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3章 第7話
「おはよ──」
ドアを開け、後悔。今日休みにすればよかったかな、と出来もしないことを考える。近くにいた医務官のひとりがギルに気づき、「おはようございます」と慌ただしく礼をした。
「ああ……おはようございます。この騒ぎは一体……?」
「夜勤担当の一人が、異常発情のメカニズムを解析したんです」
「原因がわかったんですか?」
「いえ……そこまでは私も聞いていませんが」
ドタバタと慌ただしい室内を、端に立って眺める。と、ジェフの視線がこちらを捉えた。ニンマリと笑みを深めた熊に、面倒を感じ取ってギルは顔をしかめる。
案の定こちらへやってきたジェフに、嫌な予感がしてため息をついた。隣にいたはずの医務官は逃げていた。薄情者め。
「よう、ギル。俺は今ほどお前が部下で良かったと思ったことはないな」
「そうですか。僕は特に思わないので、どうぞお戻りください」
「つれないこと言うなって、お前のおかげで異常発情の原因について一つ解明したことがあるんだぜ!」
楽しげなジェフはギルの肩に腕を回すとその巨体を近づけた。どうやら研究室に詰めていたらしく、獣臭い。
「うわッ、まさか風呂入ってないんですか!?」
「そんなことより聞け!」
「聞きますから離れてください!」
熊の顔面をなんとか押し戻し、ギルは一息つく。獣人はこれだから。胡乱な視線を向けるが無視された。楽しげに笑うとジェフが手を広げ、もったいぶって「なんと!」と叫ぶ。
「ギルが検体になったおかげで、つがい状態が異常発情を増幅させる可能性が浮かんできたんだ!」
「はあ……」
「今までは根拠などなかったが、これでアプローチ方法を絞れる。つがい状態の何が発情を引き起こしてるのか……ああ、これで実験に協力してくれるつがい持ちがいたらいいんだが」
わざとらしい。チラチラとこちらを見てくるジェフと、その背後の研究室所属ども。ギルに「つがい持ちになる予定は?」とでも聞きたいのだろうが、そんなことを聞いたらセクハラで一発アウトだ。だからこそギルの方から「予定があるので実験に使ってください」とでも言わせたいのだろう。
まあ、残念ながらその予定はないのだが。
「協力してくれるつがい持ちが現れるといいですね」
「ギル〜!?」
「俺はつがいがいません、以上。それでは本日の業務の準備をいたしますので、僕はこれで」
背後からジェフの泣き声と、研究室所属医務官たちの声が聞こえる。ジェフを責める明るい声に、室内が笑いに包まれる。いつもより皆、どこか陽気だった。
それだけこの案件が厄介なのだ。ギルは協力できるものならしたいんだが、と、脳裏に浮かぶ狼への苛立ちを苦々しく噛み締めたのだった。
◆
医務官執務室の扉が大きな音を立てて開かれたのは、昼前のことだった。
「ジェフさん!医務官何人か借りれますか!?」
飛び込んできたのは大きなきつね耳をピンと立たせた騎士──第三師団副隊長のエリック──だった。室内に飛び込んできた彼はジェフのデスク前に飛びつく。
確か、第二と第三で師団合同演習をしていたはずだが、何かあったのか。にわかに緊張が走った。ジェフはエリックを宥めつつ、彼に現場の状況を尋ねる。途端、エリックは涙を浮かべて叫んだ。
「第二のイリスが容赦なく打ち込んできたんだ!あの惚け狼!おかげで対戦相手だけじゃなくて巻き込まれた奴らも怪我をしたんですよ!」
イリス、と名が出て、数名の視線がギルに向く。「喧嘩でもしたんですか」隣の補佐官が聞いてきた。こいつ、上司に向かって遠慮とかないのか。
「……喧嘩では、ない。と思う」
「あっ!ギル・ハーランド!おっまえいたのか!ちょっと聞きたいことがある!」
首根っこを思い切りつかまれる。ギルが驚いていると、エリックが顔を寄せてきた。
「なあ、ギル……お前、イリスとなんかあった?なんか朝からずっとぼけ〜っとしてるくせ、動きがいつもより早くていちいち容赦ねえんだ……打ち込まれて打撲、吹っ飛ばされて巻き込まれ捻挫、足を踏まれて骨折……いい加減にしろって怒鳴ったら俺にも殺気むけやがって」
「そ、それはご愁傷様。だけど、残念ながら僕には多分、どうしようもない」
「はあ?ギルが頼みの綱だって騎士の総意だぜ?何言ってんの、今のイリスを止められるのはギルしかいねえよ」
だから頼む!とかなりの剣幕で頼み込まれ、ギルは助けを求めるように医務官の面々を振り返る。目を逸らされた。薄情者どもめ。
ため息をついてギルは頷いた。そうして担ぎ上げられ、エリックに演習場へと攫われていったのだ。
「……な?おかしいだろ?」
たどり着いた演習場。そこにはイリスがぼーっとしながら切り掛かってくる騎士をぶん投げている最中だった。
