37 / 39
3-6.
入院 二日目。
想定通り、状態は依然として不安定。
日中は比較的落ち着いている時間帯もあるが、薬効の波がはっきり出ている印象だった。
薬が効いている間は、やや退行傾向。
瀬戸に甘える場面が増え、声色も幼くなる。
思ったより多弁だが、発言内容は断片的で、夢と現実の区別が曖昧な場面が見られる。
その中で、誉と既に同居している前提で話すことが二度あった。
一つは、他愛もない日常の話。
夕食の献立と、今日の帰宅時間のことを楽しそうに話していた。
もう一つは仕事の話。
「今回の症例は、誉じゃなきゃ無理」と口にし、サポートをしたがりタブレットを要求。
こちらから訂正の後、治療のため入院している事実を告げると、数秒の沈黙。
その後、急に口数が減る。
――理解をしようとしている。
が、現実は受け入れきれていない。
薬が切れ始めると、逆に理性的になる。
しきりに医局の状況を気にして、「人手が足りていないのに」「迷惑をかけてないだろうか」と何度も確認してきた。
食事量は依然として少ない。
瀬戸の介助で半量ほどは摂れているが、嗜好の偏りと拒否傾向が強く、経過観察を継続。
嫌悪というよりは、食事をとることに対する恐怖と見れる反応が出始めている。
瀬戸が食事量確保のため嗜好品なども使い、かなり調整している状況。……本当に頭が下がる。
夕方、服薬時に軽度のパニック発作を認めた。
強い拒否感を示すであろうことは想定していたが、過呼吸を起こす程の混乱と拒絶は想定外。
が、ここでも瀬戸の辛抱強い介助により、最終的には何とか自力で内服できた。
薬効でようやく落ち着いたと安心したのも束の間、深夜に途中覚醒あり。
強い不安発作の様な状態となり、軽度の癇癪。
「寝ないと治らない」「退院できない」と暴れて泣きわめいた。
寝られない自分への苛立ちが主要因か。
宥め、説得をするも反応が乏しかったため、主治医 吉高の判断で睡眠導入剤を筋注。
「――処置後は速やかに入眠、と」
航はそこまでを報告書に打ち込むと、一つ息を吐いた。
視線を上げると、ちょうどコートを着始めた満が目にはいる。
「……遅くまで、すまなかったな」
「いえ」
「湊くんは、大丈夫か」
「ええ、まあ……問題ないです。
留守番には、慣れてますから……」
満はそう言いながら、カバンに幾つか資料を入れ蓋を閉じた。
帰り支度を整えた満は、一度航の執務机までやってくる。そしてモニターに目をやり、
「よく寝ていますね」
と、その様子を伺いながら言った。
航も同じ様に映像を見ながら、頷く。
「服薬導入期としてはまあ、想定内の症状の出方と言えるでしょう。心配ありません」
「……とは言え、ここまで乱れられると、な」
航はこめかみを抑えながら、深いため息をつく。
「成り行きの入院とは言え……。
やはり、元から限界だったのかもしれないな」
その言葉に、満はその眉間に皺を寄せた。
「……何を言ってるんですか?」
そして、冷たい声で言い放つ。
「あなたがとどめを刺したんでしょう」
「……は?」
航は全く心当たりのないといった顔だった。
ギロリと航を見下ろしながら、満は珍しく苛立ちを隠す様子もなく低い声で返す。
「確かに崖っぷちではありましたが、櫂はちゃんと立っていました。
それをあなたが突き落としたんですよ。
あなたのやり方の合理性を証明する、ただそれだけのために」
言葉を失った航に、満はなおも続ける。
「確かに、ご当主候補としては満点の判断です。
角も立たない。体裁も守れる。さすがです。
――でも、兄としては落第ですね」
そして冷たく、ゆっくりと言い放つ。
「さて、ここからどう巻き返しますか?
