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異界の目覚め - 1 -

『……寒い』  頭の中で、誰かが囁いた。  凍てつくような痛みが全身を駆け巡る。 『さみしい……さみしい……』  胸の奥に、重く暗澹としたものが沈んでいく。 『どうして……、…………』  今にも消え入りそうな、囁きよりもかすかな声が、霧のようにほどけて消えていった――。  ◇ ◇ ◇    目を開けると、霞がかった視界に見慣れぬ天井が映った。  何度か瞬きをするうちに視界が明瞭になり、遅れて意識が浮上してくる。 「ここ……どこだ?」  そう呟いた雪吹《いぶき》レンは、次の瞬間、はっとして上体を跳ね起こした。  会社からの帰り道――深夜の人影のない細い路地で、不思議な光に包まれたのを思い出したのだ。声を出そうにも体が動かず、助けを呼ぶことすらできなかった。なすすべのないまま意識を奪われ……気づけばここにいた。  レンは改めて室内を見回した。広々とした部屋のつくりは、映画で見た貴族の館のそれに近い。家具には詳しくないが、バロックだのロココだのといった単語だけがぼんやりと思い浮かぶ。寝台もまた豪奢で、身につけている寝巻きは絹だろうか、驚くほど肌触りがよかった。 「いったい何が……」  呆然とつぶやきながら寝台を降りた瞬間、視界が揺れ、足元がよろめく。支えを求めて伸ばした手が脇台の水瓶に触れ、それはごとりと倒れて水を撒き散らした。  その音とほぼ同時に、扉が開く。あどけなさの残る少年が姿を見せ、レンを見るなりびくりと肩を震わせて固まった。  レンが声をかけるより早く、少年は慌てて部屋を飛び出していった。 「どうなってんだよ……」  レンは少年を追おうと、ふらつく頭を押さえながら寝台を降りた。足先が水に触れ、ひやりとした感触が夢ではないことを告げてくる。膝から力が抜けそうになり、レンは再び寝台に腰を下ろした。  複数の足音が近づいてくる。開け放たれたままの扉から、数人の男たちが一斉に部屋へと入ってきた。先頭に立つ白髪の男が代表者なのだろう。豪華な刺繍の施された服を上品に着こなす初老の彼は、レンへ恭しく一礼し、傍らの者へと目配せした。  白いガウンをまとい、顔の下半分を薄く透ける布で覆った男が、音もなく前へ進み出て一礼する。  なぜここまで低姿勢なのか――疑問を抱くレンの心情を知ってか知らずか、ガウンの男は視線を伏せたまま「お体の具合はいかがでしょうか」と問うてきた。 「どこかお悪いところはございますか」 「……ここは、どこですか?」  答えになっていないレンの言葉に、ガウンの男は一瞬体を震わせたものの、また深々と頭を下げた。 「それについては、私からご説明申し上げます」  そう言ったのは、先頭にいた初老の男だった。 「宰相のルビリアと申します」  ルビリアはそう名乗ると、レンの身に起きたことを説明し始めた。  ここは、クランベル王国のエメル神殿。  この世界には『瘴気』と呼ばれるものがあり、あらゆる生命に悪影響を及ぼす。瘴気が充満すれば、世界は滅びるという。  伝承によれば、世界が四度目の滅びを迎える直前、地上に突如として魔法陣が現れ、そこから神が姿を表した。神は瘴気を祓い、大地に潤いを与え、人々を癒した。こうして、ようやく世界には安寧が訪れた。  しかし神が去り、しばらくすると再び瘴気が世界を蝕み始めた。人々は魔法陣に祈りを捧げた。やがて数十年後、再び魔法陣が光り、神が現れた。  以来、約百年の周期で魔法陣は光り、瘴気を祓う神――『稀人《まれびと》』が召喚されるのだという。 「貴方様が、178代目の稀人様でございます」  そう告げられ、レンは何か言い返そうと口を開いた。けれど言葉はうまく出てこず、虚しく口を開け閉めするばかりだった。 「俺……普通の人、ですよ?」  ようやく絞り出したその声に、ルビリアはまるで予想通りとでも言うように頷いた。 「そちらの世界のことは、私どもも少なからず承知しております」  ルビリアによると、最初は神と思われていた稀人も、交流を重ねるうちに異界から召喚された人だとわかったそうだ。しかし、魔法陣を通して召喚された彼らは、瘴気を祓い、秘術を扱う。それは人の姿をした人ならざる者であると、ルビリアは熱く語った。  ますます理解に苦しむ。大掛かりな芝居に巻き込まれたのか、やたら手の込んだ集団詐欺に逢っているのか。 「秘術って……?」 「稀人様は、私どもをはるかに凌ぐ膨大な魔力と、私どもが持ち得ない秘術をお持ちでございます。大地を緑で覆い、空を晴れ渡らせる――稀人様のお力は、私ども常人には想像もつかないものばかりでございます」  レンは思わず自分の体を見回した。  見た限り変わったところはなさそうだし、力が湧くような感覚もない。 「俺、そういうのないと思うけど……」 「まだお気付きになられていないだけと拝察いたします」  ルビリアは微笑んだ。彼の崇めるような眼差しを見つめ返したレンは、今更ながら、彼をはじめとする全員が日本人離れした顔立ちをしていることに気付いた。 「あの……言葉は普通に通じるんですね」  我ながら間抜けな発言だと思いつつレンがそう言うと、ルビリアは静かに頷いた。どうやら、その言葉も想定内だったらしい。 「稀人様の世界には、多種多様の人種と言語が存在なさるとか。しかし、稀人様のお力により、私どもはこうして滞りなく語らい、記された文字すら難なく理解することが叶っております。貴方様の御慈悲に深く感謝申し上げます」 (いや、それ俺は絶対関係ないだろ)  レンはそう思ったが、ややこしくなりそうなので口には出さなかった。 (異世界とか魔法とか意味わかんねーよ……ついさっきまで、明日のプレゼンのことで頭がいっぱいだったのに……)  大事なことに気付いたレンは、慌てて顔を上げた。

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