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PAST/和泉平匡 扉の向こう 後編
事件があったその日の夜。
俺はひとり、いつもより静かな部屋で、机の上のデジタル時計を気にしていた。
伊佐希は、夕飯の時間を過ぎても戻ってこなかった。
生徒指導室に連れて行かれるのを見たって奴がいたから、コッテリ絞られてるのは予想がついた。
元々、格好だけでも目をつけられていたんだ。暴力沙汰を起こして態度も悪いとなりゃ、親も呼ばれるし反省文も書かされるだろう。
そんなことをぼんやり考えていたら、部屋の扉がガチャッと開いた。
現れたのは、仏頂ヅラの伊佐希だ。いつものように首をすくめてドアを潜っては、無言でベッドに身を投げた。
「……よっ。遅かったな」
軽く迎えれば、伊佐希はダルそうに俺を見た。
入学当初と違って、もう逸らされることはない。冷たく睨まれることもない。
それが、俺たちの縮まった距離の証だった。
「……腹減ったわ。今日飯なんやったん」
「酢豚。パイナップルマシマシのヤツ」
「ほなええか……食ってもテンション下がるだけやし」
言いながらも、伊佐希の腹がぐぅと鳴った。俺は床に置いていたカバンを拾い上げると、その中からコンビニ袋を取り出して、伊佐希のベッドにドサッと放り投げた。
「これやるよ。食いっぱぐれの問題児に、イケメンで優しいルームメイトからの差し入れな」
「……なんやこれ」
「牛カルビおにぎりと牛すじ煮込み缶」
「チョイスが酒飲みのオッサンやん。なんで牛と牛ダブらせんねん」
「肉好きみてーだしいいだろ。つーか腹減ってると思って買っといてやったんだから、ちょっとくらい感謝しろよ。人の差し入れに文句言うなって」
「恩着せがましい奴やな……でもまぁ、もらっといたるわ」
袋に手を突っ込んで、おにぎりを手に取る。「茶のひとつもついてへんのか」って文句言いながらも、伊佐希は大口を開けてバクバクと食らっていく。
俺は、そんな伊佐希をじっと見つめていた。
教室で伏見を殴った時の、キレた獣の気配はもうなかった。目の前にいるのはよく知るルームメイトそのもので、俺の胸にはじわりとした安堵が広がっていた。
——だからだろうか。
緩んだ心地に任せて、余計なことを口走ってしまったのは。
「なぁ、天海って……お前にとって、なんなの?」
——ずっと聞きたくて、でも聞けなかったこと。
そんな疑問が、前触れもなく、俺の口から飛び出した。
「…………あ?」
瞬間、空気がひび割れた。
伊佐希の片眉がピクリと蠢いて、急カーブを描いたツリ目が、みるみると怒気を孕んでいった。
「なんでお前にそんなこと教えなあかんねん」
語気は、氷みたいに冷たかった。
俺に向けられたそれは、「ナオの話題を出したことで敵認定されたから」ってのがすぐにわかった。
鋭い視線が噛みつく。
俺は、密かに喉を鳴らして、息を飲む。
「……別に他意はねぇよ。天海と一緒にいる時の朝宮ってすげー楽しそうだから、よっぽど大事なんだろうなって、ちょっと気になっただけ」
……ヤベー。地雷踏んじまったかな。
気分は蛇に睨まれたカエルだった。
殴られるかもって覚悟したけど、意外にも伊佐希は、固まったまま動かなかった。
それどころか、苦い何かを飲み込むみたいな顔をして、そして——
長い時間をかけて、重たい唇を開いた。
「……ナオは、俺のや」
唸るような、低い声だった。
暗く燃える目は獣の気配を纏って、瞬く隙もなく、俺を睨み続けていた。
瞳は、言葉よりも高らかに吠えていた。
「ナオは、誰にも触れさせない」、と。
