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第2話
ノルムは、異動が決まった日のことを思い出していた。
王都外れの委託研究所へ行くと告げたとき、周囲は一様に反対した。
無理もない。国の委託研究となれば、必ずしも自分の望む研究を続けられるとは限らない。
研究者にとって、それは致命的な制約になり得る。
ノルムは、丁寧に説明した。
今の研究を継続してよいという約束を取り付けたこと。
研究内容が決して悪用されないよう、誓約書を書かせたこと。
どれも事実だった。
それでも、反対の声は止まなかった。
最終的に同僚たちは、どこか諦めたように言ったのだ。
――「本人がそれでいいなら」と。
「……私は、独りだ」
がらんとした研究室の中で、ノルムはぽつりと呟いた。
返事をする者はいない。
そのときだった。
「本日より、ノルム・エベリア先生のアシスタントとして配属されました。アウダと申します」
不意に聞こえた声に、ノルムは顔を上げた。
「……え?私は、アシスタントの申請はしていないよ」
「そうなんですか?あれ、聞いてませんでした?内容的に特例だって」
「そんな話は聞いていない。何かの手違いじゃ……」
「あはは、まさか」
アウダと名乗った青年は、慣れた手つきで一枚の書類を差し出した。
そこには、確かに研究所の正式な印が押されている。
「……本当だ。研究所の印だね……」
ノルムは書類と青年を交互に見つめ、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「明確な書類がある以上、君を追い返すのも忍びない……。ここにいてくれて構わないが――」
一拍置いて、淡々と告げる。
「私の研究は、面白いものではないと思うよ」
そう告げると、アウダは一瞬も迷わず肩をすくめた。
「えぇ。存じてますとも」
本当に気にしていないような口調だった。
「サポートする研究者の専門は、事前に聞いてますからね。無論、承知の上です」
「……そう、か」
ノルムはそれ以上何も言えず、視線を逸らした。
居心地の悪さを誤魔化すように、持ってきた荷物を机の脇へと運び、黙々と荷解きを始める。
その背中をよそに、アウダは楽しげに言葉を続けた。
「あぁ、そうそう。僕、わりと新入りなんですよね。だから、僕のこと知らない人も多くて」
ノルムの反応を待つ様子もなく、勝手に話を進めていく。
「今日だって、僕の机の上にこの書類が置いてあっただけなんですよ?それで、ここに来いって」
軽く笑いながら、肩をすくめる。
「対面での任命もなし、説明も最低限。いやぁ、参っちゃいますよね」
「……はあ」
ノルムは曖昧に相槌を打ちながら、箱の中身を取り出す。
(……なんなんだ、この人は)
荷解きをしながら、ノルムは内心で眉をひそめていた。
初対面にしては、距離が近い。
口調も軽いし、言葉選びもどこか遠慮がない。
かといって、無礼かと言われると――そうでもない。
言葉は丁寧で、態度も一応は柔らかい。
(……馴れ馴れしい、というだけか)
研究者の中には、こういうタイプもいる。
自分の専門以外には興味がなく、人との距離感に無頓着な人間。
(だが……)
「存じてますとも」
あの一言が、妙に引っかかっていた。
知っている、ではない。
“承知の上”。
それは、説明を受ける前から理解している者の言い方だった。
(……まあ、深読みしすぎか)
ノルムは小さく首を振り、思考を切り替える。
自分はまだ若い。
研究所の人事や判断基準を、すべて理解しているわけではない。
(それに……)
彼はちらりとアウダを見る。
にこにこと、屈託のない顔で周囲を見回しながら、
まるで初日とは思えない調子で立っている。
(……悪い人間には、見えないな)
そう結論づけて、ノルムはそれ以上考えるのをやめた。
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