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2-14.
ふぁ。
――力の抜けた、あくびが聞こえた。
後ろ抱きでお腹を撫でる誉の手に添えられていた指先が、ずるりと落ちる。
「眠たくなった?」
「うん……」
カイは目をこすりながら頷く。
「ベッド行く?」
「んーん……」
カイは誉の胸に頬を寄せ、もう一度くぁっとあくびをした。ウサギのぬいぐるみを抱き直す。
そして、そのままコテンと全身の力が抜ける。
すぐに規則正しい寝息が聞こえ始めた。
――寝たな。
疲れたのだろう。無理もない。
感情の波が、激しく動いた午後だった。
誉は短くなったその美しい白髪を撫でながら、じっと動けずにいる。
胸に預けられた頬のやわらかさ。
服越しに伝わる温もり、そして心地のよい重さ。
誉は、食事の後のこういう時間が好きだった。
ただ何をするわけでもなく、満たされた余韻に浸りながら、二人が共に在るだけの、穏やかな時間。
しかし、今日は違う。
胸の奥が一つも落ち着かない。
――明日。
誉はカイの頬を撫でる。
――明日、この子は、もういない。
わからないことばかりだった。
航からの説明は最低限しかなかったし、その意図も向かおうとしている方向も、全く見えない。
本来、自分は当事者であるはずだが、全くの部外者として待ち従うことを強要される。
もしも、自分がもっと共闘が認められる器を持っていたなら、状況はもっと違っただろうか。
――なんて。
幾度となく思い浮かぶ、考えても仕方がないことをもう一度頭の中で打ち消して、誉は息を吐いた。
明日から、この子はどうなるのだろう。
次に湧いた、そんな疑問を形にした途端、喉の奥が詰まる。何となくだが、誉には答えが見えていた。
きっと、離れて過ごしたフェロー中と同じことが起きる。
カイは、自分と離れすぐに体調を崩したと言っていた。回復に長い時間がかかった、とも。
しかし少なくとも帰国後の一ヶ月間、誉が見ている限り、到底快復したとは言えない状態だ。
カイは明らかにその時の後遺症を、今も尚引きずっている。
そんな子が、もう一度同じ状況に置かれた時何か起きるか――考えたくもない。
誉は、重く沈む気持ちのまま、思考を止め目を伏せた。その瞬間だった。
ソファーに投げ出したままのスマホが震える。
手に取ることもなく、視線だけで確認する。
航だった。
誉は短くため息をつくと、それを手に取り通話ボタンを押した。
「今、大丈夫か?」
「少しなら」
「……櫂は?」
「寝てるよ。膝の上で、すやすやと」
「そうか……」
ほんの少しだけ、誉の言葉から棘と距離を感じながらも、航は気づかないふりをして話を続ける。
「先ほどは、すまなかった。
お前には、きちんと話しておかないといけないと思ってな」
「……」
誉は、無言で通す。
――ああ、駄目だ。これはかなり怒っている。
こいつは本当に昔から、櫂のこととなると……
航は俄かにこめかみのあたりが、ピキピキと痛むのを自覚しながら、言葉を慎重に選択した。
「例の件については、今朝の理事会で、一旦決着がついた」
「……」
航が話した内容は、到底誉が納得できるものではなかった。要は、全ての罪を櫂の精神的不安定さになすりつけた、ということだ。
その結果下された判断が、保護という名のもとの罰、隔離入院。
更に行う治療とやらは、投薬によるコントロールと、社会復帰を目指した生活指導ときたものだから、誉はもう腸が煮えくり返る思いだった。
――カイは、確かに不安定さはあるものの、投薬が必要なほどではない。
それどころか、寛解に向けて断薬を進めていたはずだ。彼の経過と今の処方を見れば、そんなことは医者なら誰でもすぐに分かる。
誉は変わらず何も返さない。
航が短く息を吐く音が聞こえた。