俺は何も言えずに、ただ、目の前の伊佐希を見つめ返していた。
独占が耳の奥に強く響いて、俺はゆっくり噛み砕くように、その言葉の意味を考えていた。
——その感情は、ただの「好き」とは、どこか違うように思えた。
それは多分、眉を顰めて奥歯を噛む伊佐希の表情に、恋の希望を感じられなかったせいだと思う。
伊佐希の顔は苦しそうで、どっか怒ってるみたいで……全然、幸せそうじゃなかった。
——振り返って、今ならわかる。
あの頃の伊佐希は、大切なものを、牙を剥くことでしか守れなかったんだと思う。
だから「教えない」と突っぱねた伊佐希は、ある意味、すごく真っ直ぐだったんだ。
ナオを守りたい。
——それだけを、不器用に、ずっと考えていたんだ。
「……まぁ、なんでもいいんだけどさ。ただ、天海といる時のお前なら、もうちょい話しやすいかなって思っただけだし」
「……余計なお世話や」
「そうだな。俺もそう思うわ。悪かったな、踏み込んで」
「…………俺のことは別にええ。けど、ナオには絶対近寄んな」
「わかってるよ。俺、お前に殺されたくねーし。こう見えても空気読める男だからな、俺は」
「どこがやねん。空気読めるヤツやったら、そもそも俺に話しかけてけぇへんやろ」
「あー……それもそうだな」
言って、クスッと笑ってる自分がいた。
ちゃんと答えてくれたことが、思いのほか楽しくて、嬉しくて。
気づいたら伊佐希の目もどっか和らいでて、それまで息苦しいと思ってた空気が、ふっとあったかくなった気がした。
それが、俺たちの本当の始まりだった。
俺と伊佐希が、「友達」と思えるようになった日。
そして俺が、伊佐希とナオの、ふたりだけの世界に足を踏み入れることになる——最初の一歩だった。
それから一週間も経たないうちに、伊佐希の暴力事件は全校へと広がっていた。
そしてナオとのウワサもまた——加速度的に広がっていった。
事件以来、伊佐希はますます孤立していた。
常に「近寄るな」オーラが出まくってて、誰かが近づこうとすれば無視するか、あからさまな舌打ちをして追い払っていた。
「いつ殴られるかわかったもんじゃない」
周りからは、完全に獰猛な野獣扱いだった。
そのくせ存在だけは目立つから、陰では何かとネタにされ続けていた。
「アイツら、ぜってーデキてるよな」
その日の夜も、談話室に集まった奴らが伊佐希をネタに盛り上がり出した。
たまたまそこにいた俺は、スマホをイジりながら遠巻きに話だけを聞いていた。
「例の事件、アイツのことネタにされたのがキッカケだったんだろ?ほら、朝宮がいっつも付き纏ってるヤツ」
「天海だろ。天海直。一人部屋のメンタル枠」
「あー、あの特室のヤツか。いいよなぁ、VIP様はひとりで悠々と部屋使えて」
伊佐希のウワサには、当然のようにナオがセットだった。
そりゃそうだ。事件の後も変わらず、毎日ナオを追いかけてたんだから。ふたりの関係なんて、誰の目にもすぐ留まる。
「なぁ……あのふたり、特室でヤりまくってるっての本当なんかな」
そして、その日も、話題は下世話な方に転がった。
——誰かが笑った。
下卑た声が、楽しそうに弾んだ。
「隣のクラスのヤツが、天海の部屋に入ってく朝宮を見たって言ってたぜ。それも消灯後。そんな時間に、ふたりでナニしてたんだろうな?」
「どう考えたってヤってんだろ。朝宮の執着っぷりヤベェし」
「あんなクマみてぇなヤツが『ナオ~♡』とか猫撫で声出してんの、マジきめぇよな」
「ありゃもう猛獣と猛獣使いだよな。つーか意外と、朝宮がペットだったりしてな?」
笑いは伝染する。
談話室が、バカ笑いに飲まれてく。
