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3-10.

当主は暫くの間、ただ、静かにカイを見ていた。 落ち着かないカイは、うさぎの耳に頬を押し当てたまま、ちら、と祖父を盗み見る。 視線が合うと、びくりとその肩が揺れた。   「……櫂」   低く名を呼ばれる。 それだけで、カイの指は深くぬいぐるみの身体に食い込んだ。 「ごめんなさい」 とうとうその視線と沈黙に耐えきれなくなったのだろう。か細い声で、そう口にする。 また、その視線は一向に落ち着く様子がない。 「何故、謝罪をする」 当主が問うと、カイは震える声で返す。 「……カイが、わるいこしたから、きたんでしょ……」 「心当たりがあるのか」 「……」 カイは、震えながら沈黙した。何も答えない。 ――いや、答えられないのだろう。 目を泳がせながら、再びうさぎに顔を埋める。 その様子を見た当主は、ようやく椅子の背にもたれた。   入院前に本邸で会った時は、多少幼さは目についたものの、ごくごく普通に見えていた。   だからこそ、理事会での航の報告で幾度となく繰り返された「非常に不安定」「危険な状態」という言葉は、誇張だろうと当主は踏んでいたのだ。 例の使用人を守るための時間稼ぎだ、と。 だが、悪い意味で裏切られた。 ――まさか、ここまでとは。 一朝一夕で起こる急性の変化とは到底思えない。 むしろ慢性的に、こうして落ちてきたのだろう。   瀬戸の対応を見ていれば、すぐに分かる。 あまりにも、手慣れすぎている。  当主もまた、しばらく黙ったままカイを見ていたが、やがてふと視線を少し上へと移した。 そして、呟くように言う。 「……ようやく髪を整えたか」 その一言に、カイの表情がぱっと明るくなった。 うさぎを抱えたまま、顔を上げる。 「かっこいい?」 「……前よりは幾分もいいな」 褒められたと思ったのだろう。 カイは、打って変わって嬉しそうに笑う。 「じぶんで、やったんだよ。じょうずでしょ?」 当主の眉がわずかに動いた。   「……自分で?」 「うん」 「何故だ?」 「おじいさまに、おこられたから。 でも、ちゃんと、きさらぎらしく、なったでしょ」 誇らしげに言うその様子に、当主は一瞬だけ言葉を失った。 ——如月家らしい装いをしなさい。 確かに言いつけた。 この状態の櫂が、それを口にするとは思っていなかったが……。 本人なりに、一応は“家に相応しくあろう”という意識はあるということか。   「――そうか。お前なりに考えたのだな」 当主は短くそう言ってから、目をわずかに細める。 「しかし、次からは専属に任せなさい」 「……ほまれ?」 間髪入れず返されたその名に、当主の眉間に僅かな皺が寄った。 「……なぜその男の名が出る」 カイは少し首を傾げ、それから当然のように言った。 「かみ、きるの、ずっとほまれだよ」 「……ずっと?」 「これもね、ほまれがもっとかっこよくしてくれたの。うしろ、むずかしいねって。ホラ」 「……」 得意げに後頭部を見せてくるカイを尻目に、当主はそれらの言葉を小さく反芻する。 ――卯月 誉。 元は櫂の家庭教師を長く務めていた使用人だ。 心身の弱さより、誰もが不可能だと諦めていた櫂を、医師として育て上げた。 その功績から、医師となってからも相談役としてそばに置き続けてはいたが……。    ――当主の視線が静かに鋭くなった。 「まさか、他にも何かさせているのか」 カイは少し考えてから、ぽつりと言う。 「ん……ごはん、くれる。あ、おやつも! あとは、おくすり……だっこ……それから……」 散髪や食事に端を発した、生活補助全般。 ――それでは、相談役というよりは、まるで……。 「そういったことは、瀬戸の役割だろう」 「うん。ほまれもだよ」 そして、櫂はあたかも当たり前のことをいうようにそう続けると、うさぎの耳を撫でた。 「ほまれも、じいも、だいすき」   当主は黙しながら、思考を巡らせる。  瀬戸は、家庭内での補助を基本に、幼少期より櫂を支え続けきた存在だ。 しかし、外の世界――学校や医局までは守備が及ばない。 