「……僕には動作におかしいところがあるかはわからない。が、確かにいつもより気が抜けてるな」
「キレはいいんだよなあ……でも、心ここに在らず、って感じでさあ」
あの隙なんて見せないイリスが、珍しいよな、なんてエリックは遠巻きに眺めてつぶやいた。そのきっかけは、きっと。
「……」
「まあ、何でもいいんだ。イリスの目を覚まさせることってできる?」
視線を隣に向ける。思ったより、エリックの瞳が心配げに揺れていた。
「あいつ、あんま自分の話してくんないからさ。俺わかんねえんだ。でも、ギルなら違うだろ?イリスに気に入られてる……お前なら、どうにかできないかな」
まあ、自分なら多少は……と、ギルが視線をイリスに戻す。ひゅっと息を呑んだ。
こちらを、狩人の金の瞳が射すくめていた。
思わずたじろいだギルの背を、エリックの手が叩く。
「……できなさそ?」
「あ、いや……ええと」
心配げなエリックの声に、なんて返すべきかと逡巡した。あの目は嫌だ。だってあれは──
「ギルさん」
「ッ!」
低い声がそっと耳に流れ込む。ギルの全身がびくりと強張った。背後に硬い感触と、熱。ふわりと香るのは甘く鉄錆びた、アルファのフェロモン。
ドクドクと心臓が血を多量に流し始める。息を吸うたびにその匂いがギルの思考をあやふやにしていく。たたらを踏んだギルの手首を大きな手が掴んだ。力が抜ける。イリスを見上げた。
「大丈夫ですか?」
自分を『オメガ』として扱ってきたやつらと同じ……オメガをものにしたいという欲を持つ目が、こちらを見下ろしていた。
「おや、腰が抜けてしまいましたか?ふふ……ギルさん」
ぶわり、と。彼の独特な匂いのフェロモンが充満していく。イリスの匂いが、ギルという獲物を囲うように。強く、濃く。
「ッイリス!?お前何してッ」
鋭いジェフの声がした。そちらに向いた意識を無理やり、引き戻すように彼の指がギルの首筋を撫でる。
「ギルさん……どうしてここへ?こんなところにいてはいけないでしょう。あなたは、私の巣の中で……大切に、たいせつに……守らないと」
怖い。初めてこいつを、そう思った。
アルファのフェロモンに呑まれ、抵抗さえできないギルをイリスは抱え込む。抱きしめ、周囲から隠すように、自分の体の一番近いところへ。
そのイリスの様子がおかしいと気づいた周囲が、イリスの名を呼んでいる。
ギルは、その声も何もかもが、遠いと思った。
ぼうっとする意識の中で、ギルはただイリスのことだけを見上げていた。
「おい、イリス!!ギルを離せ!エリック、あいつの意識そらせるか!?」
「わわっ、ジェフさん!ちょ、俺だけじゃ荷が重いッ、他の騎士もこっち来い!」
他の誰かの声が聞こえた。ギルの意識がそれたと、イリスは気づいてしまった。
彼の手がギルの耳をそっと塞ぐ。
「ギルさん。私だけを見て」
甘い声が。アルファが。知らない獣が。
僕を喰らおうと、口を開けて。牙が。
「うちの医務官から離れろこのッ、馬鹿狼!!」
イリスの体がぐらりと傾いだ。驚いて、身が強張る。けれどすぐ、逃げられたのだと安心感に体から力が抜けた。
ギルの体を受け止めたのはジェフだった。見慣れた熊の姿に安堵して息をついた。
まだひりつくようなイリスの視線がギルを捉えている。他の騎士たちがイリスをここから離そうとしているが、イリスは引きずられながらもギルだけを見つめていた。
金色の瞳が、獲物に喰らいつくように。じっと、ずっと。
騒ぎがひと段落した騎士団演習場で、ジェフが呆けているギルに声をかける。
「……ギル」
「……は、い」
「お前、何があったかは知らないが……しばらくあいつと二人きりで会わないほうがいい」
遠くから、医務官たちが騒ぎを聞きつけ駆けてくる。
いつものメンバーを見て、安堵に息をついた。ジェフに頷き返し、ギルの体からいよいよ本当に力が抜けた。
「おわわっ!ギルお前!成人男性がどんだけ重いと思ってんだ!」
「……そのでかい体はこういう時のためにあるんじゃないんですか。主任」
「ギル……」
医務官たちがジェフからギルを受け取り、脈拍や息、体温を測り始める。
「……ギル・ハーランド医務官」
気疲れから、うとうとと睡魔が襲う。ギルの消えそうな意識を繋ぎ止めるように声がかけられた。
「……シェミィ医務官」
壮年の、アルファの男がこちらを見つめていた。
「こうして話をするのは、初めてだね」
彼は静かに声を紡ぐ。
「……よければ、少し。回復したら話をさせてほしいんです」
ああ、そう言えば。
「ギル?寝るなッ、おい、お前を運ぶの誰だと思って──」
意識が消える直前。ギルは噂話を思い出した。
シェミィ医務官は、数十年を共にしているつがいがいる、愛妻家だと。
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