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1-6.

「麻酔、安定しています」 落ち着いた声が手術室内に響く。 誉は麻酔医の富田と補助の加藤へ一度だけ視線を送ると、短く頷いた。そして厳かな声で宣言する。   「——開始します」    誉の視線が術野に落ちたのを合図に、別室の三上もまた、外部から全体を見渡すため、モニターに意識を切り替えた。 得も言えぬ緊張感の中、医師団の戦いが静かに始まった。   まず、誉による開頭処置が始まる。 ドリルの低い音が響く中、佐々木が担当する吸引の微かな作動音が重なる。 櫂は、術台から一歩退いた位置のモニターの前に立つ。新旧それぞれの計器が複雑な数値や映像を走らせている。モニターの監視と、術者への指示。それが櫂の役割だ。 一方、隣の山川は、緊張から落ち着かない。数多のモニターを前に困惑しながら、櫂に尋ねた。  「如月先生、これ……どこ見たらいいんスかね?」 「……」 「てか、機械の増え方、ヤバくないすか?」 「……」 「もしかして先生って、もう全部使い方わかってたりするんスか?」 「……」 最初は流していた櫂だったが、何度も似たような質問が続いたのが癇に障ったのか、とうとう口を開いた。   「後にして」 「ひぇっ」 すっかり萎縮した山川を見かねた加藤が、向こう側からフォローを入れる。 「山川くん、今日は櫂先生の背中を見て学びなさい」 「は、はい〜…っ」 そして、ようやく山川は見様見真似で必死にモニターの数値を追い始めた。 十分程で開頭作業を終えた誉は、軽く息を吐いた。その間に佐々木が手際よく牽引を行い、術野を開く。刹那、誉は上面のライトをごく僅かに下げた。間を置かず櫂が術野を確認し、すぐに計器へと視線を戻していく。 誉がメスを受け取る傍ら光を再調整し、いよいよ病巣へのアクセスを開始しようとした――その時。 「右30度斜め上、2ミリ先。出血します。 吸引、構えて」 突然放たれた櫂の指示に、場の空気が一瞬固まった。    "――嘘だろ。  まだ誉先生は、病巣に触れてすらいないんだぞ" 佐々木はそう心中で毒づきながら、半信半疑で指示に従う。一方、その横で誉は、迷うことなくメスを下ろした。  そして次の瞬間。 櫂が指示した一点から血液が溢れ出した。  佐々木は目を見開く。 反射的に吸引を入れながら、思わず隣の誉を見た。彼は何事もなかったかのように、既に病巣を切り進めている。   「圧が上がります。3,2,1……待って」 「ちょっ、如月センセ……。 まだ全然上がる感じしてない……」 モニターを流れる血圧の線は真横のまま、上昇の傾向は見られない。しかしその僅か数秒後、一気に線が跳ね上がった。 「……えっ?」  山川の動揺をよそに、櫂は淡々と続けた。 「進んで。吸引は追従して下さい」   「……マジか」 その時、佐々木は気がついてしまった。   "誉先生は、計器を一切見ていない。 全てを櫂の目と判断に委ねている" 次に櫂から出たのは、牽引指示だった。 一見、術野に問題はなさそうだったが、誉がメスを止めたので、渋々その通りにする。   「牽引、少し浅く。今、触らないで」 術野を見もせず、モニターの数値のみで指示を出す櫂の様子に、佐々木は思わず舌打ちをした。 術者の経験よりもデータが優先か?   沸き上がる腹立たしさは、とうとう言葉になる。   「……浅く?今の位置で問題ないだろ」 その瞬間、佐々木はメスを通じ、直下の血管が張った感覚に目を見開いた。 ――もし、あと1ミリ深かったら。 その背筋に、ひやりと冷たいものが走る。   「牽引、続けてください。次、循環が落ちます」 次なる櫂の声掛けに、加藤が慌ててモニターを確認した。そして富田と三上に目配せをし、頷き合う。 その間に佐々木が術野を開き終えた。即座に誉が元よりやや迂回するルートで、切除を再開する。 