不安定なこの子は、一人では立ってはいられない。 ならば、別の支えが必要だ。――卯月は、社会でこの子を立たせておくための拠り所と言うわけだ。 当主は、航の報告を、脳内で整理し直す。 ――執着の相手は、二人。瀬戸と、卯月。 最初は、櫂と卯月の関係を正当化するための詭弁だと考えていた。だが実際を見れば、それは非常に合理的だ。 向いている方向が内か外か。 それだけの違いだけで、二人の役割は、同じ。   ――ならば、拠り所を差し替えてやればいい。   卯月ほどの適任はそう多くはないだろう。 だが……皆無ではない。今ならまだ、替えが利く。 当主は、一度目を伏せた。 それから、再び視線を櫂へと戻しながら、椅子の背に体を預け、その名を呼ぶ。 途端、カイはびくりと肩を揺らし、再びぬいぐるみから顔を上げた。 「お前は、随分と結婚がしたいそうだな」 カイの視線が、当主へと移る。 「……いいの?」 そして、おずおずとそう問い返す。   当主は目を細めながら深く頷いて、静かに言い放った。  「あぁ。 お前がそう望むなら、相応しい娘を用意しよう」   カイの赤い瞳が、大きく開かれる。 「……むすめ?」 カイは少し考えるように視線を泳がした後、首を傾げた。それから、ぽつりと聞き返す。 「……ほまれは?」 当主の眉が、わずかに動いた。 そして一瞬だけ目を細め、淡々と答える。   「それは、使用人だろう。瀬戸と同じだ」   カイの瞳がゆっくりと揺れた。 「……ちがう」 かすれた声でそう返して、すぐに俯く。 それからぬいぐるみが着ているシャツをぎゅっと握りしめて、もう一度繰り返した。    「ほまれは、ちがう」 「何が違う」 間髪を入れず、当主が畳みかける。 「どちらも、“大好き”なのだろう?」 その言葉に、カイの肩が小さく震えた。 答えようとして、口だけがわずかに動く。 「……それは」 否定したい。 でも、うまく言葉が出てこない。   好きだ。 大好きだ。 どちらも本当だ。 でも、同じではない。 同じでは――ないはずなのに。   「ほまれは……」 そこまで言った瞬間、視界が滲んだ。 ぽろ、と一粒こぼれた涙を皮切りに、次々と溢れて止まらなくなる。 自分でも理由が分からないまま、ただ胸の奥が苦しくて、息が詰まった。 言わなければ。 でも、言葉にならない。 唇が震えた、その時だった。 「お祖父様!」 勢いよく扉が開き、大きな音が室内に響いた。 航が、飛び込むように入ってくる。 「いらっしゃるのなら、事前に連絡を……」 まずカイへと視線を向ける。 涙に濡れたその顔は、表情もなく固まったまま。  だが、すぐに当主へ向き直り、二人の元へと歩み寄ってきた。当主は、視線だけを向け、一蹴した。   「何だ、騒々しい。 上に立つ者の振る舞いではないな」 「――申し訳ありません。 しかし、あまりにも急な来訪は」 「何か不都合でもあるのか? 孫の見舞いに、わざわざ許可を取れ、と?」 「……」 航は言葉を切り、カイの様子を確かめるように視線だけを動かした。 せっかく落ち着いたというのに、これでは全てが水の泡だ。 一体、何を言われたのだ。   そう思案する航から半歩遅れて、瀬戸がカイのそばへ寄った。 濡れた頬をそっと拭い、小さく声をかける。   カイは俯いたまま、瀬戸の上着を指先で摘んだ。 瀬戸は、その肩を静かに撫でる。 「恐れ入りますが――これ以上は、坊っちゃまのご負担でございます。 本日は、お引き取り願います」 そして、恭しく頭を下げる。 当主の目が細まり、眉間に皺が寄った。 その瞬間を逃さず、航が言葉を重ねた。 「……お祖父様。 続きは、こちらで承ります」 航がそう言って、内扉の方へと促す。   当主もまた、一度だけ櫂を見てから、無言で立ち上がっる。その背に向かって、カイが震える声で訴えた。 「……あいしてないと、けっこん、できないんだよ」 当主の足が、止まる。 「愛など必要ない。 結婚は、家同士を繋ぐ契約に過ぎん」 そして一拍を置き、振り返りもせずにそう言い残すと、再び歩を進めた。 航が無言のまま内扉を開け、当主をその先へと促す。   院長室には、既に満が控えていた。 