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 大皿に盛ったパンケーキを1枚、オムレツを3分の1。それからスープとイチゴを3粒食べ終え、カイはふうっと息を吐いた。 「おなか、いっぱい……」   確かにそう言う通りお腹は少しだけふっくらしている。が、誉はその食がまた細くなっていることに気がついて、一瞬だけ撫でていた手を止める。   それに、こうやって抱いていると体重自体もかなり落ちていることがわかる。以前から痩せ型ではあったが、ここまでではなかった。体調を崩したと聞いたが、よほど深刻だったことが伺える。 「こんなに食べたの、久しぶりかも」 一方で、カイはそんな誉の沈痛な思いなど露知らず、呑気にそう呟くと、嬉しそう笑った。 「……そっか、よかった」 誉はそれ以上は何も言えず、カイの薄いお腹をゆっくり撫でるばかりだ。  カイはそんな誉の手をなぞりながら、ぼんやりと皿の上の料理が減っていく様子を暫く見ていた。 そして誉が箸を置いたタイミングで、ポツリと言う。 「……ねえ、ちょっとだけ、いい」 誉は、空いた右手でカイの手を覆うように包んで「うん」とだけ言って頷いた。するとカイは、視線を落としてゆっくり話し始める。 「……オレ、誉がフェローに行った前後の記憶がね、かなり曖昧なんだ」 誉は何も言わずに、カイの手をただ撫でている。 「気がついたら病院にいて。季節はいつの間にか夏を通り越して、秋になってた」  ――少しだけ間が空いた。 カイの手にわずかに力がこもる。 懸命に言葉を選びながら、心中を何とか齟齬なく誉に伝えようとしている。そんな雰囲気だった。 だから誉は何も返さず、静かにカイの言葉を待つ。   「でも、その後も頭の中がザワザワしてる日が続いて……。兄さんから、ほまれが連絡くれたよって教えてもらっても、ちょっと、その……書いてあることの意味がよくわかんなくなっちゃってて……。 ようやくお返事できるかなって思ったときには、もう、結構、その、時間が経ってて……」 カイはそこで更に俯いて、声を震わせた。 「今さら、オレが、何を言えるんだろうって。 考えれば考えるほどわかんなくなっちゃって。 ……変なこと言って、また心配かけて……。 ほまれの邪魔には、なりたくなかったし……。 そこで一度止めて、また少し時間を置く。 それから2回深呼吸をして、意を決したように最後の言葉を続けた。   「だから、お返事、できなかった。 ……ごめんね」 誉は、カイの狭い肩に額をコツンと押し付けた。 そしてしばらくそのまま黙り込む。 その後2回、カイのお腹を撫でてから、 「……そっか」 とだけ言った。また少しだけ沈黙が続く。 カイの肩が震え始めた所で、誉が再び口を開いた。 「――正直に言うとね」 誉が受け止めた後に、そうやって言葉を続けることは珍しい。カイは、反射的に身を硬くする。 しかし誉は顔を上げ、それをほぐすようにゆっくりと背中から抱き直した。 頭の後ろに、誉の唇が軽く当たる。 その仕草で、誉が怒っているわけではないのだと察したカイは、少しだけ肩の力を抜いた。 「君から連絡がなくて、不安だったよ。 ――でも、君のことだから、何かきっと事情があるんだろうなって思ってた」 そして誉は、カイの手を包むように握りながら、穏やかな声で括った。 「話してくれて、ありがとう」 その瞬間、カイの胸の奥がぎゅっと縮んだ。 「……後悔してる。 どんなに遅くなっても、お返事すればよかった」 「うん」 「お返事だけじゃなくて、ちゃんとオレからも連絡すればよかった」 「うん」 「兄さん、今日言ってた。 言われないとわからないって。 でも、オレ、聞かれないことは、言っちゃいけないんだと思ってて……」 「……うん」 「……言っても、よかったのかな」 誉は、また少し間をおいて、柔らかく返した。 「うん。……言ってほしいな。 だってさ、俺とカイは結婚するんだから」 カイが顔を上げて、誉を振り返った。 その揺れる赤い瞳をまっすぐ見つめながら、誉は穏やかに続ける。 「結婚するときってね、誓うんだよ。 健やかな時も、病める時も。 富める時も、貧しい時も。 互いに愛して、敬って、支え合いますって」 そして、 「もう一人で抱えないで。 ……俺にも、一緒に背負わせてね」 と言って、優しく笑って見せた。    カイはしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。 「……よかった。ちゃんと話せて」 そう呟いてから、少しだけ間を置く。 「誉が帰ってきたら、ずっと言おうとは思ってたんだけど……なかなか、タイミングが分からなくて」 誉は、カイを抱く手に力を込める。 「俺も、ずっと聞こうか悩んでた。 ――話してくれて、ありがとう」 その言葉に、カイはゆっくり瞳を閉じる。 ようやく2年間の胸のつかえが取れた気がした。 もう大丈夫、そう自分で自分に言い聞かせて、誉の腕をぎゅっと抱き返した。 しばらく二人だけの静かな時間が流れる。 カイの背中に残っていた緊張が、ようやくほどけてきた頃、今度は誉が口を開く。 「……ねえ、カイ。一つだけ、聞いてもいい?」 「うん、なあに?」 問いかけておきながら、誉は一拍、黙り込んだ。 言葉を選ぶように視線を落とし、慎重に続ける。 「カイが現場を離れたのは、……体調のせい?」  