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3-5.
カイは、ゆっくりと目を開いた。
やけに頭がぼんやりしている。
けれども、その理由を考える前にひどい焦燥感に駆られて、押し寄せる不安に息が詰まった。
まだグラグラする頭を左手で頭を押さえながら、右手をベッドサイドテーブルをに伸ばす。
そして手探りで眼鏡を探し当てると、なんとか起き上がった。
眼鏡をかけると、幾らか感覚が整った気がした。
――そうだ、仕事。症例データ、見なきゃ。
櫂はベッドから降りて、そのまま執務机へと向かう。そして、置きっぱなしになっているノートパソコンを開いた。モニターの光で一瞬目がくらむ。
それでようやく、櫂は室内が異様に暗いことに気がついた。デスクライトを灯けて、椅子に腰を下ろす。IDカードが見当たらなかったので、仕方なく手打ちで入力をした。
モニター右下の時計は、18時30分を示している。
櫂は、余計に焦った。
いけない、昼寝をし過ぎてしまった。
急がないと、明日の朝カンファに間に合わない!
――航は珈琲を一口含み、ふうと息をついた。
椅子に背を預けて、"伸び"をした。
その流れでふと窓の外をみると、もう日が落ちている。「もうこんな時間か」と一人ごちて、デスク右側に設置されたモニターに目をやった。
「……ん?」
そして、すぐに異変に気がついた。
櫂がベッドからふらりと起き上がり、裸足のまま歩き出したのだ。
そしてフラフラと向かった先は、執務机。
「おいおいおい、何してんだ」
思わずそう呟き立ち上がり、慌てて内扉を開いた。
「……あれ?」
何度IDを入れても、パソコンへのログインが出来ない。櫂は画面を注視したまま、首を傾げる。
モニターの光が、やけに眩しい。
同時に、頭の奥が、じわじわ重くなっていく。
その時だった。
「櫂」
突然かけられた声に、櫂の肩がビクリと跳ねる。
顔を上げると、兄が立っていた。
「何をしてるんだ」
航がゆっくりと距離を詰めながら、確認するように言う。
「……えっ。ええと……」
櫂は答えようとして、すぐに言葉を詰まらせた。
何を、しようとしてたんだっけ。
――そうだ、症例データを……ん?
何で、症例データを?そうだ、朝カンファ。
朝カンファに間に合わな……
「あ……」
そこまで考え及んで、櫂はサッと血の気が引いた。
「仕事は、いい」
いつの間にか横に並んだ兄がそう言って、ノートパソコンの蓋を閉じた。それから、デスクライトも。
「今は、休むことに専念しよう」
そうだ。
自分はいま、入院中で仕事はできない。
症例データの確認も、朝カンファの準備も今はできない、必要ない。
――ぼんやりしたまま、体が勝手に動いていた?
それを理解した瞬間、櫂の胸の奥がぎゅっと締まった。
――怖い。
右腕をギュッと抑え、握り込む。
――前と同じだ、怖い。
どうしよう。
もしこのまま、ずっと勝手に動くようになってしまったら。
どうしよう。
……このままオレが、消えちゃったら。
まるで、自分が自分でなくなってしまうような感覚。それは櫂にとって、ただただ恐ろしいものだ。
カタカタと歯を鳴らしながら震え始めた弟の様子を伺いながら、航は人知れず息を吐く。
それからその肩を撫でて、そっとベッドに戻るように促した。
航は櫂がベッドに腰を下ろすと同時に、転がっていたウサギを抱かせる。眼鏡を、外す。
そして、その横に自身も座ると、
「大丈夫、服薬開始時にはよくある症状だ。
……気にするな」
そう言って、慰めるように背中を撫でた。
それから三十分もすると、ようやく頭の靄が晴れた。いやむしろ、妙に澄んだ感覚すらあった。
薬の波が、一時的に抜けたのだろうか。
執務室、もとい病室には、航に代わり瀬戸が控えていた。少し遅い夕食の準備をしている。
「さあ、坊ちゃま。お召し上がりください」
そしてカイは、瀬戸によりベッドテーブルに並べられた食事を忌々そうに見つめた。
「……食べないと、だめ?」
その献立が全く心惹かれない病院食であることはさることながら、そもそも食欲がないのだ。
瀬戸は白湯をコップに継ぎながら、穏やかに返す。
「少しでも結構ですよ。
ご無理はなさいませんように」
――が。
「ただ、お昼も殆ど召し上がっておられませんので……。食事量によっては点滴が入る可能性はございますね」
「それ、もう食えって言ってるよね……」
「点滴がお嫌でしたら、そうなりますね」
「……」
カイはため息をつきながら箸を取った。
しかし、気が乗らな過ぎて指先に力が入らない。
白い米粒がやけに眩しく見えて、喉の奥が詰まるような感覚がした。飲み込めなかったらどうしよう、そんな考えまで浮かんでくる。
点滴は、嫌いだ。
針を刺される瞬間も、血管の中に冷たいものが流れてくる感覚も――どうしても慣れない。
だからと言って気にし始めると、痛みに変わる。
……どう考えても、拷問だろ。
それでもカイは、何とか我慢をして米を一口だけ口に運ぶ。味が濃い漬物は無視して、すまし汁の大根を掬った。が、その中に鶏肉が入っていくことに気がついて、汁の中に戻す。
仕方なくメイン皿へと視線を移した。
白身魚の煮物――魚は無理、食べられない。
「よし、小鉢のカボチャの煮付けならいける」と思ったら、ひき肉の餡がかかっている。
「あー、もう!」
とうとうカイはイライラして、そう声を上げた。
「どれもこれも、肉が入ってる!