「処遇についてだが、まずは現状維持で話がついた。症状が落ち着けばカイは職場に戻すし、お前とのメンター契約も継続させる。
俺の管理下で、プライベートでも会えるよう調整する。大丈夫だ、任せてくれ。うまくやる」
――何が大丈夫なものか。
誉は即座に心の中でそう毒づく。
――航は、巧みに目標をすり替えた。
カイの願いは、現状維持ではない。
結婚だ。
「そのためにも、お前の協力が必要だ。
当面はこちらの指示に従ってもらいたい。
まずは……本日を以て、櫂との接触を控えて欲しい」
最早、誉の返答を待つこともなく、畳み掛けるように航が話す。さっさとこの会話を終わらせたい、そんな意思を感じた。
「厄介なことに、今回の保護入院には理事会の監査が入ることになってな……。
これは一重に俺の力不足故だ。
すまないが、今は我慢してくれ」
航がそこまで言い切ったところで、誉はようやく口を開いた。
彼にしては珍しく、酷く淡々とした声だった。
「櫂に治療が必要だと判断したのは、誰」
一瞬の沈黙があった。
それでも航は、逃げずに答える。
「俺だ」
「君は、櫂の何を見てきたの」
「数字と行動パターンだ」
「感情は?」
「そんなものは当てにならん。
患者は時に嘘をつく。まあ、作為的ではなく、思い込みや勘違いの時もあるがな」
「……」
誉は、深くため息をついた。
安心しきった顔で眠る櫂の、少しだけ桃色に染まった頬をゆっくりと撫でる。
そして、一度瞳を閉じて、すぐに開いた。
それから少しの間を置き、強い声で返す。
「俺は、カイと結婚するよ」
電話の向こうで、航が息を呑んだのが分かった。
「俺が今君に従うのは、懐柔したからじゃない。
今は、それが最適だと判断するからだ。
櫂に何かあれば、俺は櫂を攫ってここを出る。
――手段は選ばない。君の思い通りにも、ならない」
「……」
電話口から、深いため息が聞こえた。
そして少しの沈黙の後、航が声を落として返した。
「――お手柔らかに、頼むよ」
通話が切れるや否や、誉はスマホをソファーへと乱暴に叩きつけた。
そしてそのまま数秒、動けない。
その時、膝の上でカイが小さく身じろぎをした。
寝息は変わらず一定で、深い。
誉は、その整えたばかりの白い髪を、指先で梳く。
短くなった分、細く頼りない首の線が、はっきり見えた。少しだけ薄くなった自分がつけた跡にそっと触れる。
――この子には、結局、何も知らされない。
明日から自分がどこへ連れていかれるのか。
誰に囲まれ、何を飲まされ、何を「治される」のか。何もわからぬまま、これからの日々を一人で過ごさなければならない。
――考えただけで、誉の胸の奥が、ぎゅっと締まる。
航にぶつけた怒りの半分は、本当は自分に向けるべきものだ。
きっとこれからの日々の中、カイは、酷く傷つくだろう。それが分かっているのに、何も告げずに送り出す自分もまた、彼と同罪なのだ。
誉には、カイと共に生きる覚悟がある。
しかし、今の櫂を連れて出たところで、継続的な医療も、生活の基盤も、法的な後ろ盾もない。
覚悟と、その手段の有無は別物だ。
――悔しい。
非常に悔しい。
だが、認めなければならない。
今は、如月家の力を借りなければ、カイを生かせない。――己の無力さに、心底、絶望する。
それでも。
それで終わる自分ではないだろう、卯月 誉。
そうやって、今までも生きてきたではないか。
奮起しろ。
まずは着実に、しかし確実に、こなすのだ。
その先に、必ず望む未来が拓けるはずだ。
誉は、ゆっくりと呼吸を整えた。
起こさないように、そっとカイの頬を撫でる。
柔らかい。
温かい。
――大丈夫。
生きている。
今の自分にできることは、少しでも多く、この子の心の拠り所を作ってやることだ。
つらい時、悲しい時、さみしい時、少しでも心を慰めることができる、何か。
