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1-7.
乾いた金属音と共に、誉はゆっくりとメスを置いた。短く息をついてから、落ち着いた声で宣言する。
「手術を終了します」
その一言で、張り詰めていた緊張の糸が一気に解けた。皆、肩の力を抜いて、安堵の息をつく。
「……ちょっ、四時間切ってる!最速記録ッスよ!」
そんな術後独特な高揚感に包まれる中、櫂だけは様子が違っていた。
誉の宣言を聞くと同時に、身体の芯が蕩けるような感覚に襲われて、一気に全身の力が抜けた。
「……っ、如月先生!」
山川が倒れ込んできた櫂を受け止めるため、咄嗟に腕を広げる。櫂は反射的にその胸を押し戻し、かろうじて踏み止まった。 山川は、そんな櫂の顔を見てぎょっとする。
血の気が引いたその顔色は真っ青。喉の奥から、ゼコゼコと明らかにおかしな音がしている。
また、肩を大きく上下させている割に、呼吸が殆ど出来ていない。
その時、三上もまた、櫂のただならぬ様子に気がついた。流れるように無線を繋ぐと立ち上がり、そのまま別室の奥へと消えていく。
「……悪ィ」
櫂は、絞り出すような声でやっとそう言うと、山川の胸から手を離した。
いつもと同じように上腕を握り、ふらつきながら手術室の出口へと向かう。
異変を察した誉が、思わず櫂に駆け寄ろうとした。
「先生、出ないで!
まだ清潔ですよ!外してからです!」
櫂は誉を叱るガイドナースの鋭い声を背に受けながら、振り返ることもなく手術室を出て行った。
スクラブルームには、既に三上が控えていた。車椅子を携えた彼女は、櫂の姿を見つけるとすぐに、
「先生、さぁ!」
と、それに乗るよう促した。
ところが櫂は、車椅子を見た瞬間、反射的に後退した。手術室の扉に背を押しつけながら、目を見開いて怯えた表情を浮かべている。
ただでさえ乱れている呼吸がより浅くなり、その唇が震え始めた。三上が怪訝そうな顔をしたところで、精一杯の返事を返す。
「……結構です」
そして櫂は、ふらついた足し取りのまま再び歩き出す。車椅子ごと三上を避けて、震える手でマスクを外しキャップを取ってから、ガウンを脱ぐ。
本人が小脇に抱えたつもりのそれらは、次から次へと床に落ちていった。
「先生!先生!」
三上が声を張り上げ、櫂が床に落としていったそれぞれを拾いながら後を追う。
一方、三上の甲高い声は、櫂をより疲弊させた。その一音、一音がまるで刃のように耳に突き刺さる。
櫂が逃げる。
三上が追う。
逃げる。
追う。
櫂はやっとの思いでスクラブ室を抜け、更衣室に滑り込んだ。だが、扉を閉じて息をついたのも束の間、手をかけていたノブが下がった。だから壁に手をつきながら、必死に歩を進める。
頭、目、耳、体中が痛い。
息が吸えない、苦しい。
早くここから出たいのに、足が重い。
――どうしてこの身体は、いつも思う通りに動かないんだ。
櫂の焦燥は、やがて苛立ちへと変わる。
やっと伸ばした手でドアノブを捻ろうとしたが、力が入らず回らない。
ようやく回せたかと思ったら、今度はうまく引けず、態勢が崩れた。
不意に、頭に鋭い痛みが走る。こめかみを抑えながら、必死にドアノブを引く。駄目だ、開かない。
あぁ、邪魔だ、この扉。
こんなもの、要らない――!
バン、と乾いた大きな音が響いた。
「櫂先生!」
三上はそう叫ぶと、拾い集めたマスクやキャップ、そしてガウンをその場に放り投げて駆け出した。
その間も、バン、バン、バンと強い打刻音が3回。
「先生、やめてください」
三上は懸命にその肩を掴んで櫂を止めようとするが、強い力で振り払われてしまう。
床に投げ出され、顔を上げると、櫂が右手をドアに擦り付けながら必死に押し当てていることに気がついた。
「先生……!」
三上は懸命に櫂の背中側から手を伸ばし、ドアノブをひねる。途端、ドアが開いて、櫂が部屋を飛び出して行った。
三上は一瞬立ち尽くしたが、ドアの中央に残った血痕に気付いて息を呑む。その時、
「三上さん!」
「……っ、先生!」
――背後から、誉の声が響いた。
誉は櫂の抜け殻を拾いながら、落ち着いた様子で三上の方へと歩み寄る。
三上もまた、尋常ではない様子で誉に駆け寄ってきた。
「先生、櫂先生が、櫂先生が……!」
「落ち着いて。怪我はない?」
「は、はい!私は大丈夫です!」
「良かった。あの子は?」
すると、反射的に三上がドアの向こうを見る。
同じ方に誉も視線を向けると、すぐにドアの血痕に気が付いた。その眉間に深い皺が寄る。
「誉先生、あの……」
「ここからは、僕が引き受けるよ。
君は、向こうをお願い」
誉は三上の言葉を遮り、櫂の荷物を半ば押し付けるように渡して更衣室を出ていく。
直後、乱暴に閉じられたドアの音に、三上は思わず肩を竦めた。同時に響き始めた大きな足音は、すぐに聞こえなくなった。
三上はただならぬ胸騒ぎを感じながら、ただ立ち竦んでいた。
誉は更衣室を出ると、前廊下に出た。
間引かれた天井灯のせいで、一段暗く感じられる。
櫂の姿は見えない。その名を呼びたくなったが、かろうじて堪えた。
計器の電子音や三上の声など、高い周波数を拾い続けたあの子の耳はきっと限界だろう。
今の彼にとって、音は鋭い刃に等しい。
