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§48 夕焼けが似合う肌に咲く

 柔らかなシーツの海に沈んでいた意識が、その日何度目かの起床を迎える。扉が閉まる微かな気配で重い瞼が持ち上がる。 「んん……」  寝返りを打とうと腕を伸ばして掛布団から出す。たったその動きだけで肩甲骨や背骨、腰回りの筋肉が軋むように悲鳴を上げる。熱を持った鈍い痛みが全身を走る。 「いたた……」 「ライ、起きたのか?」  隣にいなかったグレンが駆け寄ってくる。彼の獣の耳が心配そうにぱたぱたと動く。 「体中痛いだろう。何か腹に入れて薬を飲むか」 「……お腹減った」 「だろうな」  ははっ、と低く甘い声で笑いながら俺の頭を大きな掌で撫でる。その温もりに安堵しながら自身の身体を見ると、予想に反して身綺麗になっていた。 「風呂……いれてくれたのか」 「あぁ。軽くな」 「ありがと……今、なんじ」 「昼を回った」 「うっそだろ……」  思わず頭を抱える。それだけでもこめかみがズキリと痛む。酒を飲んだわけでもないのに。  そして鮮明に思い出す、昨日の醜態。  グレンには何と詫びたらいいのか言葉が見つからない。  羞恥で涙が出そうになるが、ぐっと堪えて目の前の愛しい空色の瞳を見つめる。 「本当にごめん。どうかしてた」 「謝るな。どうだ、初めて発情期に付き合った気分は」 「……すごく……良かった、です」  俺の素直な言葉にグレンは目を丸くする。なんだよ、その顔は。まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった、とでも言いたげだ。  刹那の後、次の表情は愉悦に浸り、獲物を手に入れた獣のような悪役顔だった。 「あぁ……それでこそ我が伴侶だ。愛している」 「ん……俺も、愛してる」  触れるだけの軽いキスに応えて抱擁する。グレンから少しインクの匂いがする。それに気づいて、俺は現実に引き戻され慌てる。 「仕事は!?」 「やっているから、落ち着け。今日はここで仕事をしている」 「はぁ……ごめん、グレンも寝不足なのに介抱までさせた」 「それ以上謝るな。また押し倒したくなるだろう」 「変な癖に目覚めるなよ」  ふざけたやり取りに笑いあう。陽光が差し込む部屋に、二人の穏やかな声が響く。  俺はゆっくりと重い身体をベッドから引き出して、グレンに腰を支えられながらソファに移動する。  上質な革張りのちょうどいい弾力が腰に優しい。腰が痛いときは柔らかすぎてもダメなのだ。    机の上で山積みになった書類と一緒に置いてある軽食をグレンが勧めてくれるので、遠慮なくいただくことにする。  仕事をしながらでもつまめるサンドイッチだ瑞々しい野菜と濃厚なチーズの味がやけに美味しくて空っぽの胃にしみる。    よく考えれば昨日の午後からまともに食事ができていなかった。     夜から朝方までのことを思い出すと、それで心の不調がふっきれたのだから複雑だ。何と浅ましいことかと思う。サンドイッチが美味い。まあ……人らしくていいか、と考えるのを辞めた。  グレンは向かいに座り、どこかゆったりした様子で右足首を左ひざの上に乗せ、その太腿を机代わりにして書類にペンを走らせている。書き終わったら判を捺す、その繰り返しだ。  俺はあっという間に皿の軽食を平らげてしまったので、私室のそばに控えているはずの係に皿を渡して追加を頼もうと立ち上がる。  まだ痛む腰を庇いつつ扉に向かおうとしたところでグレンが血相を変える。 「ライ! 待て、お前は座ってろ。俺が行く」 「えぇ? いいよこれくらい」 「ダメだ。どうしてもと言うなら鏡を見て、着替えてからだ」  鏡?と首を傾げる俺から有無を言わさず皿を取り上げ、持って行ってしまう。  グレンが追加の軽食を頼んでいる間に、俺は言われた通り洗面所へ行く。  ぎこちない足取りで洗面所について鏡を見ると、首や鎖骨周りに一目で分かるひどい歯型と、まるで内側から花が咲いたようなうっ血の跡ができていた。 「うっわ……」  思わず呟きながら、寝間着を脱ぐ。肌に残る跡はありとあらゆるところについていて、ここまでくると笑うしかない。  俺があはは、と笑っていると、グレンが洗面所の入り口からそっと顔だけ出して様子を伺っている。 「どうした?」 「……怒っているか」 「へ? なにが」 「跡、つけすぎた……」  懺悔するようにしゅん、と耳を倒す。ちらりと見えた尻尾も垂れ下がって所在なさげに揺れている。  俺は姿に愛しさが込み上げてグレンの頭を両手で包む。 「怒るわけないだろ?」 「怒りで笑うしかないのではないか」 「違うよ。愛されてるなと思って、嬉しかっただけ」 「……グゥ」  グレンが安堵したようにごしごしと頭を俺の胸に擦り付ける。  小さく喉の奥で唸る声が可愛い。頭を撫でながら、胸に満ちる温かい幸せを噛み締める。 「俺、幸せだよ、これ以上なく。ありがとうな、グレン」 「……俺も、ほんとうに幸せだ。ありがとう」  身体を気遣った優しい抱擁。鼻腔に広がる太陽の香りに胸がいっぱいになった。

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