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飼い狼

バイルとシャルルが研究棟の廊下を歩いていると、不意に低くよく通る声がかかった。 「おう、バイル」 振り向いた先に立っていたのは、生物学部・哺乳類学科の長だった。 体格がよく、日に焼けた肌。白衣を着てはいるが、研究者というより野外調査員に近い風貌の男だ。 「……あぁ。どうも」 「しばらく見ないうちに――」 学科長はバイルを上から下まで一瞥し、少し間を置いてから言った。 「……毛並みのツヤが良くなったようだな」 一拍。 バイルはきょとんとした表情で瞬きをする。 「……毛並み……?」 「おう。前はもっと、手入れをする暇のない野生動物のようだっただろう?だが今はちゃんと手入れが行き届いた毛をしている」 そう言われて、バイルは自分の髪に指を通した。 (……そうだろうか……?特に何かした覚えは……) 「あぁ……最近は、彼が面倒を見てくれているんだ」 バイルの視線が、隣に立つシャルルへ向く。 学科長は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに興味深そうに笑った。 「ほう。それは、飼育員が付いたってことか?」 「……飼育員……?」 「おう。あんたの生活の悪さは、前から耳にしてたからな」 バイルは言い返そうとして、 ――思い当たる節が多すぎて黙った。 床に積まれたままの書類、飲み終えたまま放置されたマグ、時間も食事も忘れて研究に没頭する日々。 「だが今は違う」 学科長はバイルの髪をもう一度見やる。 「それだけ毛並みが整うってことは、生活リズムも相当改善されてるってことだ」 「……そう、なのか……?」 「本人が気づいてないのが、一番分かりやすい証拠だ」 その後ろで、シャルルが完全に気まずそうに視線を逸らしていた。 「……それは、その……俺が勝手に……」 シャルルがそう言いかけた瞬間、学科長は眉を上げた。 「勝手?」 鼻で笑い、腕を組む。 「まさか。極限まで人との関わりを持たないことで有名なドクター・バイルだぞ?」 バイルは否定も肯定もせず、静かに立っている。 学科長は顎に手をやり、少し考えるそぶりを見せてから言った。 「うーむ……オレから言わせてもらうなら、 狼の“伴侶”みたいなもんだな」 「なっ……、伴侶……っ!?」 シャルルが思わず声を上げる。 一方バイルは、わずかに首を傾げた。 「狼……?その手の話には詳しくないが、それは“一匹狼”の比喩ということかい?」 「いや、そこじゃない」 学科長は肩をすくめる。 「たしかに、群れを作らず一人でいるという点はそうかもしれないが……」 そして、ちらりとシャルルに視線を向ける。 「オレが言いたかったのは、一度“伴侶”と認めた相手にだけは全てを許すという点だ」 「……ほう」 バイルは短く相槌を打つ。 「常に一定の距離を保ちながら、同じ縄張りで生きる。 干渉しすぎず、だが離れもしない」 少しだけ笑みを深めて、学科長は言った。 「ま、バイルさんに 狼みたいな獰猛さがあるかどうかは怪しいがな」 「…………」 「賢さと警戒心は、 相当似たもんだと思うぜ」 そう言って、学科長はガハハと豪快に笑いながら去って行った。 その場に残されたシャルルは完全に言葉を失い、バイルは静かに息を吐いた。

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