱する紙の束。 脱ぎ捨てられた白衣が数着。 飲み終わったマグが机や棚にいくつも放置されている。 その真ん中で、伸び放題の髪が目を隠し、猫背で縮こまった男が、虚ろな表情のままペンをくるくる回していた。 (…………え?) 心の声が漏れ出す。 (これが……“あの”バイル?噂より……ずっとバカそうじゃん……) 「……何か用ですか?」 気怠げに返された声に、慌てて姿勢を正す。 「シャルルと申します。今、研究室を見学しておりまして。お会いできて光栄です、ドクター。」 「あぁ……はい」 淡々と紙をめくり、ほとんどこちらを見ない。 (ダメだ。関わらんとこ。) この日はそれだけで終わった。 しかし、運命はそこで終わらなかった。 希望調査の提出を催促されはじめた頃、廊下に張り出された論文に“バイル”の名を見つける。軽く読むつもりが──息を呑んだ。 完璧だった。構築も、理論も、展開も。どこを切り取っても美しく、隙がなかった。 気付けば、論文のメモを握りしめたまま研究室へ全力疾走していた。 バンッ。 (……勢いが良すぎた……) 驚いたバイルが顔を上げる。 「あのっ! 廊下の論文なんですが──!」 バイルはほんの少しだけ肩を緩めた。 「……はぁ。どうぞ。」 そこから始まった説明は、丁寧で、分かりやすく、核心を射抜いていた。 (……すげぇ。やっぱり天才だ……。それに、すごく優しく教えてくれる……) その日を境に、シャルルは毎週のように研究室へ通うようになった。そのうち、毎日通うほどにまで増えていった。 質問、雑談、手伝い。そんな日々が続き、二ヶ月ほど過ぎた頃。 「先生。俺を助手にしてください。」 バイルは静かに首を振った。 「……君ほどの才を、私に使わせるべきではない。」 (違う。俺が決めたんだ。この人じゃなきゃ嫌なんだ。) だから翌日も、その次の日も言い続けた。 配属の最終希望提出が目前に迫ったある日。 「俺は本気です。必ず助手になります。」 その日のバイルは少しだけ違った。いつもより背筋が伸びていた。 「……君は……。いや、よそう。ここまで言い続けてきたのは……君なりに考え抜いた結果なのだろう。そろそろ所属も決まる時期だと聞いた。なら……少しだけ……助手をしてもらおうかな……」 「ありがとうございます!」 シャルルは満面の笑みを浮かべ、少しだけからかうように続けた。 「でも、“少しだけ”なんて考えさせませんから!」 バイルは困ったように肩を竦めるだけだった。 こうして、二人の物語は静かに動き始めた。 やがてシャルルは、ある決定的な事実に気づく。バイルの生活が、あまりにもだらしなかったということだ。初対面で感じていた嫌な予感は当たっていた。むしろ想像以上だった。 ある日。 「先生。今夜、先生のお宅にお邪魔しても良いですか?」 「家……? 構わないが……私はあまり帰らないんだ。」 「じゃあ、一緒に行きましょう。」 「……はぁ?……わかった。」 (俺が面倒見ないと、この人いつ倒れるか分かったもんじゃない……) 案内された部屋は──研究室とほぼ同じ惨状だった。 「……研究室みたいですね……」 「……私の部屋だからな……」 シャルルは即座に決めた。 「……決めました。俺、ここに住みます。先生の面倒は俺が見ます。」 「えぇ……?私は構わないが……君にはもっと行くべきところがあるんじゃ……」 「いえ。先生が倒れたら困るんで。俺が見ますから。ね?」 バイルはしばらく黙り、最後に小さくため息をついた。 「……わかったよ……。すまないね……シャルルくん。」 その日から、彼らの歯車は静かに動き始めた。

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