「櫂先生……、完全に読んでる」 一連をガラス越しに見渡しながら、三上が呟いた。  「あのぅ」 すると、研修医の一人がおずおずと手を上げた。 「何?」 「あの新しい計器なら、全部わかるんですか?」 「わかるわけないでしょ!」 その頓痴気な問いに、思わず三上は声を荒げて即答した。そして意識をモニターに戻し、唇を噛む。    「こんなの、異常よ!」   ――開始から、3時間あまりが経過した頃。 櫂は突然、胸の奥が詰まる感覚に襲われた。 反射的に胸が動くが、空気が途中で引っかかって肺まで入ってこない。その半拍遅れで喉が痙攣し、細かく咳き込んだ時、櫂は初めて呼吸を疎かにしていたことに気が付いた。 口元を強く押さえ、第一波を何とかやり過ごす。だが、すぐに次が来てしまう。 強まる咳に耐えきれず、不意に視線が泳いだその時、手術灯の白い光が網膜を刺した。 刺すような痛みとまぶしさに、櫂は反射的に目を閉じてしまう。何とかすぐに開いたが、視界はぐにゃりと揺れて靄がかかり、モニターがよく見えない。 気を取られるな、集中しろ。 櫂は目の痛みに唇を噛んで耐えながら、そう自身に言い聞かせる。 しばらくして、ようやく靄が溶けてきた。そして飛び込んできた数値に、櫂は目を見張る。同時にその脳裏には、"あの日"のことが過ぎった。   ―― 誉をフェローに送り出したわずか一ヶ月後、櫂は体調を崩し、長期入院を余儀なくされた。 しかし櫂はそれを誉に伝えないどころか、一切の連絡を絶つことを選んだ。 もし彼が自身の病状を知ったら、きっと全てを捨てて戻ってきてしまう。誉の枷にだけは、絶対になりたくなかった。  孤独を強いられた病床で、櫂は学会誌の中に誉を求めた。彼はきっとすぐに成果を出し、華々しく誌の表紙を飾る。そう信じていた。  しかし、待てど暮らせど、一向にその報が来ない。櫂が学会誌の隅でようやく誉の名を見つけたのは、それから1年程が過ぎた頃だった。  特に評価をされるわけでもなく、誌にただ掲載されただけの、たった一本の論文。 それが、今回の新手法だ。 櫂は、それを読んだ瞬間、強い衝撃と共に、深い憤りを感じた。新手法の考え方自体は、誉らしく先見の明に長けたものだったが、病巣へのアクセスルートと結論が最悪だった。 何だ、この杜撰なデータは。 こんな穴だらけの数値で、誉を導いたのか。 誉は、もっと攻めようとしたはずだ。 誉なら……もっと攻められたはずだ。   誉の横に名を連ねる内科医が誰なのか、櫂は知らない。ただ一つ分かることは、こいつが誉を持て余したということだ。 誉の才を、ちっともうまく使えていない。   ベッドの上で論文を読み進めるほど、櫂は悔しくて涙が溢れた。   もし自分なら、誉にこんな方法を選ばせたりしないのに。もっと誉を活かせるやり方に、導けたのに。   自分も、誉の横に立ちたい。 それなのに、この脆弱な身体がそれを許さない。 悔しくて、誉に申し訳なくて、たまらなかった。 ――今。   誉は、あの時と同じ局面にいる。 そして、その横に立つのは、自分だ。   ――オレなら、誉を導ける。 あの日の分まで、今、ここで。  櫂は前を向いた。 焼けるように痛む胸を無理やり広げて、大きく息を吸い込む。急激に視界がクリアになっていく。 ほぼ同時に、誉はその手を一瞬だけ止めた。 "あの時"と同じ状況だと、感覚的に悟ったからだ。   実績を踏襲するのなら、ここは戻るべきポイントだ。だが、櫂の指示は無い。ならばと誉がメスを引きかけた、その瞬間。   「誉、待て」 普段からは想像がつかないその口調に、皆の視線が集まった。櫂は、計器台の縁を握りながら、前のめりでモニターに食らいついていた。そして、 「ライトは、そのまま」 と、誉が動く前に制し、術野を直接確認する。 山川が、不安げに声を上げた。  「いや、櫂センセ。 ここは論文と同じにすべきッス。戻るとこッス」 「戻らせない」   次の瞬間、櫂が声を張った。  