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1-13.
「卯月副部長、ご結婚おめでとうございます!」
「……ありがとうございます」
櫂の結婚宣言から始まり、山川の議事録発行事件。その余波は、誉の想像以上だった。
以降、誇張抜きで100回以上賜った祝福の言葉に、誉は曖昧な笑顔で答え続けていた。
そして次に繋がる質問も、既にあらかた予想がついている。
「お相手は、どんな方なんですか?」
「フェロー先で出会った"運命の人"って噂、ホントですか?」
……等々。
無責任な噂と好奇心による詮索があまりにも続くので、『いっそのこと真実を叩きつけてやろうか』と、誉は何度も思った。
だが、下手なことを言えば櫂が傷つく可能性がある。それだけは、絶対に許せない。
だから誉は、大切な櫂を守るため、最後までこの茶番を耐え抜いたのだった。
そんなわけで、より慌ただしく一日は過ぎ去り、ふと時計を見ると十九時を少し回っていた。
帰国後、記念病院からこの新病院に副部長として着任して、まだ一カ月ほどだ。何かと忙しく、普段の帰宅は日付をまたぐことも珍しくない。
……どうせ早く帰っても、一人だ。
やることもないし、仕事をしていた方が気も紛れる。そんな理由で、好んで遅くまで残っている自覚もある。
今日も部長に頼まれた仕事がまだ手つかずだし、もう少しやるかと背伸びをしたところで、先に上がったはずの佐々木と山川の凸凹コンビが戻ってきた。
ここにきてまた、『今日くらいは早く帰ったらどうですか』『ほら、今日はおめでたい日ですし』そう口々に勧められ、さすがにうんざりする。
だが、好奇の目に晒され続けて疲弊していることも自覚していたので、結局はその通りにすることにした。
医局から出て廊下を歩きながら、昨夜は緊急手術後そのままカイに付き添ったのもあり、結局帰宅すらしていなかったことをふと思い出した。
自分のワーカホリックぶりに苦笑しながら、誉はロッカールームへと足を踏み入れる。
するとすぐに、ベンチの上で白い三つ編みが、尻尾のように揺れているのが見える。
――なるほど。だから、か。
誉は凸凹コンビが言わんとしていたことをすぐに察した。するとその時、静かな空気の中で、小さな独り言が響いた。
「ウサちゃんさ、オレたちの誉は何してると思う?」
衣擦れの音がして、三つ編みがするりと動いた。
「オレたちのこと、こんなに待たせてさ。
わるい誉だよね」
また、三つ編みが滑る。
「けど、もう少しだと思うんだよね。
……いつも、そうだったからさ」
――その様子があまりにも尊くて、愛しくて。
誉は、はやる気持ちとは裏腹に、ゆっくり歩を進める。するとようやく、尻尾の持ち主が見えてきた。
その子は誉のロッカーに背を向けて、大切なウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながらベンチに転がっていた。
よくよく見れば、赤い眼鏡も横に投げっぱなし。更に、火のついていない煙草を咥えている。
待ちくたびれて相当焦れてるらしく、落ち着きなく左右に体を揺らしているのが、また可愛らしい。
誉は小さく息を吐いて微笑むと、そんな愛しい人の前へと向かう。
――その時。
聞き慣れた足音が聞こえたので、カイはハッとして飛び起きた。音がした方を、期待と共に緊張した面持ちで見つめる。
その答え合わせは、すぐに済んだ。
ロッカーの向こうから姿を現したのが、思った通り誉だと分かると、カイは安堵の息を吐いて肩の力を抜く。
「……どうしたの、こんなところで」
誉は、まるで今気がついたかのように驚いた顔をしてそう言うと、カイの目の前で足を止める。
それからカイが咥えている煙草に人差し指を伸ばすと、その先端を軽くつついた。
カイはその指を払うと、罰が悪そうに横を向く。
「……べつに」
――本当は、どうしても誉に会いたくて待っていたのに。ついつい天邪鬼な態度をとってしまった。
すぐに後悔して正面を向いたら、誉の顔が思ったよりもずっと目前にあったから怯んでしまった。
鼻先同士がくっつくほどの距離で目が合うと、誉はニコッと微笑む。大
好きなその笑顔に、思わずカイの口元が緩んだ瞬間、誉はスッと煙草を抜き取って、不意打ちで唇を重ねてきた。
「――!!!」
一瞬、何が起こったのか分からず、カイは目を大きく見開いた。が、すぐに口づけをされているとことに気がつく。ウサギを抱きしめる手に、自然と力を込もった。
誉はそのままカイの肩を引き寄せ、抱きしめる。