こんなの食べらんない!」
半ば癇癪のようにそう言うと箸を投げ捨て、ウサギを抱き込みながら足をバタつかせる。
瀬戸はそんなカイを横目に、取り箸で丁寧に肉を取り除いてやる。そして、
「坊ちゃま、どうぞ」
と、カボチャとすまし汁を盆に戻した。
「お魚も、一口は召し上がりましょうね」
そして切り身からほんの一口だけ取り出して、皿の手前に寄せると、改めてカイに箸を握らせた。
「これらと、ごはんを半分召し上がれたら、若さまにはきちんと食事が取れた旨、報告致します」
「……わかったよ……」
カイは半分べそをかきながら、箸先でカボチャをほんの少し削って口に運ぶ。瀬戸は満足げに頷いた。
今日の食事の介助が、爺で良かった。
これがもし、兄さんや満兄さんだったらこうはいかない。「食事拒否、問題行動」と宣告され、そのまま点滴に切り替えられてもおかしくない。
何だかんだ言っても、爺は優しい。
こうやって見逃してもらったことは数知れず、本当に助かる――あ、そうか。
そしてカイは、ふと思い当たった。
――臨時理事会の議事録。
これ、爺に頼めば、ワンチャンいけるんじゃ……?
カイは、ちらりと視線を上げる。
すると、食器を整えながら静かに控えている瀬戸と目が合った。一瞬だけ躊躇ったが、背に腹は代えられない――決めた。
カイはすっと息を吸い目を閉じた。
そしてゆっくり吐き終えると、目を開く。
「……じい」
先ほどとは打ってかわり、甘えた声で小さく呼ぶ。
瀬戸は、すぐに作業するその手を止めた。
「こっちきて」
「……かしこまりました」
カイはお尻一つ分横にずれ、空いたところをトントンと手で叩いて座るように促す。
瀬戸がその通りにすると、箸を差し出して「あーん」と口を開けた。
瀬戸は一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに表情を戻して差し出された箸を受け取ると、静かにカボチャを一口分だけすくった。
「はい、坊ちゃま」
「あーん」
カイは素直に口を開けてそれを食べ、ゆっくり咀嚼する。その味なんて全くわからなかったが、まるで美味しいものを食べているような顔をしてみせた。
その様子に、瀬戸がほっと息をついたタイミングで、肩を預けるように寄りかかる。
もう一度、口を開く。
今度はお米が少しだけ口に入ってきた。同じようにモグモグと口を動かし、飲み込む。
3回ほどそのやりとりをし、指定された量の半分ほどを食べ終わったところで、カイは甘えるように瀬戸にくっついた。
そして、顎を上げその耳のそばで小さく囁く。
「ねえ、爺。
爺は……オレの味方……だよね?」
瀬戸が、目線だけでカイを見下ろした。
カイは目を細め、口角を引き上げる。
そして小首を傾げ、低い声で言う。
「……オレを、助けてくれない?」
――瀬戸の返事は、思ったよりもずっと早かった。
「かしこまりました」
彼はそうとだけ言って、何事もなかったかのように次の一口をカイの口元に向ける。
カイはそれをパクリと食べると、瀬戸の胸に頬を擦り付け、続けた。
「……じい、ご本、よんで」
「どのようなご本にいたしましょう」
「んーと、ね……」
カイは少しだけ考える素振りをした後、答える。
「あたらしいの」
同時にウサギの耳をいじりながら、左手の人差し指だけを小さく上下に揺らす。
それを見た瀬戸は、そっとカイの人差し指の下に掌を差し出した。
「うさちゃんのだよ」
カイはそう言いながら、指先で瀬戸の掌をそっと撫でた。
"り じ か い"
"ぎ じ ろ く"
それは、カイが声が出せない時に使ってきた二人だけのサインだった。瀬戸は正確にカイの意思を汲み取っていく。
そしてすぐに、
「……かしこまりました」
とだけ言って、何事もなかったかのように新しい一口をカイの口へと運んだ。
食休みを兼ねてベッドでゴロゴロしていると、急に罪悪感が沸いてくる。
誉は、大丈夫だろうか。
急変とか、難症例とか入って、困ってないだろか。
脳神経科は人手不足が続いている。
自分程度でもいなければ、それなりに負担を増やす、申し訳なさが募る。
