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3-1.

低く唸るエンジン音が、閑静な住宅街に響いた。 艶のある赤い車体が、地を這うように前進し始める。丸いテールランプが消えた次の瞬間、車は腹の底まで響く音を立てて、一気に加速した。 誉は、轟音が聞こえなくなるまでそれを見送った。 そして踵を返して、振り返ることなくマンションへと戻る。   ふと、エントランスに設置された郵便受けに目をやる。自分の部屋番号のポストから、大きな封筒が半分はみ出ているのが見えた。 誉はまず、封筒を引っ張り出す。 差出人を確認するや否や、その眉が寄った。 「昴の……」 そしてそう呟くと、他を郵便受けに残したまま、エレベーターへと向かう。 エレベーターに乗り込むや否や、誉は乱暴に封筒を破った。 その中にはパンフレットが一冊、便箋一枚。それから書類が三枚入っていた。 ちょうど便箋を摘み上げたところで、エレベーターが開く。それを読みながら一歩前に出て、誉はすぐに足を止めた。その目をわずかに大きく開く。 続けてすぐに残りの書類を確認する。 そしてその全てを把握すると、短く息を吐いた。 「……なるほど」 一拍を置き、誉は落ち着いた声でそう呟き、玄関の扉を開く。それからダイニングに入ると真っ先に、手に持っていたもの全てを、ゴミ箱に投げ捨てた。 そこからはみ出た紙片には、 「貴殿を、次期中核医師として迎えたい」 という一文が、逆さまに見えていた。 ★ 「髪、切ったんだな」 ハンドルを握りながら、航が言った。 櫂は俯いたまま、小さく頷く。 「その方が、ずっといい」 そんな兄の言葉に、顔を上げる。 しかし、兄が前を向いたままだったので、すぐにまた頷いた。 次に兄は、櫂に目もくれぬまま、淡々と続ける。 「ウサギはどこだ?」 「……かばん……」 「抱いてろ」 「……」 「早く」 ――今日の兄は、機嫌が悪いのだろうか。 櫂は、その冷たい声に萎縮しながら、櫂は足元の鞄からウサギを取り出した。 そして、言われた通りにギュッと抱く。 航は、ウサギが見慣れぬ服を着ていることにすぐに気がついた。 しかし、敢えて何も言わないことに決めた。 そして黙ったまま、アクセルを強く踏み込む。 その瞬間、ぐんとシートに身体が押し付けられた。 唸るようなエンジンの加速音に、櫂の心臓が一気に跳ねて、思わず身体を強張らせる。 耳を塞ごうとした瞬間、スピーカーからラジオ特有のざらついた音と共に、過剰に元気な歌声が飛び込んできた。時折、誰かの笑い声と、合成された拍手のような音が混じる。 櫂は目を大きく開き、そのまま動けなくなった。 それと同時に両耳に刺すような痛みが走り、強い頭痛を引き起こす。だから、耳ではなく頭を押さえ、蹲ろうとした。 が、シートベルトが邪魔をしてうまくできない。 何度やってもベルトに突っかかって戻される。 気持ちだけが、焦る。 しかし焦れば焦る程、頭の中がぐちゃぐちゃになって、わけが分からなくなる。 息が吸えない、身体が震える。 怖い、わからない。わからないから、怖い。 そんないつもの悪循環が始まる。 するとその瞬間、全ての音がフッと消えた。 櫂がゆっくりと頭を上げて、兄の方を見た。 一瞬だけ、目が合う。しかし、すぐに逸らされた。 兄はパドルシフトを操作しながら、低い声で櫂に告げる。 「今から言う言葉を、全て覚えろ」 まだ完全には平生まで戻れていない櫂は、震えながら首をかしげる。 すると兄は、更に低い声で繰り返した。   「覚えろ」 櫂は即座にひくっと喉を鳴らし、コクコクと必死に頷いて返す。 航はそれを横目で見ると、短く息を吐いた。 それから、ゆっくりと口を開く。 「赤、三角、七、犬」 櫂は眉を寄せた。 しかし兄の言葉は止まらない。 意味を問う理由すら与えられず、そ櫂は困惑したまま、それでも兄の指示に従った。 息を吐き出して、ウサギを抱き絞めて、スッと瞳を閉じる。 ――意図的に、兄の声以外の情報全てを遮断する。   「青、四角、九、猫、木……」 その後、意味不明な言葉の列挙は、全部で20個に及んだ。航はすべてを言い終えると、一息つく。 そしてすぐに、 「もう一度、言う」 とだけ言って、続けようとした。 「――あか」 それを途中で遮って、櫂が復唱し始める。 「……さんかく、しち、いぬ……」 航は、目を大きく見開いた。 