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 朝というのはどうしてこんなに気だるいのだろう。  開け放たれた大きな窓から、光、風、爽やかな空気が流れ込んでいる。耳をすませば、なごやかな鳥の声。間違いなく、朝そのものだ。  視界を自分の腕で塞いで朝の到来に少しでも抵抗するけれど、そんなもので朝はまったく防げない。観念した俺は、ベッドの上で上半身を起こした。  窓を見ると、その向こうに太陽が輝いている。寝ぼけている頭で、それをぼんやりと見つめていた。 「入るぞ」  ノックもなく、その一言だけで誰かが入ってくる。ツェータだろう。二歳の頃からの付き合いだ、声だけで誰だかなんて簡単に判別できる。そもそも、この部屋に無許可で入ることのできる人間なんてほとんどいない。 「――なんだよ」  俺は窓の外を見続けて背中で返事する。 「重要な用事だ」  ツェータが言う。だがどうせ、いつものように大したことのない用事なのだろう――そう思いつつ、仕方ないと俺は振り返った。彼は足元に脱ぎ捨てられている俺の服を拾っているところだった。 「またか」  ツェータは昨晩俺が精液を拭った布を拾って、街中で死にかけている虫を見かけたみたいな顔をした。 「毎晩のようにセックスばかりして。お前は獣なのか?」 「うるさい。お前はいつから俺の母ちゃんになったんだよ」  ツェータの眉間にぴくりと皺が寄る。 「冗談じゃない、俺は心配しているんだ。お妃様がこんな状況を見たらなんとおっしゃるか――」  説教くさい話になりそうだったので、俺はベッドから腕を伸ばしてツェータの持つ服と布をひったくった。苦いにおいが漂う。 「ああもう、死んだ人間の話を持ち出すなよ。俺が夜に何をしようと俺の勝手だろ?」 「俺はお前にもっと皇子として――」  ツェータが何かがみがみと言っているが、それを聞きながしてベッドから出ると、落ちていた下着を拾って足を通した。 「はい、はい」  適当に相槌を打ちながら、シャツを着て、ズボンを履く。そうしながら、俺は昨日一夜を過ごした相手の肉感を思い出していた。久しぶりに男を抱いたが、男の肉体も悪くない。  男の脇腹には大きな火傷の跡のようなひきつりがあった。この国の民のほとんどが持っているその『祝福のしるし』。昨夜の男の『しるし』は大きく、俺の指先がそこをなぞると、男は敏感に反応した。男らしい低い声でよく喘ぎ、ひくひくと男のそこ(傍点)が揺れた。  男同士の性行為。分かりやすい快楽のサインに従って、快感を分け合う。  男の肉体。女性の肉感的なものではない、引き締まった肉体と、漂う獣のような臭気。ぼんやりそんなことを考えていると、 「――そういうことだからな、わかったな?」  ツェータが言う。 「はいはい、わかったよ」  反射的に返事をした俺に、 「じゃあ、俺は仕事があるから」  そう言い、さっさと部屋を出て行った。  やれやれ。ようやく終わった。  ツェータを見送り一息つく。  ――ん?  時間差で思う。  ほとんど聞いていなかったが、ツェータは何か、大事な話をしていた気がする。ほとんど聞いていなかったのでわからないが、何か俺に仕事を頼んでいた気もする。ツェータはいつもああいう感じで、大したことない用事を重大ごとみたいに話す。だからいつもの感じだろうとほとんど聞いていなかった。たぶん、どうせ今日だって大した用事ではなかったのだろう。でも、ほとんど聞いていなかったが、何か普段と違うことを言っていた気がする。でも、ほとんど聞いていなかったので、わからない。  扉を開けてまだ廊下の奥の方にいるツェータを追いかけて聞き直そうかと思う。  でも、そんなことをしたらあいつがどんな顔をするかは容易に想像がつく。汚物を見るような目で俺を見て、そして、本当にまるで母親みたいに説教するだろう。  ――まあ、いいか。  どうせいつものちまちました仕事だろう。あれにサインをくれとか、あれを読んでおいてくれとか、そういう類の。  気にしなくていい。  俺は自分の精液がついた布を、無造作にぽいと投げ出した。  髪を結える紐を手に取って、頭の後ろで髪を一つに束ねる。鏡でちゃんと結べているかを確認する。  鏡に映る自分の顔。浅黒い肌に鋭い目つき。そして、昨晩の男の脇腹にあった、その『しるし』が、顔の左半分を覆っている。 「祝福、……ね」  俺はそれだけ呟くと、部屋を出て食堂へ向かった。腹が空いたのだ。  朝食には遅い時間だったので、そこには誰もいなかった。しかし、俺が現れるのを見計らっていたかのように、執事のクロノがやってきて、テーブルにティーカップを置き、紅茶を注ぐ。 「お疲れですか」  クロノが尋ねる。わざとかもしれない。俺が昨夜何をしていたのか知っているか、それか、本当に俺が疲れた顔をしているか。  それを無視してぼんやりと椅子に座る俺の前に、普段通りの食事が並んでいく。クロノは俺に忠実な専属の執事として、てきぱきと皿を並べている。その白いシャツから覗く右手の甲に、『しるし』があった。  