その身の回りにおいても不自然ではなく、管理や制限の名のもとに、取り上げられないもの――。
その時、カイの腕から、ぬいぐるみがずるりと滑り落ちた。
床に届く寸前で、反射的に誉が受け止める。
ウサギのぬいぐるみ。
幼い頃航が作り、カイに送ったと聞いている。
この子は、このウサギに兄を重ね、縋って生きてきた。例え兄に傷つけられようと、きっとそれは変わらない。
その瞬間、誉の胸の奥で何かが弾けた。
苛立ち。
焦燥。
そして、どうしようもない独占欲と、嫉み。
咄嗟にそれを投げ捨てたい衝動が、走る。
だが次の瞬間、理性で踏みとどまった。
――これはカイの心だ。これを否定することは、カイを否定するのと同じことだ。
誉は深く息を吸い、吐いた。
――ならば。
誉はウサギをそっとカフェテーブルに置くと、その引き出しを開ける。
中には小さな裁縫道具が入っていた。
それからそっと上着のシャツを脱ぐと、徐にはさみの刃を入れた。
時折、横目でウサギを見ながら布を切り落としていく。あっという間にパーツを揃え、切りっぱなしの処理を終えると、今度は順に縫い合わせ始めた。
「……ん」
最後の裾を縫い始めたところで、カイが目を覚ました。誉の胸に頬を擦り付けた後、目をこすりながら誉を見上げる。
珍しくその視線が前を向いたままだったので、つられてその方を見る。
そしてすぐに気が付き、驚いた。
誉が、小さなワイシャツを、黙々と縫っていたからだ。あっという間に裾を縫い終え、今度は自分のシャツからボタンを外して、またその小さなシャツへと移植する。
そして合わせてボタンホールを開け、器用にステッチを施すと、左右の袖を引っ張り開いた。
それを見たカイが、すぐに言う。
「誉のシャツと、おんなじ」
「うん、いいでしょ」
誉はやっとカイを見てそう言うと、ニコッと笑った。それから、ウサギに作りたてのシャツを着せてやる。ピッタリだった。
カイが、わぁっと声を上げてウサギに手を伸ばす。
誉が持たせてやると、ぎゅっと抱きしめてふにゃりと笑った。
「ほまれ、ありがと」
「どういたしまして」
「ふふ、ウサちゃん、ほまれみたい」
その行動の意図を、カイは聞かない。
誉もまた、何も言わなかった。
穏やかな一日の終わり、ベッドに入る直前。
珍しくカイが、イヤイヤをした。
ウサギを抱いたまま、ベッドの三歩手前から動かない。誉が布団を上げて誘っても、その足は動かなかった。
「……ねんねしたらさ、明日がきちゃう」
カイがポツリとそう言う。
同時に、我慢できなくなったのだろう。
涙がポロポロと赤い瞳からこぼれ始めた。
「明日になったら、さ。
ほまれと、一緒にいられなくなる」
詳細は知らずとも、察してはいるようだった。
それでもまさか、明日から自分が隔離されるとは、露ほども思っていないのだろうけど。
「カイ、おいで」
誉は努めてそう明るく言うと、手を伸ばし、カイを引き寄せた。そのまま膝に乗せて、丸まったその背中をなでてやりながら言い聞かせる。
「大丈夫、俺たちはいつも一緒だよ」
そして次に、誉はウサちゃんが着ているシャツを、ツンツンとつついた。
カイがハッとしたように誉を見上げる。
「身体は離れても、心はずっと一緒だからね」
再びカイは、ふええと声を上げて泣き始めた。
「泣いたっていい。暴れてもいい。
でも、思い出してね。
誉はいつも、カイを思ってるよ。
――ずっと、一緒だよ」
そうして二人は、ぎゅっと抱き合ったまま、ベッドに横になる。
カイは誉に抱きしめてもらいながらその胸に額を押しつけて、安心したように目を閉じた。
一方、誉はその愛しいぬくもりを抱きながら、このまま明日が来なければいいのにと願った。
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