「あお……、しかく、きゅう、ねこ……」   櫂の声は、まるで今にも泣き出しそうな程、弱々しいものだった。しかし、確実に、航の言葉をそらでなぞっていく。 ――嘘だろ。 航は内心、驚きを隠せない。 たった一度、言い聞かせただけだぞ……? そんな航の気持ちとは裏腹に、櫂は一度も詰まることなく、とうとう最後まで完璧に言い切った。 航は畏怖の念すら抱きながら、思わずその顔を見てしまった。 不安げに揺れるその赤い瞳と目が合った瞬間、まるで鷲掴みされたかのように、胸の奥が痛んだ。   すぐに前を向き、そんな心の痛みに歯を食いしばり耐えながら、急ぎパドルシフトを操作する。 再び、エンジンの低い音が車内に響き始めた。ラジオの音も同様で、櫂はすぐに目を閉じ耳を塞いだ。 ちろりと兄を横目で見上げたが、さっきと比べて、益々怖い顔をしている。 その様子から、音を止めて欲しいとは到底言い出せず、櫂はそのまま耐えることを選んだ。 兄が迎えに来たのは、いつもの出勤時間よりも1時間ほど早かった。だから一度兄のマンションに戻るのかと櫂は思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。 車は、勤務先である新病院に着いた。 航は迷うことなく、役員用の地下駐車場へとまっすぐ入っていく。   そしていつもの場所に停車した後、キーを切る音と共に、急に静寂が落ちた。 よ うやく喧騒から解放された櫂は、耳から手を下ろしてホッと息をついた。 し かし安心したのも束の間、開かれたドアから入ってきた地下特有のひんやりとした空気が肌に触れた。それだけで鳥肌が立ち、身体の芯がじわじわと緊張し始める。差し伸べられた兄の手を取り、車から降りた。 そしてようやく気が付く。 車内は、最初から不自然なほど温かかった。 その内外の温度差が今、櫂の身体をより強く刺激し、情緒を揺さぶってくる。 次に櫂は、自分のカバンを取り出そうとした。しかし、寸前で先に兄に取られてしまう。 しかも、兄がそのまま歩き出してしまったので、櫂はウサちゃんを抱いたままその後に続くしかやい。 いくら大好きなウサちゃんと言えど、流石に外で抱いて歩くのは抵抗がある。兄に何とかカバンを返してほしいが、その不機嫌な後ろ姿を前に、声を掛ける勇気が出ない。仕方なく櫂は、ウサちゃんを隠すようにして、抱き直した。 そのまま少し行くと、先の歩行者用通路に、見慣れた背中があった。 ――瀬戸だ。 櫂は、ようやく希望が見えた気がした。 瀬戸は優しいし、急に怒ったりなんかしない。 大丈夫だ、きっと何とかしてくれる。 そう思いながら歩を進め――すぐにその歩を止めた。 車椅子。 金属のフレームが、蛍光灯の白い光を鈍く反射している。その存在を認識した瞬間、腹の底がひやりとし、心臓が跳ねた。 瀬戸は、航に一礼した後、櫂の方を見た。 そしてまた櫂を見て同じように礼をすると、柔らかい笑みと共に車椅子を押して来る。 櫂は一歩後ずさった。途端にうまく息が吸えなくなって、足が震え始める。 その隙に目前まで迫った瀬戸が、櫂の肩を取った。 それから、変わらず穏やかな笑みをたたえながら、 「さあ、坊ちゃま。どうぞ」 と、座るように促した。   櫂は車椅子の座面を見つめながら、呆然と口を開いた。 「……兄さん、何で」 兄が立ち止まる。 けれども、振り返ってはくれなかった。 「オレ、歩けるよ」 ――返事はなかった。 「歩けるよ……」 櫂は声を小さくして、もう一度言う。 抱いたままのウサギに、無意識に指が食い込んだ。   「今日は、熱もないし。咳も出てない。 今朝だって、大丈夫だよ、元気だよってほま……」 「今のお前には必要だ、乗れ」 そこで遮るように、航が言った。 「ここは役員用駐車場だ。無駄に騒ぐんじゃない」 冷たくて、硬い声だった。 理解が追いつかぬまま、櫂はその場に立ち尽くす。 今のオレに、車椅子が必要? 理由が全く見当たらない。 だってどこも痛くないし、普通に立てる。 ここまでだって、ちゃんと自分の足で歩いて来た。 そもそも、誉からだって今日は体調がいいってお墨付きをもらってきたんだ。 薬だって、喘息の薬しか飲んでない。 それなのに、ちゃんと車と音楽のやかましい音にも耐えられたじゃないか。 そう思考だけは先走るものの、兄が怖くて口に出せない。だから、ただ黙り込んでその背中を見つめる。すると、いつの間にか後ろに回った瀬戸が、もう一度優しく声をかけてきた。 