カイは、すぐには答えなかった。 視線を膝に落として、誉の指にそっと自分の指先を絡める。  「……オレは、そう」 歯切れの悪い返事だった。 その言い方が引っかかった誉は、もう一歩だけ踏み込んでみる。 「カイ"は"? ……じゃあ、航は、違う?」 カイは、小さく頷いた。 「じいさんに、言われた」 カイの言う"じいさん"、それは如月家の当主を指す。系列全体の理事長として君臨する、如月家の絶対君主だ。 「新病院の院長が、急にいなくなっちゃって……。 それで、ほんと……明日から院長やれ、みたいな感じでさ。ともかく、突然だった」   そこで言葉が途切れる。 続けるかどうか迷っている様だった。 誉は何も言わずに、静かにカイの言葉を待つ。   少しの間を置いてから、カイは誉の手をぎゅっと握り締め、再び口を開いた。 「兄さん、あんなに……現場、好きだったのに。 小児科で、ずっと張り切ってやってたんだよ。 子どもたちと一緒に、いつもあんなに楽しそうにしてたのに……」 そして悔しさが滲む声でそう言うと、ぎゅっと唇を噛んだ。 「それなのに兄さんてば、何の文句も言わずに、その日のうちに引き継ぎ始めちゃって。 本当に……次の日には、新病院に行っちゃってさ……」 その言葉が、誉の胸にも重く沈んだ。   ――航なら、きっとそうするだろう。 彼との長い付き合いを経て、そう容易に想像出来てしまうところが、なおさら切ない。   「でね……。その時、ホントはオレを副院長にって話もあったみたいなんだけど……」 カイのお腹を撫でていた誉の手が、止まる。 「ほら、オレ、倒れちゃったでしょ。 ……だから、その話も結局うやむやになって。 退院した後も、いや、まあ、今もなんだけど……。 フルタイムで現場に立つのは、難しくて。 そしたら、兄さんが、半分ずつならどうだって言ってくれて……」 「……今の形に?」 カイは小さく頷き、また暫く黙り込んだ。 誉は変わらず、そのお腹を撫でてやりながら待つ。 「誉の人事も、そう。 オレと誉は一緒がいいよなって……。 それで、理事会でも、ギリギリまで揉めて……」 その声が、かすかに震える。 「オレ、何もできなくて。 兄さんが戦ってるのに、見てることしかできなくて……。だから、今度こそ迷惑かけないようにって」 「それで、"事後承諾"って言ってたんだね」 「うん……」 カイは力なく頷いた。 「でも、結局また兄さんに余計な負担かけちゃった……。オレがもっとちゃんとしてたら、兄さんをあんなふうに困らせないで済んだのに……」  誉は何も言わずに、慰めるようにカイをゆっくり抱きしめ直した。 その頭に頬を寄せ、包み込む。 しばらくそうしていると、カイがぽつりと零す。 「……やっぱりさ。 最初から兄さんにお願いして、任せておけばよかったんだよね」 その言葉には、彼らしい諦めと後悔、そして強い自己否定が滲んでいた。 「オレ、いつも兄さんの邪魔ばっかり……」 誉は小さく息を吐くと、カイを抱く手の力を緩めて問いかける。 「……それ、航に話したことある?」 それが心底意外だったのか、カイの動きがピタッと止まる。 誉は敢えて否定も肯定もせずに淡々と続けた。 「今、カイが言ってくれたのは"こうなんじゃないか"、"きっとこうだろう"っていう想像なんだよね」 誉はカイを抱く手を解いて、ソファーでこちらを見守っていたウサギを取って抱かせる。 「それが間違ってるとは思わないよ。 でも、想像だけで結論を出すのは、君らしくないんじゃない? ……推論の後は、検証しなくちゃ、でしょ。」 カイはウサギをぎゅっと強く抱きしめながら暫く思案した。 誉はそんなカイをもう一度抱いてやりながらほんの少しだけ表情を緩めて言う。 「迷惑だ、とか、邪魔だ、とか。 それを決めるのは航だよ。 航は、言ってくれなくちゃわからないって言ったね。その通りだと思う。 航に、今俺に教えてくれたことを、そのまま話してごらんよ。 航は――ううん、俺も想像で話すのはやめるよ」 そして航は少しの間を置いて、最後に付け加えた。 「もしかしたら返された答えに、傷つくことがあるかもしれない。それでも、想像だけで自分を責め続けるよりはずっといい。 少なくとも、俺はそう思う。 同じように、君の航を心配する気持ち、感謝する気持ちこそちゃんと伝えてあげて。 現実はなかなか変えられないけど――それだけで救われることが、きっとあるから」 カイはしばらくの沈黙の後、頷いた。 「……兄さんと、話してみる。 今までのことも、これからのことも、ちゃんと」 誉は、カイをウサギごと包み込んで抱く。 そして、その肩にもう一度額を押し当てて続けた。 「……大丈夫。俺も、ついてるから」 その一言で、カイは胸の奥に溜まっていた不安が少しだけ安らいだ気がした。 誉と一緒なら、きっと大丈夫、そう思えた。  一方で、誉はようやく腑に落ちた。 航ですら、檻の中に囚われている。 それでも航は、その中で弟を懐の中に隠し守り続けてきたのだ。誉は静かに結論付ける。 ――檻の出口に導かなければ、カイは羽ばたけない。では、その檻を作ったのは誰か。それは……。 「……大丈夫」 もう一度、誉はそう誰ともなしに呟く。 そして、腕の中のこの愛しい温もりを守るように、静かに抱き続けた。

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