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3-9.
突然浮上した意識の中。
航は目を開こうとしてーー止めた。
ちょうどよい重みと、その柔らかな温かさ。
それから、聞こえてくる規則正しい呼吸音。
何故だかは分からないが、とても心地良い。
思わず胸の中のそれを、ぬいぐるみのように抱きしめる。ふわりと香るのは薬品の匂いと――その奥に隠れた甘い香り。
こうしていると、やけに落ち着く。自然と口元が緩んだ後、そのまま再び思考が沈みかけ――。
「いや、待て。え?」
航は、いきなりそう声を出して、勢いよく起き上がった。
カーテンの下から漏れる明るい光が、朝の訪れを否応なしに教えてくれている。状況を瞬時に理解した航は、
「マジかよ、最悪だ……」
と、頭を抱えた。
まさか弟に付き合って、自分まで寝落ちするとは。
慌てて時計を見ると既に9時半を回っている。
「いやいや、ありえない。やべえ」
焦ってベッドから降りようとした、その時。
「ん……」
カイがそう声を漏らし、更にぴたりとくっついてきた。
身動きが取れない。
いや、単純に振り払えばいいだけなのだが――昨日の様子を思い出すと、どうしても憚れた。
そこで航は、何とか動ける範囲でスマホを手探りで探す。カイの枕元に無造作に投げ出されていたそれを引き寄せて、画面を開いた。
記憶が正しければ、朝イチから海外との会議があったはずだが――。
「午前中の会議は、すべてリスケしました」
予定表を開くよりも早く聞こえたその声に、顔を上げた。ちょうど満が、院長室との境目である内扉の前に立ち、ため息をついているところだった。
「……勝手に人の予定を弄るなよ」
「なら、人に予定を弄られるような行動は避けてください」
「……スケジュール狂ったから、怒ってんの?」
「ええ、怒ってますよ。
寝落ちするほど仕事を詰め込む、貴方の働き方に」
「……」
航は借りてきた猫のようになりながら、近づいてくる満を目線だけで追う。
満はベッド横の椅子に腰を下ろすと、抱えていた血圧計のカフを差し出した。
航が大人しく右手を出すと、手際よく巻き測定を始める。その数値を見た満が小さく眉を上げた。
画面を覗き込んだ航も、
「……間違いじゃないか?」
と疑いのまなざしを満に向ける。
満がもう一度測り直すが、数値は変わらない。
「……低いですね」
「壊れてんじゃねえの?」
「いいえ。しかし、これではっきりしましたね」
「……?」
「原因は単純です。ストレスと疲労。
自律神経が乱れてただけですよ」
その言い方に、航は露骨に顔をしかめた。
「俺はストレスなんか感じてないし、疲れてもいない」
満は一瞬だけ黙り、それから呆れたように肩を竦める。
「そういう人ほど、身体に先に出るんですよ。
――ほら、あなたが大好きな数値を見て。証拠です」
そして、もう一度血圧計の画面を軽く叩く。
「ちゃんと寝れば戻るんです。
つまり、普段ちゃんと休めてないってことですよ」
航は納得いかない顔のまま黙り込んだ。
満は淡々と血圧計を片付け、今度はペットボトルを差し出す。
「とりあえず、水を飲んでください。あなたは、言われないと水すら飲まないんですから」
「朝から小言が多いなぁ……」
ぼやきながらも航は素直に受け取って、半分ほど一気に飲んだ。それからもう一度手を出し、軽く振ってみせる。
満は一瞬首を傾げーーすぐに察した。
ため息をつく。
「……この数値なら、薬は様子見でいいでしょ」
それでも航は、じっと満を見たまま手を下げない。満が、呆れたように言う。
「あなた、内科医なのだから。
そのくらい、言われなくとも分かるでしょ」
「知らん。忘れた」
「……」
そしてそんな子供じみた反応に、深いため息をつく。
「図星だからって、拗ねるのやめてもらえます?」
航はむっとした顔で視線を逸らし、仏頂面のまま何も返さなかった。
するとその時、カイが、小さく身じろいだ。
まだ目は半分も開いていない。
ぼんやりしたまま、航の太ももに頬を擦り寄せる。そこから手をお腹に伸ばすと、そのままよじ登ろうとしてきた。
それを見た満が、声を落とす。
「起こしてしまいましたかね」
「いや……多分、半分寝てる」
航はそう言いながら、カイの背中を撫でていた。
昨夜の延長みたいに、自然に引き寄せる。
すっぽり兄の胸の中に収まると、カイはふぁっと欠伸をした。が、次の瞬間には、眉を寄せる。
「ううん……」
そしてそう低く唸って、頭を抱えた。
「痛むのか?」
カイは答えない。
ふと満がベッドサイドテーブルの上に置きっぱなしになっていた薬包を見つけ、静かに航を睨んだ。
「し、仕方ないだろ。
夕べは、飲ませるどころじゃなかったんだ」
「経口以外でも、やり方はあるでしょう」
「……寝落ちしちまったんだもん、俺が」
「……だもん、て。あなた……」
満にまた深いため息をつかれてしまったので、航はバツが悪そうに肩を竦めた。
満はそれを気にもとめずに、カイの頭を撫でてやりながら、
