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序※
一日に一度、親しい誰かと『魔力交換』を行うこと。
――それはとても大切なことなんだよ、と優しい声が教えてくれる。
『覚えておいで。『魔力交換』を怠れば、君の魔力はあっという間に澱んでしまう』
魔力とは、自分の形をした『小さな泉』のようなもの。
だからこそ誰も、自分一人で閉じ籠もることは出来ない。
必ず誰かの魔力と交わり、水の流れを新しくしなければ、すぐにそれは澱み始めてしまうのだから……。
『大丈夫。簡単なことだ』
親子であれば、額へのキス。
友人同士であれば、握手やハグ。
そんな当たり前の「触れ合い」さえあれば、『魔力交換』は叶う。
けれど、例えば――想い合う相手とのキスで、『魔力交換』をする。
ひとたびその感覚を知ってしまうと、親友とのハグで『交換』していた頃とは明確に感覚が変わるのだ、と、思春期になる頃には誰もがまことしやかに噂した。
「ルー」
頭上から、薄い溜息とともに声が落ちてくる。隠すこともない、不満の響き。いっしょに伸びてきた指先が、こちらの前髪に触れた。
水色がかった銀色のそれをするりと掻き分けながら、その指はルーンハルトの髪の流れを耳の後ろへ通そうとする。骨張っていて荒い感触の体温がこちらの耳朶を無遠慮になぞってくるのに、ルーンハルトはわずかに身をすくめた。
「集中してないな。愛撫が単調だ」
「……」
口腔いっぱいの生々しく熱いものを、唇から引き出す。熱塊に添えた手はそのままで、ルーンハルトは相手を見上げた。「すみません」と口に出すよりも早く、相手からは苦笑混じりの言葉が返る。
「それとも俺のそれは、そんなに気に入りか?」
いつまでも無為に銜えていたいほどに、とアイゼンは柔らかく揶揄してみせた。濡れて光るような深い黒髪、同じ色の瞳。漆黒の剣と見紛うほど、目元は鋭く凜々しい。
星すら浮かばぬ本物の夜を人のかたちに固めたら、きっと彼が出来上がる。
アイゼン・オーヴェ・エーベルライト。この国――エーベルン王国の正統な王の血を継ぐ、第一王子だ。
私室のソファに座す彼は、下腹部を大胆に寛げているとは思えないほど堂々とした態度だった。
現在、王国内の正統な王家と言える血筋は一つきり。王は脂の乗り切った四十代、彼が五人の妃に産ませた子供たちも、彼自身の兄弟たちもみんな健在で、特に血筋の絶えそうな気配はないが、それでも嫡男たるアイゼンは特別だった。
成人の儀こそ終えてはいるものの、まだ二十一歳。
エーベルン王国は長らく戦禍とも無縁なおかげで、王族と言えども婚期は早くない。……アイゼンに本格的な婚姻の話が持ち上がるとしたら、あと数年は先だろう。けれど。
「……私のような男の口腔でお慰めすべきものではないことは、承知しております」
「下らぬことを言うな。萎える」
「ここで萎えられますと、今夜の『魔力交換』が不完全となりますが……」
「おまえが集中すれば萎えぬ」
顎を上げて偉そうに宣言するのが、それか。
不思議に可笑しく愛しい気持ちになって、ルーンハルトは手の中に支えるままの熱塊へ、そっと唇を寄せる。先端の丸みに、しっとりと舌を押し当てた。そうして再び、口腔内へと深く迎え入れてゆく。
「ルー」
じわり、とアイゼンが腰を震わせた。彼はもう一度手を伸ばして来て、こちらの髪をゆらゆらと撫でる。どうやら、褒めているつもりらしい。
果たして彼は、この行為をどう思っているのだろう。恋人でもない自分相手に、急所とすら呼び差される箇所を預けて――その果てに、精を吸わせて。
いかに『魔力交換』のためだと言っても、あまりにも不毛だ。
だが、それを問うたところで、きっとそっくりそのまま同じ問いが彼から自分へと返されるだけだった。
「……ルー」
低く深い声音に、快楽の熱が混じる。「そうだ」と満足げに、彼は吐息した。
「おまえの口腔の熱さと舌の感触を、俺は気に入っている。それは知っているだろう。惜しまずたっぷりと、喜ばせてみせろ。……さきほど、俺がおまえにそうしたように」
「……っ」
ほんの少し前まで、アイゼンの口腔はルーンハルトの為に使われていたのだ。努めて忘れようとしていたその生々しい感触が下肢の間に蘇りかけて、ルーンハルトは固く目を閉じた。
(――気持ち良くなんて、ならなくて、いいのに)
単なる『魔力交換』なら――ただの義務なら、二度目を求めたくなるはずがなかった。
ましてアイゼンと自分の間には、恋愛感情なんて甘やかなものが流れているわけでもないのだ。
三年前のとある事故により、二人の魔力は大きく変質した。そのため、お互い以外では『魔力交換』が出来なくなってしまった――自分たちの関係は、言わば不可抗力だ。
「ルー」
どぷりと白濁液を吐き出し、アイゼンが満足げに息を吐く。彼の指先は何度目かに、ルーンハルトの銀髪をゆるゆると撫で混ぜた。その感触に誘われたような気がして瞼を持ち上げれば、濡れ光る黒瞳がこちらを見つめている。
「ルー……」
滲んだように揺れる、漆黒の色。熱に浮かされているかのように溶ける、低音の声音。ルー。『魔力交換』の際にだけ使われる、特別な呼び名。
――心臓を縫い止められたみたいに、動けなくなる。
ずっと……この瞳に見つめられたままでいられたら、いいのに。
ルーンハルトは彼を見上げたまま、口内に溜まるものをゆっくりと嚥下する。ねっとりと喉に絡むから、「……ん」と小さな声が洩れてしまって、恥ずかしさが増した。
「アイゼン、様」
「……なんだ?」
こちらの羞恥を見透かしてか、アイゼンはやたらと鷹揚に微笑む。まるで甘やかされているようで、それがよけいに居たたまれなかった。
ルーンハルトは失礼のない程度に目線を外してから、床を立ち上がる。
どうにか震えずにいる声を絞り出して、退出の挨拶に変えた。
「おやすみ、なさいませ」
王城勤めの魔法士に与えられる、肩口からたっぷりと広がった裾の長いローブ。全身をすっぽりと覆い隠してくれる形状のそれを、今夜もとても有難いと思っている。……そんな自分のことが、ひどく情けなかった。
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