俺は、酸素が薄くなっていくのを感じながら——ひっそりと、震える呼吸を殺していた。
こんなクソみてぇな話題、さっさと終われよ。
……そう思ってたのに、矛先は、突然俺に向かってきた。
「なァ和泉。お前朝宮と同室だろ?天海とのこと、なんか知らねーの?」
ニヤニヤした声に先導されて、野次馬みてぇな視線が一気に集まった。
俺はそんな視線を無視しながら、スマホの向こうの女へメッセージを打ち続けていた。
「……さぁ。夜にどっか行くことはあるけど、どこに行ってるかまでは知らねぇよ」
「なんだ、知らねぇのか。あの様子だと、ぜってー和泉にノロけてるって思ったのに」
淡々と事実だけを答えれば、肩透かしだったんだろう。ノってこない俺にガッカリしたのか、すぐに話は別の方へと転がった。
「そういえばさ、和泉ってモテんだろ?いっつも違う女と歩いてるって聞いたぜ」
「誰でもいいから女紹介してくれよ」
「俺も俺も!つーか合コンしようぜ!合コン!」
「和泉なら可愛い子いくらでも集められるよな?頼むよ、なっ!」
勝手に色めき立つヤツらに、唇の端が歪んだ。
——コイツらみんな、ただヤりてぇだけだろ。
自分の頭ん中がセックスでいっぱいだからって、エロい妄想押し付けてゲラゲラ笑いやがって。
いくらヤりてぇ年頃だからって、品性っつーもんがねぇのかよ。
胸悪くなるような嫌悪感に、小さな舌打ちが漏れた。
苛立ちが抑えきれなくなって、同時に、そこまで怒っている自分に驚いた。
指が、画面を強く叩いた。
そしてふと頭に浮かんだ言葉を、語ることなく飲み込んだ。
アイツらを、穢すなよ——って。
「……悪ぃけど、俺の知り合いの女はみんな、大人な男が好きなんだよ。お前らみてーなサルは無理だってよ」
言い捨てて、俺はひとり談話室を後にした。閉じた扉の向こうから悪態が聞こえてきたけど、そんなのどうでもいいと思った。
さっさと部屋に戻ろう。伊佐希の無愛想なツラ見てる方が、まだ楽しいわ。
そう思って、階段を登った時。踊り場から、廊下を横切る伊佐希の姿が見えた。
——ナオの部屋の方だ。
一瞬でウワサが頭を過ぎって、気づけば俺は、こっそり後をつけていた。
ふたりの間にあるのは、ただの性欲じゃないと信じたくて。
ふたりの世界は、純粋で真っ直ぐなものだと信じたくて。
……今思うと、結局俺も、心のどこかで疑ってたんだと思う。
ふたりの関係は、どこにでもあるような、欲にまみれたものなんじゃないかって。
俺は、足音を忍ばせて廊下を歩いた。
伊佐希が向かったのは、やっぱりナオの部屋だ。扉の前で足を止めて、ちゃんとノックをして、「……ナオ」って、静かに声をかけていた。
——扉が、そっと開いた。
伊佐希が中に入ると扉は閉じられて、俺は遅れて、ナオの部屋の前に立った。
「……辛いんやろ」
中からは、低く落ち着いた、伊佐希の囁きが聞こえた。
ナオの声は聞こえない。聞こえるのは、伊佐希の声だけだった。
盗み聞きなんてサイテーだな。
そう思っていたのに、俺は耳をそばだててしまった。
——扉に、手を伸ばしてしまった。
ドアノブが、ゆっくりと回る。
薄く開いた隙間から、ひとり用の小さなベッドに座る、伊佐希とナオが見えた。
ナオは、伊佐希の広げた足の間に座って、俯きながら背中を預けている。
伊佐希は、その大きな身体で優しく包み込むように、ナオにそっと寄り添っている。
その姿は、伊佐希の庇護にも、支え合いにも見えた。
俺はそんな光景に奇妙な安心を覚えて、扉を閉じようとした。
——だけど。
次の瞬間、俺は、見てしまった。
伊佐希が、ナオのズボンに手を突っ込んだところを。
