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第1話「僕の忘れられないキス」

【12月26日金曜日05:00】 アラームが鳴るまで、まだ1時間もあるのに、なぜか目が覚めてしまった。 眠りが浅い僕は、こういうことが時々ある。 そんなとき、僕は先生とキスした10年前のあの日を、頭の中で反芻し、時間を潰す。 思い出の中の、たった一回のキス。 不特定多数の男性と平気で寝る僕が、そのキスだけを大切に思うのは他人から見たら滑稽だろう。 思い出は、頭の中で再生しすぎて、もうどこまでが実際の記憶なのかも、曖昧だ。 確かなのはそれが、思い出すだけで心が温かくなる唯一の出来事だということだけ……。 — 東京から離れた地方都市の高校二年生だった僕。 あの日も、先生の住む、狭いアパートにいた。 季節はバレンタインデーの頃で、先生の部屋に出入りするようになって8カ月目のことだった。 未成年の僕を、当時25歳だった先生は22時までに家に帰そうとする。 「そろそろ帰りなさい」 「いやだ、帰りたくない。泊めてよ、シュウ」 「泊めません。それから、先生を下の名前で呼び捨てしない」 駄々をこねる僕。 それは毎日のように繰り返される攻防で、その日もじゃれ合うようにふざけ合う。 「じゃあさ、キスしてくれたら大人しく帰ってあげるよ」 軽い口調で、しかしドキドキしながら声にしたのは、僕の本心だった。 先生との性的な接触への興味が、身体の中で膨らみ、はち切れんばかりだったから。 チャコールグレーの地味なカーディガンを着た堅物な先生は、相手にしてくれないと思っていた。 「ふざけないでください」と一蹴するだけだと思ってた。 でも、僕の言葉に先生の目がスッと本気になる。 文学の中で生きているような先生が、男の色香を解き放った。 戸惑ったのはむしろ僕だ。 狭いアパートの壁際にいたから、後ずさることもできない。 先生は、僕の後頭部に手を回し、至近距離で見つめてきた。 「君が言ったんですよ、キヨ。キスしてくれたら帰るって」 ゆっくりと唇が重なった。 チュッと触れるだけで離れていくと思っていた僕は、なんて愚かでお子様だったのだろう。 先生のキスは、長く濃密だった。 それは僕が想像していた「キス」というものより、ずっと破壊力を持っていた。 何も考えられず、頭の中は真っ白になる。 立っていられなくなり、ふらついた僕の腰を先生が支え、自分に引き寄せた。 その腕に包まれれば、僕だけじゃなく先生の体温も上がっているのを感じる。 先生も、僕に対し興奮してくれるのだと、初めて知れた。 「キヨ、分かりましたか?簡単に「キスして」なんて、言っちゃダメです。頑張って気持ちを抑えている私の身にもなりなさい」 先生は本当は立派な雄で、地味な国語の教師という姿に、擬態しているだけだったのだ。 ようやく、そのことに気がついた……。 「君が高校を卒業したら、もう一度、キスしてあげます。だから今日は帰りなさい。ね?」 そのキスから三日後。 僕らの「幸い」が壊れた。 泣いて叫んで取り乱しても、僕は先生から引き剥がされる。 僕の目の前で、先生は無理やり黒い車に乗せられて、バタンとドアが閉まった。 そしてそのまま、二度とアパートには帰ってこなかった。 — 「ピピピッ」 アラームが鳴った。 記憶の再生から、現実へと引き戻される。 今日は、仕事納めの12月26日。 僕、風間キヨチカ27歳の、怒涛の年末年始が幕を開けた。 この朝から始まる1月4日までの10日間。 僕の運命は、大きく大きく動くことになるのだ。

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