……"兄さん"」
――航は、何も返さない。いや、返せなかった。
入院三日目。
前日よりも、症状は安定傾向。
ただし、薬効の波に伴う精神状態の変動は依然はっきりしている。
朝のバイタルは問題なし。
夜間に筋注した睡眠導入剤の影響か、起床はやや遅めだったが、覚醒後の意識レベルは良好。
見当識もしっかりしている。
午前中の櫂は、比較的落ち着いていた。
また、懸念だった食事量も昨日よりかなり増えた。
通常の倍ほど時間はかかったが、三分の二程度まで口に出来た。
ただし、瀬戸の根気強い介助は必須。
昨夜のパニック症状を鑑みて、部屋に点滴セットを設置した。
櫂のベッドのすぐ横に置いてあるが、ことあるごとに視線をやる。明らかに気にしている。
緊急時の迅速な対応を目的にしてのことだったが、――片付けさせたほうが良いのだろうか。
昼過ぎ。薬効が最も出る時間帯だ。
それもあってか、モニター越しに見るカイは、珍しく穏やかだった。
瀬戸の肩に頭を預け、ウサギのぬいぐるみを撫でながら、ずっと何かを話している。
その声は小さく音声は拾えないが、口の動きで大体の察しはつく――誉の話だ。
時折笑う。
そして、安心したように目を閉じる。
ああ、これが本来のこの子なのだ、と。
その様子を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。
櫂にとって、もっと他のうまいやり方があったのではないか?――そんな考えが、俄に頭を擡げ始める。
夕方になると、血中濃度が下がるタイミングに入る。櫂の表情が、明らかに変わった。
急に口数が減り、何かを考え込む時間が増える。
ウサギはベッドテーブルの端っこに置き、瀬戸に絵本を突き返す。
そして天井を見たまま、しばらく動かなくなった。
――理性が、戻りつつある。
航はそのままキーボードを叩き、メールを数本打った。昨夜の満の言葉が、頭から離れない。
だからこそ、櫂と直接話をしなければいけないと思った。跡取りとして、医者として、……いや、違う。
――兄として。
先のスケジュールを1時間分無理矢理空けて、航は立ち上がった。
――詰んだな、これ。
ベッドの上で天井を見つめながら、カイはぼんやりそう思った。
理事会の議事録は読んだ。
大体の状況は把握できた。
けれど、その先がまるで見えない。
誉の立場。兄の思惑。当主の判断。
どれも断片的で、決定的な情報がない。
情報が無さすぎて、何もできない。動けない。
――いや、動いちゃダメなんだろうけどさ。
櫂は、小さく息を吐く。
そもそも今は入院中だし、薬だって飲まされている。そのせいか、身体も頭も完全に自分のものじゃない感じがずっとある。
まるで、自分の思考を誰かに間引かれてるみたいだ。物を考えようとすると、必ずどこかで思考が霧散する。
昨日なんて、本当に酷かった。
本当に何の疑いもなく、誉と普通に暮らしている時のつもりで話してたし。
兄に訂正された瞬間、頭が真っ白になった。
あれ、結構こたえるんだよな。
オレ、完全に頭おかしいじゃん、てなる。
まあ、実際その通りだから、ここにいるんだろうけど。
一方、今は薬が抜け始め、思考は比較的クリアだ。
だからこそ考えれば考えるほど、情報不足で詰む。
『推論の後は、検証しなくちゃ、でしょ』
誉の言葉が脳裏をよぎる。
――検証。
あまり気乗りしないが……でも、それしかない。
つまり、兄に聞くしかない。
「……教えてくれる、かな」
カイはテーブルからウサギを引き寄せた。
そしてそれを抱きしめ、ぽつりと零す。
治療計画。再教育ってやつの具体的な中身。
それから、医局……誉の様子だって気になる。
兄に聞いたところで全部答えてくれる保証なんてない。というか、教えてくれない可能性の方が高い。
監視カメラがある。
恐らくそれは祖父をはじめ、理事会も監視している。仮にそうじゃなかったとしても、兄は一人で抱え込む人だ。
きっと自分には、そもそも話すつもりがない。
事実、今回の件についても「任せておけ」だけだ。
――兄さんは、オレにはいつも"果報は寝て待て"。
