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人の気配が引いた従業員出入り口は、静かな空気に包まれていた。少しだけ薄暗い廊下に、警備室の光が漏れている。
そんな中、ふと誉がスマホを見ながら呟く。
「……車、売らなきゃ良かったなあ」
タクシー配車サービスのアプリを立ち上げ、手慣れた様子で操作をする。
カイは少しだけかかとを上げて画面を覗き込むと、繋いだままの誉の手をくんと引いた。
そして、何てことないように言う。
「車、あるよ」
――あぁ、瀬戸さんか。
誉はすぐに合点がいった。
カイの外出には必ず付き人がつく。
その主は彼の"爺"……正確には如月家執事の瀬戸が担っていた。その理由は非常に明快で、カイが使用人の中で一番懐いているから、それだけだ。
タクシーの配車まで、少し時間がかかりそうだ。
自宅までは徒歩二十分ほどだが、カイが歩くのは体力的にきついだろう。誉としては、あまり如月家の力を借りたくない気持ちはあるものの、背に腹は変えられない。だから、
「そっか」
とだけ返した。
するとカイは、深く頷き誉の手を引っ張った。
「こっち!」
そして踵を返して向かう先は、役員専用のエレベーターホールだ。到着してすぐに、カイはコートのポケットを探る。
ハンカチ、ペン、お菓子のつつみ紙、ライター。
一つずつ、カイはポケットの中身を誉の手に乗せていく。誉は丁寧にそれらを自分のコートの内ポケットにしまっていった。
ようやく見つけたIDカードは、丸裸の状態だった。
カイはそれを誉に見せつけて、
「エレベーター、これピッてすると、動くんだよ」
と、やけに得意げにやってみせた。
エレベーターは木目調の内装で、柔らかい絨毯が敷かれた"いかにも"といった作りだった。
誉は何となく居心地の悪さを感じながら、カイが地下一階のボタンを押す様子を見守った。
病院の役員専用の駐車場が地下にあることを、誉はこの時初めて知った。いや、フェロー前に勤務していた系列の記念病院にも同様の設備あったから、こちらにと存在するであろうとは思っていた。単純に興味がなかった。
エレベーターホールを後にしてすぐに、誉は違和感を覚えた。カイの外出というと、瀬戸が常に黒塗りのセダンを出入り口から最短距離で横付けし、待ち構えているものだとばかり思っていたからだ。
しかも瀬戸自身は上座のドア前で待機しており、カイの姿が見えた瞬間からお辞儀をし始めるという徹底ぶりだった。
――そういえば昔、それをショッピングモールの駐車場でやられて、とても恥ずかしかったっけ。
そんなことを思い出しつつも、感じた違和感をぶつけるわけでもなく、張り切った様子で自分の手を引いてくれるカイに黙ってついていく。
それにしても、さすが役員用の駐車場である。
まるで高級車の展示場だ。こんなにも薄暗い中だというのに、どれも蛍光灯のわずかな光だけで、キラキラと輝いて見える。
ふと、真っ赤なスポーツカーが目についた。
他の車と違わず、車に全く興味がない誉すら知っている"超"高級車だが、この駐車場内では少し浮く"ヤンチャ"さがある。
誉が何の気なしに車を見ていると、それに気がついたカイが
「あれは、兄さんの車だよ」
と、指をさして教えてくれた。
――なるほど、その区画だけやけに広いのは、院長さま専用スペースだから、か。
学生の頃から全然趣味が変わらないなと思いながら、誉はその前をやり過ごし――その隣の区画を見て唖然とした。
同じタイミングでカイは誉の手を離し、トトトっとその車の前に駆け寄った。
そしてすぐに誉を振り返り、
「これだよ」
とだけ告げた。
その瞬間、誉は思わず指先の力が抜けて、危うく鞄を落としかけた。が、寸前の所で握り返して、改めて車を見やる。
航と同様に、他と比べて3台分はありそうなスペースに悠々と停車している型落ちのコンパクトカー。
どう考えてもこの場所に不釣り合いなそのエントリーカーに、誉は見覚えがあった。
ホワイトパールの車体色に、フロントライトの上に貼られたあのウサギのステッカーと、ナンバープレートのボルトキャップ。そもそもだが、そのナンバー自体が記憶と完全に一致する。
「まさか」と思わず駆け寄って車内を確認する。
助手席の柔らかいクッション、シートベルトカバー。インストのスマホホルダーに、後席に置かれた膝掛け、全てが記憶に一致する。
――間違いない。
渡米する前に誉が処分した車両そのものだ。
カイは誉の袖裾をきゅっと摘みながら、小さな声で続ける。
「ほまれの、車……。オレ、諦められなくて……」
「まさか、買い戻したの?」
思わず語気が強まった。直後には、カイはヒクッと喉を鳴らし手を離してしまう。
それから、反射的に誉から一歩引いて、
「……ぁ。ご、ごめんなさい、オレ」
と言って、肩を震わせ始めてしまった。
「しまった」と誉は心の中で呟いて、慌ててカイを抱きしめる。
「違う、違うんだ。
怒ったんじゃないよ。――ただ、凄く驚いて」
その言葉に、カイはおずおずと誉を見上げた。赤い瞳が不安げに揺れている。
誉は更に安心させるように、ゆっくりと後頭部をなでてやる。