「坊ちゃま、こちらへ」 そして櫂の背中を軽く押しながら、少しずつ車椅子の方へと導いていく。 「……やだ」 櫂は仰け反りながら、そう返す。 靴底がコンクリートを擦る音が、やけに大きく響いた。 「乗らない」 そして瀬戸の手から逃げるように、身を捩った。  同時に首を大きく横に振りながら、ただ、 「やだ……やだ」 と上ずった声で抵抗する。 それでも瀬戸は、そっと支えるように櫂に身体を寄せる。そして安定して、優しい声かけをし続ける。 「坊ちゃま、さあ、お座りください」  「やだ、やだぁ」 ぐず、ぐすと櫂がすすり泣く声が響き始めた。 するとその時。 「櫂」 ――航が、怒気を孕んだ低い声で呼んだ。 櫂は反射的に顔を上げた。 航の見下ろしてくる鋭い視線が、冷たく櫂を刺す。 「乗れ」  航はもう一度、そう言った。 「お前のわがままに付き合ってられるほど、俺は暇じゃないんだ」 刹那。 櫂の中で幼い頃の記憶が、嫌な速度で蘇った。 何を訴えても、「わがままだ」と一蹴された日々。 だからと言って暴れれば、罰のように取り押さえられ、縛りつけられた日々。   櫂は、ゆっくりと視線を落とした。 腕の中のウサギを、ぎゅっと抱き直す。 瀬戸がもう一度、櫂に囁く。 「さあ、坊ちゃま……。参りましょう」 膝の裏に、硬い金属が押し当てられる。 その瞬間、櫂の身体から力が抜けた。冷たい座面が太腿に触れると、少しだけ視界が低くなった。 「行くぞ」 航の声で、車椅子が押し出される。 一方で、長い通路を進むごと、周囲に人の気配が増えていった。理事会のメンバーだが、櫂にそんなことを知る余裕はない。 視界の端にちらつくスーツの裾。 耳障りな革靴の音と、ひそひそと交わされる声。   「……やはり渋ったか」 「報告にあった通りだ、不安定過ぎる」 「まあ、次男殿は普通ではないのだ。仕方がない」 「ぬいぐるみとは……。本当に大丈夫なのか?」 「いや、ダメだろう。だから当主さまは、ああまでも危惧なさっていたのだ」   櫂は、 断片的に耳に入ってくる言葉の意味が、どんどん理解できなくなっていった。かわりに、強い恐怖だけがその心に蓄積されていく。 そのまま膝を抱えて、ウサギを胸に押し付けた。 そして、指先を噛みしめながら、ただひたすらその恐怖心に耐えた。 そうやってまるで見世物のように駐車場を抜けて、エレベーターに乗り込む。 そして、行き着いた先の明るさと、その壁のあまりの白さに櫂は思わず目を細めた。 眩しさはすぐに痛みに変わり、そのまま手で目を覆うようにしながら、車椅子の上で縮こまる。 ついにたどり着いた見慣れたその扉は、櫂の執務室に他ならなかった。しかし、その室内は、いつもと違う様相を呈していた。 ベッドの周りには、幾つもの医療機器が並べられている。そしてそれに臨むように、内扉の壁に沿って、ソファーが2つ並べられていた。 既に、満杯の人が座っている。 彼らは、櫂の先を行く航の姿を認めるや否や、スッと立ち上がった。 室内は、普段はしない消毒液の匂いが漂っている。 櫂は、鼻がツンと痛むのを感じながら、瀬戸に車椅子を押されてベッドの前まで連れてこられた。 そして次に瀬戸が放ったのは、耳を疑う言葉だった。 「さあ坊ちゃま、お着替えをしましょう」 刹那、一同の視線が櫂に向けられると同時に、瀬戸がその上着に手をかけた。 「……待って」 櫂はそう言って、瀬戸の手を振り払おうとした。 しかし瀬戸は止まってはくれず、そのまま上着を脱がそうとする。 こんなに沢山の人たちの目前で着替えろだなんて。 そんなの、明らかにおかしい。 櫂は助けを求めるように、兄の方を向く。 ようやく目が合った。 同時に、その口がゆっくり開く。 ――よかった。兄がきっと、瀬戸を止めてくれる。 そうわずかな期待をかけた、その瞬間。  「瀬戸、急げ」 兄の冷たい言葉に突き落とされ、櫂は目の前が真っ暗になった。 後のことは、よく覚えていない。 気がつけば、櫂は入院着で一人、ベッドの上に座らされていた。 次に、白衣姿に変わった兄と、その後ろに控えるように立つ満が視界に入る。 兄は、ベッドサイドの機器を一つずつ丁寧に確認をしていた。 そしてそれが終わると、一貫して冷たい声で、淡々と言い放つ。   「それでは、入院前チェックを始めよう」

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