でも、それじゃあきっと、もう駄目なんだよな。
オレは大人だし、今度こそ如月家を出て誉と一緒になるんだから。
いつまでも、兄さんを頼っていてはいけないんだ。
「……ちゃんと、兄さんと、話そう」
――弟として。
そう呟いた、ちょうどそのとき。
内扉の向こうから気配がした。
姿を現したのは、兄だった
手には湯気が立つカップを2つ持っている。
カイは思わず身構えた。
「……カウンセリング?」
「いや?雑談でもしようぜ。
たまにはいいだろ。……兄弟なんだからさ」
航はあっけらかんとそう言って、ベッドテーブルにカップを置いた。紅茶のいい香りが漂う。
「……気を遣わなくていいよ。
兄さん、忙しいでしょ」
「……嫌われたもんだな。まあ……仕方ないか」
カイが小さく眉を寄せる。
「別に、そんなこと――」
「いや、いいんだ。
俺は、それだけのことをお前にしてきたからな」
航は目を伏せた。
カップの中で揺らめく紅茶に、暫くの間視線を落とす。一方、言葉を失ったカイは、そんな兄をただじっと見る。
少しの間をおいて、航が再び口を開いた。
「昨日の俺は、昔みたいだったろう。
怖かったよな」
兄の"雑談"の意図が掴みきれず、カイは反応の仕方を悩んだ。
しかし、兄がちらりと視線だけで監視カメラを確認したのを見て、「何か言いたいことがあるのだろう」と悟った。
だから、神妙な顔つきのまま、頷いてみる。
すると兄は紅茶を一口啜り、続ける。
「覚えてるか。……お前が小学校に上がった頃だ」
唐突に切り替わった話題に、カイは瞬いた。
「急に、俺がお前に冷たくなった時期があっただろ。……いや、“冷たい”なんてもんじゃないな。
相当辛辣な態度で……本当に、酷いことをした」
カップの縁を指でなぞりながら、航は淡々と続ける。
「理由は、まあ……俺の問題だ。
ともかくお前は何も悪くなかった。
俺の事情でな。勝手に突き放して、距離を置いた。
それで十年近く、まともに話もできなかった」
そして、小さく息を吐いた。
「昨日のお前を見ててな。
……ああ、昔の俺はこんなふうにお前を追い詰めてたのかと、改めて思った。後悔もした」
そこまで言い切って、航がまた黙った。
目を伏せる。
航にしては珍しく、言葉を探している沈黙だった。
紅茶の香りだけが、やけに強く感じられた。
やがて航は、再び口を開いた。
「だから、お前が俺を許してくれたあの日に、絶対お前を守ろうと思ったんだ。
だから、面倒ごとは、全部俺が引き取ればいい、それが贖罪で……責任だと思ってた」
そして、少しだけ視線を上げる。
「でもな……違ったらしい」
航はもう一度、ほんの一瞬だけカメラに目をやった。それから頭を掻き、バツが悪そうに言う。
「満にも、昨日こっぴどく怒られた。
当主候補としては満点。
でも兄としては落第だってさ。
――でも、そうだ。その通りなんだよ」
そして航はカイに向き直り、こう言った。
「結局は、俺の独りよがりだったんだろうな。
お前のことを決めるのに、ちゃんとお前に話したこともないし、聞いたこともない。
そしてお前は「聞かれなかったから、言わなかった」、に、なる。
……俺たちの問題は、そこなんだよ。
俺たちは、本当に何も話をしてこなかった。」
カイはすぐには答えなかった。
手の中のカップを見つめ、紅茶の表面に揺れる自分の顔をぼんやり追う。
――話してこなかった。
たしかに、その通りだと思った。
話すことを怖いと思っていたし、兄が聞いてくれるはずもないと勝手に決めつけて、ならば兄に従えばいいと甘え、逃げていた。
カイは、顔を上げると、意を決したように言う。
「……じゃあさ……。
今度は、オレの話、しても……いい?」
その言葉に、航は一瞬だけ目を見開く。
「兄さんに、聞いてほしいんだ」
そして航は、どこか安堵したように笑った。
「ああ。勿論だ」
そして紅茶のカップを置くと、改めてカイに身体ごと向き合い穏って、やかに返す。
「聞かせてくれ、お前の気持ちを」
カイは、しっかりと頷いた。
――逃げずに、話そう。
自分の言葉で、ちゃんと思いを兄に伝えるんだ。
ともだちにシェアしよう!