「 牽引!」   佐々木は頷き、意を決したように作業を行う。 術野が開けた瞬間、誉が切除を再開した。   「深くするな、右に逃がせ」   櫂の視線が術野と計器を頻繁に行き来する。 白い光がそのたびに瞳を刺すが、彼はもう瞬きすらしなかった。   やがて櫂は、動作の合間に重たい咳をするようになる。喉の奥が鳴る、乾いた音だった。 そのたびに、計器台の端を強く握り締めて耐える。しかし決してその瞳はぶれることなく、器材と術野に向けられ続けた。 「絶対戻るなよ……」   櫂は絶え間なく変化し続けるモニターを見守りながら、祈るように呟いた。 そして勝機を示す数値がモニターたちに映し出された瞬間、赤い瞳を輝かせながら再び檄を飛ばした。   「吸引、準備!圧、上がるぞ。3,2,1……」 「おー、来たな」 「追従!」 「ハイハイ、わーったよ」 佐々木はもう、櫂の指示に躊躇わない。 逆らわない。その通りに誉のフォローを遂行する。   その時、警告音が術野の静けさに楔を打ち込んだ。 一瞬だけ、誉の手が止まりかける。 「止まるな!」 即座に櫂が叫ぶ。   「今じゃない」 警告音は止まない。 異常を知らせるその音が、少しずつ、しかし確実に現場を消耗させていく。 「あぁ!うるせぇ!」   強くなる胸の違和感も相まって、苛立った櫂が頭を抱えて一喝する。 その気迫に圧倒された山川が一歩下がった。   櫂は、更に声を強く荒げた。 「消しちまえ、そんなもん!」  「け、けどね、櫂先生。 それは、君のために院長がわざわざ……」 狼狽えるガイドナースをフォローするように、加藤が穏やかに声をかける。しかし櫂は即座に返した。 「ここまで来たら、誉の判断の方が早い! オレは誉に懸ける!」  ――ARが切られると、すうっとあたりが急に静まった吸引の音だけが、やけに大きく響いている。 そして櫂は、すべての計器から目を離した。 術野を目視し、声を一段下げる。 「誉、チャンスは一度」 誉をまっすぐに見つめ、導く。   「……今だ、行け」 「了解」   ――マジで行くのかよ。  佐々木は思わず息を止めた。 メスの下で、血管が強く蠢いているのが分かる。 もし誉が少しでも経路や力加減を見誤れば、間違いなく取り返しがつかないことになる。 しかもこの道筋は、後戻りが出来ない。 許された選択肢は、"進む"のみ。 誉のメスが進むスピードがやけに遅く感じる。 切創から血液が滲むや否や、佐々木は祈る思いで吸引を行った。 誉のメスは、正確に病巣を切り分け進んでいく。 あと3ミリ、2ミリ……。 どうか、どうかこのまま、何事もなく――。 そして誉は、静かに告げた。  「切除、完了」  それを合図に、張り詰めていた空気が一段緩んだ。 その瞬間、櫂は五感が遠のいていくのを自覚した。まるで後ろから強く引かれたように、身体がぐらりと揺れる。咄嗟に足を引いて、歯を食いしばる。 計器台に掴まって何とか踏みとどまると、その胸を大きく上下させた。 やがて五感が戻ってくる。 思いのほか近くで、山川の声が聞こえた。 「……先生、如月先生。大丈夫ッスか?」 「……」  櫂は視界が酷く揺れるのを頭を振って逃がし、力を振り絞って計器に視線を戻した。しかし、ピントが全く合わない。本能的に目を細めると、刺すような痛みが走った。 こめかみを強く押さえて、もう一度頭を振る。 そして再びモニターに向き合った。   ――見えた。 多少ぼんやりとはしているが、かろうじて数値は読める。まだ戦える。   「……問題ありません」 櫂は、いつもの通り淡々と返した。    「数値に、異常はありません」   櫂のその言葉に、誉は一瞬だけ眉を寄せる。 しかし何も声をかけることなく、落ち着いた口調で宣言だけをした。  「縫合を、開始する」

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