それから、その額に優しく一つキスを落とす。そうするとカイはようやくホッとしたように息をついて、消え入りそうなほど小さな声で教えてくれた。
「この車、大好きだから……その、ごめん」
「……いや、カイがそんな風に思ってくれてたなんて、思いもしなかった……。
ちゃんと相談すればよかったね。
ありがとう、守っておいてくれて」
「ううん、守ってもらってたのはオレの方で……」
カイはそう言うと、誉から離れた。
そして誉が持つ鞄に手を伸ばすと、その外側のポケットのチャックを開けて、すぐにフォブキーを取り出した。キーホルダーまで当時のままだ。
「さみしくなったらね、ここでお昼寝するの」
そしてカイは慣れた手つきでボタンを押す。
ピ、と電子音がして、鍵が開いた。
「この中ね、ほまれのにおい……するし。
ほまれのこと、たくさん思い出せるから、さみしくなくなるの。……この車は、宝もの」
「カイ、君って子は……」
誉はもう何も言えなかった。
ただただ、胸が苦しくて、カイへの愛しさが溢れ出して、止まらない。
カイは少しだけ照れたように「えへへ」と笑うと、誉にキーを差し出して言う。
「ほまれ、帰ろ!」
「……うん」
誉はそうとだけ言って、キーを握るカイの白い手ごと優しく包み込みながら、深く、深く頷いた。
出発前にタイミングよく受信した航のメッセージ通り、自宅用の駐車場も元と同じ場所に確保してあった。
駐車場の看板に、以前は無かった「如月グループ」という文字があったような気がしたが、誉は見なかったことにした。
更に後部座席には、カイのお泊りグッズがたっぷり入ったボストンバッグが置いてあった。これは瀬戸の仕業だ。如月家の紋付き封筒が添えられていて、内容を要約すると「坊っちゃまをよろしくお願いします」とのことだ。
誉は苦笑いをしながらそれらを持ち、助手席のドアを開く。
すぐに白い手が差し出されたので、それを手に取った。するとカイは、両足だけを車外に出し着地させた後、スッと立ち上がった。
まるで貴婦人のような美しい所作だった。
思い返せば、帰国後一度もカイはこのマンションに帰ってきていなかった。
この一ヶ月程、誉自身が帰国手続きや新しい仕事で忙しかったこともあるが、カイからの希望がなかったのが一番大きな理由だった。
それもあり誉はずっとモヤモヤし続けていたわけだが、「ここに来たいか」と、誉も敢えて聞いていなかった。
結婚宣言カンファでも一悶着あったが、カイは問われなければ自分からは言わない――いや、言えない。
一方で、本人が佐々木はじめ同期に「年上の恋人とのうまくいかない」と相談していたくらいだから、本人なりに悩んで葛藤していたのだろう。
結果、共に住む正当性を証明するために引き起こしたのが、今回の結婚騒動というわけだ。
良し悪しはさておきとして、筋は通っている。
誉は改めて納得する反面、そこまでカイを追い詰めてしまったことを猛省した。
――この子には、もう少し強引にするくらいが丁度いいのかもしれない。
かといって、やり過ぎると怯えてするりと逃げてしまうし……なかなか駆け引きが難しい。
それに、カイが婚姻届や思い出の車など、こんなにも目に見える"もの"に執着するとは思っていなかった。出会ってからかなり経つが、これは良くも悪くも、離れてみなければ分からなかっただろう。
逆に自分は"もの"に執着がなさすぎる自覚があるので、これからは気をつけなければならない。
そんなことを考えていたら、いつの間にか部屋の前に到着した。
カイは一瞬立ち止まって、ふうっと息を吐く。
視線をやると、彼もこちらを見上げたところだったので、丁度視線が合った。
誉は優しく微笑んで頷いて見せた後に、鍵を開けてやった。カイもまた、すぐに頷いてドアノブに手を伸ばした。それから一拍だけ置いて、緊張した面持ちで玄関を開く。
――ほぼ2年ぶりに入った誉の、もとい、二人の部屋は全然変わっていなかった。
まずその懐かしいにおいに、カイの表情が緩む。
そして恐る恐る靴を脱いで上がったその時、不意に誉が声をかけてきた。
「……おかえり、カイ」
その瞬間、カイの瞳からボロボロと涙が溢れた。
その理由を考える余裕もなく、自然と手の力が抜けていく。鞄が、床へと静かに滑り落ちた。
嗚咽にひっかかって、「ただいま」という言葉がなかなか出てこない。代わりにぎゅっと拳を握ると、俄に誉に後ろから抱きしめられた。
それを契機にカイはワッと声を上げる。
そしてそのまま小さな体を震わせ、何度もしゃくり上げながら、まるで子供みたいにわんわんと泣き始めた。誉はそんなカイを強く、強く抱きしめる。カイはその腕を抱えるように掴んで、やっと返す。
「……っ、ただいま……」
そして、懸命にこみ上げる嗚咽をこらえながら続けた。
「……、ほまれも、おかえりなさい……」
誉もまた、
「――ただいま」
と返して、ゆっくりと瞳を閉じてその温もりを噛み締める。
――やっと、やっと帰ってきた。
ただ、なんてことのない二人の日常が戻ってきただけのことだ。
でも、それが何よりも嬉しくて、こんなにも尊い。
特別なものなんて、何も要らなかった。
互いの温もり、それだけで十分だったのだ。
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