「頭、痛いね。もう少し"ねんね"しましょう」
と、打って変わって柔らかな声で言い聞かせる。
「……ん」
カイは目を閉じたまま、航のシャツをきゅっと掴み直す。また眉を少しだけ寄せた。
「かなり痛むようですね。
昨夜強く泣いたことと、薬抜けの反動でしょう」
航はカイの後頭部をそっと撫でる。
「起こした方がいいか?」
「いいえ。このまま再入眠させましょう」
その様子から、経口接取は無理と判断をした満は、注射の準備をしながら続けた。
「軽く鎮静を入れます。しっかり休ませます」
航は頷き、何も言わずにカイの身体を抱き直した。
カイは抵抗もなく航に体重を預けてくる。同時に、その瞼がようやくうっすら開いたが、どこかぼんやりとしていた。
しかし、満が右の袖をまくり上げた途端、腕を引いてイヤイヤをする。
「……大丈夫、すぐ終わるよ」
顕になった上腕の酷い青痣。
航は思わず眉を寄せながら、声色だけは穏やかに囁いた。
「……ここ、ぎゅっとしとけ」
カイの両手を自分のシャツへと導いて、握らせてやる。するとカイは安心したように力を抜いて素直にそれに従った。
その間に、満が手早く消毒を済ませて針を入れる。
カイは、何の抵抗もしなかった。
ただ、航のシャツを握る指の力が、一瞬だけ強くなる。
「はい、終わりです」
絆創膏を貼りながら満が言う。
その頃にはもう、カイはほぼ眠り始めていた。
「……やけに効くのが早くないか?」
「疲労が溜まっていたのでしょう。
我々の目をかいくぐって、いろいろと考えを巡らせているようですから……」
満はそう言うと、サイドテーブルに置かれた絵本に目をやる。航もまた、神妙な顔で頷いた。
二人に見守られながら、カイは完全に脱力している。航の胸に頬を預けるその顔は、安心しきっているように見えた。
――やがて、小さな寝息が響き始める。
「先ほども申し上げた通り、午前中は予定を空けましたから……」
そのまま弟を抱え動かない航に、満が器具を片付けながら告げる。
「あなたも、もう少し休んでください」
「……」
航は何も言わずに、そっとカイを枕へ戻した。
起こさないように慎重に体を離し、そのまま自分も隣へ横になる。
やがて、満が退室すると、部屋はしんと静まり帰った。航は小さく息をつき、目を閉じる。
弟の寝息の音に呼吸を合わせているうちに、その意識はすぐに沈んでいった。
次にカイが目覚めたのは、昼を過ぎた後だった。
朝に投与された薬の効果が続き、意識ははっきりしていない。
昼食は、カイが渡されたスプーンを皿の上で遊ばせている隙を見て、瀬戸が口元まで運ぶことで何とか進めていた。
とは言え、進捗は芳しくなく、皿にはまだ半分以上の食事が残っている。
「さあ、坊ちゃま」
――不幸中の幸いか、今日はスープはいけるらしい。
瀬戸の言葉に、カイが口を半分ほど開く。
瀬戸も無理をさせるつもりはなく、一匙それを口に入れてやると、少し待った。
カイはスープを飲み込んで、深く息を吐き俯いた。
「……ここまでに致しましょう」
その様子から、瀬戸は即座にそう判断した。
ここで無理をさせるのなら、後で補食をとらせた方が効率的だ。
「たくさん召し上がりましたね。
きっと若さまも褒めてくださいますよ」
――瀬戸は穏やかにそう言って微笑む。
するとカイは小さく頷いて、嬉しそうに口元を緩ませながらぬいぐるみを抱きしめた。
――その時だった。
控えめなノックの後、返事を待たずに入り口の扉が開いた。
現れた人物を見て、瀬戸は反射的に立ち上がり、背筋を伸ばし、深く一礼する。
異変を感じ取ったカイもまた、その方を見た。
そして、小さく呟く。
「……おじいさま?」
当主は部屋の中を見渡し、視線をゆっくりカイへ落とす。スタイを掛けられ、食事を介助されているその姿に、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……坊っちゃま、先にお下げしますね」
そこにいるのが例え当主であっても、瀬戸は意に介することなくカイ優先で後片付けに入る。
それを、当主が低い声で止めた。
「完食させろ。まだ随分残っているではないか」
「若さまより、無理をさせぬように、とのご指示でございます」
「私の指示には従えぬと」
「はい。主治医のご指示ですから」
「――相変わらず無礼なやつだな、貴様は」
「恐れ入ります」
口元を小さく緩めそう言う当主に、瀬戸は恭しく頭を下げると、食器を下げた。
カイのスタイを外し、口元をぬぐってやりながら、すぐ戻る旨を告げた。
するとカイは、不安げに瞳を揺らしながら、うさぎをぎゅっと抱き込む。しかし、祖父の視線を真正面から受け止めきれず、少しだけ視線を逸らす。
瀬戸と入れ替わるように、当主はベッド横の椅子に腰を下ろした。
その無言の圧に、視線を泳がせながら、カイは不安げにうさぎの耳へ顔を埋めた。
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