そして大きな手でゆっくりと後頭部を撫でながら、わざとちゅっと音を立て、そのふっくらとした唇を吸った。
それを三回、角度を変えながら繰り返すと、カイは甘い吐息を漏らし始めた。久しぶりにもらったキスが気持ちよすぎて、頭がクラクラする。
そのタイミングで、誉の舌先が唇を割り開き侵入してきた。するとカイは、応えるように舌を絡めて控えめにちゅっちゅと吸った。ふっと誉が笑む。
しかし誉はそれ以上は何もせずに、スッと引いた。
そして改めてカイの頭をゆったり撫でながら、
「……口寂しくなっちゃったね」
とだけ言って優しく微笑んだ。
そして、カイのすぐ横に放り投げてあった例のウサギちゃんマークのシガレットケースを手に取り、煙草を収めた。それを丁寧にカイのカバンの中にしまってから、ロッカーの方を向く。
カイは抱え込んだウサギちゃんの頭に唇を押しつけながら、拗ねたように誉が白衣を脱ぐ様子を背中越しに見つめた。
「カイも、今日はずいぶん遅かったんだね。
理事のお仕事も、忙しいのかな」
ロッカーを開きながら、ふと誉が問う。
「ううん、オレはあんまり……。
兄さんは……いつも忙しそうだけど」
「おや。なら、航はまだ仕事中?」
「うん、仕事中。
兄さん、今日も遅くなるって言ってた」
「今日も、か。
じゃぁ、いつもこうやって、航がお仕事終わるまで待ってるの?」
「ううん。いつもは兄さんが先に上がれって……」
「え、ごはんは?一人で食べてるの?」
「兄さんはいつも、ごはんのときだけ一回戻ってくるよ。どうしてものときは、爺がきてくれるんだ」
「……ああ、そうか。毎日、本宅までは帰ってないんだ。ちょっと遠いもんね、疲れちゃうか」
「……うん、兄さんが行かなくていいって……。
いつも兄さんのマンションに、行くよ」
「……すぐ近くなんだってね?」
「兄さんは、歩いて5分くらいだって言ってた」
「そっか」
誉は一息つく。
そしてコートをロッカーから取り出して、羽織ってから続けた。
「……じゃあ、今日も"兄さん"待ち、かな?」
その瞬間、通しかけのコートの袖裾が、きゅっと引かれた。思わず振り返ると、カイが不安げな顔をしてこちらを見上げていた。
目が合うとすぐに、唇を噛んで俯いてしまう。
誉はカイの白い指先がわずかに震えているのを見ながら、静かに次の言葉を待った。
――かなりの間を置いて、カイは小さな声でポツリと切り出した。相変わらず俯いたままなので、その表情は読めない。
「……オレ、ほまれの家に、帰りたい」
誉は一瞬だけ目を大きく見開き、それからそっと瞳を閉じた。肩の力がふっと抜ける。
そして、カイに向き直って優しくその手を取ると、
「うん、帰ろう」
と、静かに返した。
繋いだ手に力が込められるのを感じながら、誉は続ける。
「……俺たちの家に、帰ろう」
その瞬間、カイは顔を上げ、両手を広げた。
その拍子にウサギがぽろりと落ちたが、気にすることなく誉に飛びつく。
「……っ、おっと」
誉は声を上げながらも、それをしっかりと受け止めた。同時に、その細い腕からは想像がつかない程の強い力で抱きしめられたので、誉も思わず同じように抱きしめ返す。
するとカイは誉を見上げて嬉しそうに、――本当に嬉しそうに表情を綻ばせながら、何度も頷いた。
誉は足元に転がったウサギを拾い上げ、一度抱き寄せてから丁寧に自分の鞄にしまった。
続けてベンチの上に散らばっているカイの荷物も一緒に入れ込んで、蓋を閉じる。
最後に、カイの鞄も一緒に持ち上げた。
誉が歩き始めると、カイはちょこまかとその後を追った。追いつくと最初に誉の袖裾を掴んだが、すぐに離してしまう。
そして、誉の右手から自分の鞄をやや強引に引き取ると、その手を取って繋いだ。握り返してやると、また誉を見上げて笑みをこぼす。
誉はそれを見守りながら、
「……今日のお夕飯、何にしようか」
と、穏やかに問う。
カイはすぐに、弾むような声で答えた。
「パンケーキ!」
誉はふっと笑って、もう一度カイの手を握り直して続ける。
「……オムレツ付き」
「チーズとマッシュルーム、マシマシで」
最後の言葉はピッタリとハモり、二人は思わず破顔する。
「OK。じゃぁ、まっすぐ帰ろう」
誉は穏やかにそう言うと、ドアを開く。
2つの足音が、並んで遠ざかっていく。
やがてロッカールームは、夜の静寂に包まれた。
――まるで、最初から何事もなかったかのように。
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