足音さえも抑えながら、誉は辺りを慎重に伺った。すると小さな咳が聞こえたから、急ぎ歩を進める。
程なくして、櫂は見つかった。
廊下の突き当り、非常階段下。
丁度照明の死角になっていて、更に一段暗い。
櫂は、暗がりの真ん中で力尽きていた。
まるで世界を拒絶するかのように蹲っている。
不自然に上下する背中が痛々しい。
誉はより慎重に近づくと、櫂の身体から30センチ手前で膝をついた。
酷い喘鳴音が聞こえる。
床を掻くような形で投げ出された左手の甲には、赤い血が滲んでおり、痛々しい。また、その爪の血色は真っ白だった。
誉はすぐにでも抱き上げてやりたい気持ちを抑えながら、努めて穏やかな声で呼びかけた。
「カイ」
反応はない。
「カイ、来たよ」
反応はない。
「……ほまれが、きたよ」
左手の中指が、ピクリと反応した。
「左手、触ってもいい?」
今度は、その中指がわずかに動いた。
誉はカイの手の下に指を滑り込ませ、掌を合わせてから軽く握る。するとわずかではあったが、握り返す感触があった。ほっと息をつき、次に進む。
「背中、撫でてもいい?」
握り返される。
「頭は?」
握り返される。
「抱っこは?」
……握り返されたから、誉はすぐにカイを抱き上げた。
するとすぐに、カイは胸を大きく動かした。
しかし喘鳴音は依然として酷く、恐らくその半分も肺に届いていない。
それでもカイは、懸命に呼吸をしようとした。それがあまりにもいじらしくて、誉は大切に、大切にカイを抱く。
不意に、カイが酷く咳き込んだ。誉は眉を寄せ、その背をさすった。だが幸いなことに、それをきっかけにカイの意識がわずかに浮上したようだった。
だから誉は、一つだけ息を吐いて肩の力を抜いた。いつも通りの穏やかな表情を作り終えた時、カイの赤い瞳が像を結び、誉の顔を映す。
次にカイは、血が滲むその手で誉のワイシャツをキュッと掴んだ。それから、
「おれ、にげた。ごめん」
そうとだけ言うと、ヒクリと喉を鳴らす。
誉は、身体を縮こませながら、肩を震わせるカイを優しく包み込んだ。
「こわかったね。……大丈夫だよ」
誉から優しくそう繋いで貰って、カイはようやく安心できたようだった。
強張っていた身体から、力が抜けていく。
誉もまた、カイの表情がふんわりと緩んだことに安堵した。同時に、この儚く小さな生き物が愛おしくてたまらなくなって、思わずその柔らかな髪にそっと口付け、優しく抱きしめた。
そのままカイが、もう一度息を吸おうとした。
その時、
「……?!」
胸がわずかに引き攣ったのを自覚して、カイは胸元を押さえる。
誉もすぐに違和感に気がついてその上体を起こしてやったが、既に時遅く、カイは短い咳を一つこぼした。そこから一つ、また一つと咳が続く。
咳の合間、カイの胸の動きが不自然に止まった。
肩だけは動いているが、次の空気が入っていない。誉のシャツを掴む手に、力だけがこもっていった。
――来る
即座にそう察した誉は、まずカイの体勢を整えた。背中に手を回して、一定の間隔で下から上へと撫で始める。
カイは、ひゅ、ひゅ、と喉の奥から音を漏らしながら苦しそうに眉を寄せた。その瞳が不安に揺れる。
「苦しいね。……大丈夫だよ」
誉は落ち着いた声でそう言うと、わざとゆっくり呼吸をしてみせた。
息を吐くタイミングで、肩甲骨の間をぐーっと強く押して、吸うタイミングで力を弱める。
やがてカイは誉にしがみつきながら、引き摺られるように真似をし始めた。けれど、うまくいかない。胸の所で引っかかって、強い咳に変わってしまう。誉は、咳き込んでいる間は背中を擦り、また治まると押すのを繰り返した。
櫂は呼吸のたび、辛そうに体を震わせた。その額に、じんわりと汗が滲む。
「……ふう、ぅ」
「うん……大丈夫。上手にできてるよ」
暫くの間、辛抱強くそれを続けてやると、カイの呼吸がようやく落ち着いてきた。
カイはまた小さく咳き込み、改めて誉を見上げた。きちんと目線が合うことに、まずは安堵する。
一方で、まだ呼吸の間にやや強めの喘鳴が残っているのが引っかかった。
感覚が異常な程過敏になっているカイにあまり負担はかけたくなかったが……やはり避けられない。
ーー大丈夫だろうか。
心配は残るが、迷う余地はない。
誉は一瞬だけ下唇を噛んで、緊張を逃がした。が、意外にも誉よりも先にカイが口を開く。
困ったように小首を傾げながら、少しだけ掠れた声で言った。
「ネブライザー……、しなきゃ、ダメ?」
誉は僅かに目を開き、それからすぐに細めた。
背を抱く手に強い力がこもってしまったことに気がついて、すぐに解す。
誉がゆっくり頷くのを見たカイはふうと息をついた。そして少しの間を置いて、改めて誉のシャツをキュッと握り直し、続ける。
「おわるまで、だっこしててくれる……よね?」
――不覚にも。
あまりにも健気で、誉は言葉に詰まってしまった。
けれど身体だけは、何とか頷くだけはできた。
するとカイもまた頷き返して、甘えるように誉の胸に頬を擦り付けると、安心したように微笑む。
「……行こうか」
誉はやっとそう言うと、まるで壊れ物のように、大切に大切にカイの身体を抱き、明るい方へと歩み始めた。
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