俺は肘をついて、それを見るともなく見ている。昨夜の男のことが思い出される。  しるし。 「何か、ございましたか」  クロノが尋ねる。いつの間にか、料理はすっかり準備できていた。 「――いや」  言いながら俺は姿勢を正し、行儀良くフォークを手に取った。  食べる俺の後ろに、クロノは控えている。  クロノは良い執事だ。気が効くし、余計に踏み込んでこない。俺が本当に欲しいタイミングで茶を注ぎ、腹がいっぱいになったと悟ると、綺麗に皿を下げていく。まるで俺の胃袋の容量を把握しているかのようだった。長年俺に仕えているのだから当たり前なのかもしれない。  クロノはずっと俺の親父に献身的に尽くしてきたが、俺が生まれると親父から俺を担当するように命じられたらしい。  だから――クロノが献身的に奉仕しているのは、本当は俺ではなく親父なのだ。  あくまで国王の命令で俺の面倒を見ているだけ。  もちろん、微塵も手を抜いているわけではない。だけれどこいつは、王が役目を免除したら、何も言わずにいなくなるだろう。  俺がそんなひねくれたことを思うのには根拠があった。クロノは、国王とたびたび夜を共にしている。――親父を愛しているのだ。  だから、クロノはあくまで国王のために俺に尽くしているだけ。  二十も下の人間にせっせと奉仕する気持ちなんて、正直理解ができないから――このクロノとの関係は、実のところ俺にはむしろ居心地が良かった。 「何かまた、難しいことを考えていらっしゃいますか」  クロノが言う。 「いや、――そんなことはない」 「そうですか」 「今日の公務は」  クロノに尋ねた。 「本日は特にございません。お好きに過ごしていただけますよ」 「そうか。そうだ、今日は確か、市場(ルビ:いちば)が開かれる日だったな」 「はい、十日ですので」 「久しぶりに、市場に行こう。あそこは活気があって好きなんだ」 「それはとても良いですね。私も準備いたします」 「ああ」  そして、服を着替え、俺とクロノは市場へと向かった。  馬車を降り、街道に出る。既に人が多い。  辿り着いた市場はとても賑わっていた。  極彩色に彩られた屋台。机の上に並んでいるのは、色とりどりの野菜、新鮮で瑞々しい果物、脂の乗った肉、きらきらと光を反射する魚。  食べ物だけじゃない。  船乗りが仕入れてきたさまざまな国の民芸品、美しい置き物や何に使うのかよくわからないもの。世界中の品物が一堂に会する大きな市場だ。  人々が興味深そうに屋台を回っている。真剣に品定めする。楽しそうに嬉しそうに。市井の生活だ。俺も見て回ろう。  とある店に、一冊の本が置かれていた。その本は、俺の目を引いた。この国ではあまり見かけない、簡素なデザインの本だった。 「あ、皇子様、こんにちは」  商人は俺に笑いかける。 「これは?」俺の問いかけに、 「隣国の民が書いた本ですよ」 「隣国の?」  話を聞くと、国交のない隣国のものが、どこかの国を通して流れてきたという。  俺は、なぜか興味をそそられた。見慣れた言語、慣れ親しんだ言葉で書かれた、違う国の話。  俺がそれを購入しようと金を取り出すと―― 「ああ、ああ! お金はいいですよ。差し上げます」  そう言われた。そういうわけにもいかない。俺は、商人の手に強引に紙幣をねじ込んだ。  商人はむしろ申し訳なさそうに、俺に何度も頭を下げた。  俺たちは市場を離れた。  歩いている俺に気がついた民衆が、口々に呼びかけてくる。 「皇子!」 「皇子さま!」  俺は手を振って応じる。  一人の少年が、するりと群衆をすり抜けて俺の元へ歩み寄った。 「おうじさま」  綺麗な目が俺を覗き込む。  俺は体をかがめて、少年に向き合う。 「どうした?」  問いかける俺に、少年は言った。 「さわってもいいですか」  返事を待たず、彼は俺の顔に手を伸ばした。 「ん、いいよ」  少年の、まだ子どもらしい柔らかな手が俺の頬に伸びて――優しくそこに触れた。 「あったかい、やわらかい、です」  そんな感想を漏らす。正直で素朴。なかなか良い。少年は満足したのか、「ありがとうございます」とだけ言うと手を離し、ぺこりと礼をして少し離れた場所で待つ母親のもとへと向かっていった。  俺は少年が触れていた場所に触れる。  そこには、『しるし』がある。  顔に『しるし』が現れる人はとても少ない。だから、それは素晴らしい祝福の象徴とされる。王族にそれを持った人間が現れたら――。  それこそ子どもでもできる計算みたいだ。  俺は民衆に手を振る。民衆は嬉しそうに俺に声をかける。  俺は民衆に慕われていると思う。  だけど、それは。  俺が愛されているのか、それとも、この『しるし』が愛されているのか。  俺がここにいるのは、俺の努力のおかげではない。俺の才能のおかげですらない。俺の顔にある、この奇妙なあとのせいだ。  その事実が、時折俺を虚しさの渦に叩き込む。

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