当主が応接セットに腰を下ろすと、満は静かに珈琲を差し出し、そのまま航の後ろに控える。 短い沈黙ののち、当主が口を開いた。 「お前の報告は、概ね理解した」 航は膝の上で両手を組み、傾聴する。 「卯月への感情は恋慕ではない。 あくまでも執着――そういう診立てだったな」 「……はい。 現状は、その理解で差し支えありません」 当主は航を一瞥し、軽く目を細めた。 「一方でお前は、卯月はあくまでも相談役だと報告してきたが、どうやらそれは正確ではなかったようだ。あの子の話を聞く限り、卯月は――瀬戸に近い役割を果たしている。 要は、内向きか外向きか。それだけの差だな」 核心をつかれ、室内に緊張が走った。 航の指先に、自然と力がこもる。 ――だが。 次に口を開いた当主の言葉は、航と満の予想とは少し違っていた。 「あの子は、なぜか瀬戸にしか懐かん。 しかし、あれも高齢だ。そう長くは使えまい。 だからこそ、後任探しには長く頭を悩ませてきたが……。ようやく、見つかった」 その意味を理解した航の表情が、更に強張った。 だが、当主はそれを意にも介さず、淡々と続ける。   「櫂には、外向けに正式な妻を立てる。 卯月は、内に入れればよい。 瀬戸の後任として置く分には構わん。あの子の状態を考えれば、その配置が最も効率的だ」  張り詰めた空気の中、航がようやく口を開いた。「……彼は、卯月 誉は、極めて優秀な医師です。 未来のある人材を家に入れて囲うなど、損失が大きすぎます」 当主は眉一つ動かさずに、答える。   「不足か? ……どこの馬の骨かも分からぬ男だろう。 それを、如月に上げると言っている。 ――これ以上の譲歩はできん」 航が立ち上がりかける。 だが、反論を重ねる前に、当主は巧みに話題を切り替えた。   「――いずれにせよ、対外的な支えの整理は必要だ。 次週、新病院創立記念の祝賀会があったな。 そこで正式に、櫂の縁談を進める旨を公表する」 「いくらなんでも、急すぎます。 実際にご覧になってご理解頂けたと思いますが、櫂の状態は決して良くない。 ましてや結婚だなんて、到底……」 「急ではない。 それに、"結婚"はあの子が望んでいることだろう?」 「……いや、櫂が望んでいる結婚は……」   そのタイミングで、満が小さく咳払いをした。 嗜めるようなその視線に、航は言葉を飲み込む   「兼ねてより、考えてはいた。 非公式だが、既にいくつか縁談の打診も来ている。 今回の件で、他の関心も集まっているようだ」 「しかし――」 食い下がろうとする航を鋭い眼光で刺し、当主は淡々と続けた。 「むしろ、今こそ好機だ。 正式に次男の結婚を視野に入れていると示せば、今回の件による余計な憶測も封じられる」 ――まずい流れだ。  航の眉間に、深い皺が刻まれた。 櫂の政略結婚。   それは、航が最も恐れていた事態だった。 だからこそ、兄としてここで食い下がるわけにはいかない。   「それでも、縁談まで一度に進める必要はないでしょう。まずは、体調の回復を優先すべきです」   当主は、そんな孫をしばし無言で見据えた後、淡々と続けた。   「体調など、整えればいい。 満、主治医はお前だったな」 その視線が、満へ向けられる。 満は背筋を伸ばしたまま、静かに答えた。 「はい」 「櫂を次週の祝賀会に出す。やれるな」 「……薬剤調整で一時的に整えることは可能です。 ですが、本人への負荷は決して小さくありません」 「ああ。祝賀会の時間だけもてばいい」 満は視線をわずかに伏せ、それでも淡々と続けた。 「出来ることは、情動波を抑え、反応を最小限に留めるところまでです。 要するに――人形のように壇上に置いておくだけ。 まともな受け答えは、期待できません」 航の指先がぴくりと動いた。 だが、当主の表情はまったく変わらない。 「かまわん。 如月の次男として、皆の前に立つ。 それが、櫂の役割だ」   満は一礼した。 「……かしこまりました」   航は何も言わない。 ただ、拳を膝の上で静かに握り締めていた。

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