ナオのものに触れて——扱きだしたのを。
心臓が、ドクンと跳ねた。
震えた喉の奥で、言葉にならない吐息が、呼吸をぐっと詰まらせた。
ぴったりとくっついて、熱に浮かされた息を漏らすナオの姿が、目に焼きついていた。
伊佐希の手が鳴らす、くち、くちっていう小さな水音が、耳に焼きついて離れなかった。
アイツら、本当にしてたんだ。
ウワサは、ウソじゃなかったんだ。
——ショックだった。
勝手に裏切られたみたいな気持ちになって、後退りした足が、ぎしっと床を鳴らした。
でも、伊佐希もナオも、俺には気がつかなかった。
それ以上、見ていたくなんてなかった。
なのに俺は、扉の側から動けなかった。
——声が、聞こえてしまったから。
「……っ、ごめん……っ」
「こんなところで、伊佐希に、こんなことさせて……っ」
「でも俺、やっぱり……自分で、できなくて……」
「ほんとに、ごめん……っ」
謝っていた。
ナオが、伊佐希に。
苦しそうな声だった。
でも、それ以上に、「責めてほしい」っていう必死さがあった。
そして伊佐希は、その声を優しく、でも強く、遮るように言った。
「謝らんでええ」
「ナオは悪ない。俺が、してやりたくてしてるだけや」
「ナオは、なんにも気にせんでええんや」
俺はそのとき、直感した。
伊佐希とナオは、セックスをしてるんじゃない。
スキンシップの延長でも、ただの愛撫でもない。
これは——「献身」なんだって。
ナオは、きっと誰にも言えない痛みを抱えていて、それを、伊佐希だけが「引き受けて」やれる。
——だからふたりは、ふたりじゃなきゃダメなんだ。
見ちゃいけないもんを見てしまった気がした。
けど、俺はふたりから目が離せなかった。
ナオを昂める伊佐希の手は、人を殴った手とは思えないほどに優しかった。
ナオは必死に声を殺して、伊佐希の手が動くたび、ビクビクと身体を震わせていた。
俯いたまま、頬を赤く染めて。
自分を背中から抱きしめる、伊佐希の胸にもたれて。
気持ちよさよりも——痛みに耐えているような、そんな顔をしていた。
「……ナオ。イけるか……?」
「…………ぅ、……ん」
「このまま俺に任せて……全部出したらええ」
「………いさ……っ、ぁ、……ぅっ…!!」
強く噛み締めた唇から、切羽詰まった吐息だけが漏れた。
ナオは、大きく震えて——ひとり、達した。
伊佐希はそれを手のひらで受け止めると、愛おしげに瞳を細めて、空いた片手でナオを優しく撫でた。
「……もう大丈夫や。よう頑張ったな」
——ナオは、乱れた息を隠しながら、唇を噛み締め続けていた。
真っ赤に染まった顔は快感か、恥ずかしさか……それとも、泣くのを我慢してたからなのか。
俺は、ふたりのことがわからなかった。
だけど——その時、思ったんだ。
アイツらは、きっともう、どうなっても離れられないんだろうなって。
ここにあるのは、恋じゃなかった。
命を預け合ってるヤツらの、誰にも割り込めない領域だった。
——俺は、静かに扉を閉じた。
そして気配を消したまま、自分の部屋に帰った。
伊佐希が戻ってきたら、俺はどうするんだろう。
考えて、すぐに答えは出た。
——俺は、何も見ていなかった。
そんなふりをして、俺は俺のままでいよう。
朝宮伊佐希という、はた迷惑で危なっかしい男のルームメイトとして。
不器用で必死で、一途な男の、友人として。
アイツが守りたいものに触れないまま、でも時々からかったりして——
これから先も、ただ、笑っていようと。
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