それなのに、自分だけこんなに怠惰な時間を過ごしていいのだろうか。
「……」
どんどん気持ちが滅入ってきて、カイはふうっと深く息を吐いた。
するとその時、瀬戸が戻ってきた。
大判の絵本を抱えている。カイは首だけを上げ、向かってくる瀬戸を出迎えた。
「……さあ、お読み致しましょう」
ベッドサイドに立ち瀬戸が言う。
カイは頷いて、瀬戸を招いた。
そしていつも通り肩に寄り添い、絵本の最初のページをめくる。
腕の中のぬいぐるみによく似ている、ウサギちゃんが主人公の仕掛け絵本だった。
幼い頃、何度も読んでもらったものだ。
右側のページが上半分と下半分に分かれており、話の進行に合わせて上か下、どちらかだけを捲る仕掛け。瀬戸がゆっくりと読み聞かせを始める傍ら、カイは下のページを捲る。
その三枚ほど後に、挟まれた議事録が出てきた。
――カイの目つきが変わる。
瀬戸はそれを横目に、何事もないかのように上のページをめくり、朗読を続けてくれた。
――なるほどね。
一通り書類に目を通し、カイは心中で目を伏せた。
誉とのことは、恋愛感情ではなく、症状。執着。
情緒不安定の一種として処理された。
……まあ、そうなるよな。全部きれいに体裁が整う。
誉は愚かな次男の標的になった、哀れな被害者。
逆にそうするしか、正当に誉を守る方法はない。
一方、自分は――保護入院。
そして、噂の再教育。
再教育について明確な定義はないが、当主がその"幼さ"を危惧しているが故の指示と、記載があった。
カイには、思い当たる節がある。
先日、本邸で話をした際、しきりに身なりや口の利き方を注意してきたし。
そして同時に、言われたことを思い出す。
――オレの役割は、如月に“在ること”。
つまり、子どものような欲求や感情を捨て、大人しく従えということか。
オレが役割を果たすために、その中身はいらない。
静かにしてればいい。
言われた通りにしてればいい。
お人形と同じ。昔と、同じ。
薬はきっと、多分これからもずっと続く。
思考を奪うならそれが一番早いし、確実だ。
ふと、思い出す。
白い天井。腕に絡む硬い布。
そこにいるのに、誰も助けてくれなくて。
ただ泣いて、震えて過ごすしかなかった、あの孤独な日々のこと。
――また、ああなるんだろうな。
頭が重く、霧がかったようにモヤモヤして、自分が自分じゃなくなる感じがずっと続くんだ。
――正直、それが何よりも一番怖い。
もしそのまま、いつもの自分に戻れなくなったら。
ぼんやりしたまま、好きとか嫌いとかも分からなくなってしまったら。
――誉のことが好きって気持ちも、わからなくなってしまったら。何も感じなくなったら。
怖い。
すごく、怖い。
そして何よりも――そんなの、嫌だ。
カイの身が硬く縮こまったのを察し、瀬戸はそっとその頼りない背中を撫でた。
そして、議事録の紙ごと、下のページを捲る。
もう一枚、紙が挟んであった。
そこには、見慣れた文字の走り書きが一つだけ。
ひとりで、がんばらなくていいからね。
そして、その横に添えられた不格好なウサギちゃん。
……誉だ。
絵なんて描くんだ。
――ていうか、下手くそすぎるだろ。
そう思った瞬間、カイの中で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
「……そろそろお休みになりましょうか」
静かな声とともに、瀬戸が本を閉じる。
そして、サイドテーブルから薬の入ったコップを取り出し、何でもない仕草で差し出した。
カイの喉が、ぎゅっと締まった。
心臓が変な音を立てながら、その鼓動を速めていく。息が苦しくなってきて、腕の中のウサギを抱き寄せた。
ウサギのシャツにそっと口づけると、少しだけ楽になる気がする。
――大丈夫。ひとりじゃない。
カイは自分にそう言い聞かせるように小さく息を吐いて、震える指先でコップを受け取った。
一瞬だけ躊躇い、目を閉じる。
もう一度深く息を吸い、吐く。
それから意を決したように、小さな錠剤を口へ運び、一気に喉の奥へと押し込んだ。
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